チャチャヤン気分

《ヘリコニア談話室》後継ブログ

ブレイクニーズの建てた家(らっぱ亭奇譚集ラファティ以外のお蔵出し総集編)

2009年02月11日 00時00分00秒 | らっぱ亭
らっぱ亭編訳『ブレイクニーズの建てた家(らっぱ亭奇譚集ラファティ以外のお蔵出し総集編)

 出版物ではなく、PDF作品集です。副題でわかるように、本集は去年上板、否、上網された『満漢絶席(らっぱ亭奇譚集ラファティ総集編)につづくもので、これでほぼ編訳者の「作品」は網羅されています。

 内容は、
 イドリス・シーブライト「ヒーロー登場」 (初出>「タッツェル蛇の卵」)
 アヴラム・デイヴィッドスン「ブレイクニーズの建てた家」 (初出>「らっぱ亭奇譚集その弐」)
 ジーン・ウルフ「ゲイブリエル卿」 (初出>らっぱ亭mixi日記)
 クレイグ・ストレート「曾祖父ちゃんを訪ねる日曜」 (初出>「らっぱ亭奇譚集その弐」)
 リサ・タトル「骨のフルート」 (初出>「らっぱ亭奇譚集その壱」)
 アヴラム・デイヴィッドスン「最後の魔術師」 (初出>「らっぱ亭奇譚集その壱」)
 キャロル・エムシュウィラー「妖精 ― ピアリ ―」 (初出>「らっぱ亭奇譚集その壱」)
 ジェラルド・カーシュ「人じゃなく、犬でもなく」 (初出>「らっぱ亭奇譚集その弐」)
 キャロル・エムシュウィラー「石環の図書館」 (初出>「らっぱ亭奇譚集その弐」)


 私はたぶん初出誌で全て読んでいるはずなのですが、実はかなり忘れていまして、タイトルをみただけでは甦ってこないものもありました。読み始めたら「ああこれか」と思いだすのだけれども、読み始めてもそうならず、そのまま読み終わってしまったのも一篇あった。ひょっとしたら読んでなかったのかも(^^;

 それが実に「骨のフルート」で、そう判断したのはこの作品、一度でも読んでいたならば、決して忘れるはずがない傑作だったからなのです。
 内容は、いわば文化人類学風味の音楽SF。ラストの、骨のフルートと作中人物であるベンが出会うシーンで、何となく結末は見えてくるのですが、逆にそれゆえにゾクゾクしてしまいました。そういう構成も見事。
 ムード派といいますか、ムーアとかブラケットを現代的に甦らせた感じがしました。嫋々たる余韻がいいのです。こういうの大好きです。
 ところがらっぱ亭さんのHPにおける紹介文では、著者は「何とも居心地と後味の悪いホラー短編を特徴」としていると記されており、本篇みたいなのは異色作品なのかもしれません。いやまて、本篇もそういえば「男女間の嫌な話」ではありますね(^^;

 「ヒーロー登場」の初読時の感想→http://wave.ap.teacup.com/kumagoro/133.html

 「ブレイクニーズの建てた家」は、異様な迫力があり本集のベストを争う作品です。さすがタイトルに冠されただけのことはあります。

 「ゲイブリエル卿」は、どっちの方向からも意味が通りますが、現代生活、夫婦生活に押し潰されそうな英雄が泣かせます(^^; ちなみに聖燭祭は2月2日。ハリー・アップルドルフはハリーアップ・ルドルフ(トナカイ)?

 「曾祖父ちゃんを訪ねる日曜」は、オチをまったく忘れていて面白かった(^^;。設定自体は「クロニカ」のそれと同じなのだが、それを趣向として謎にしておいてオチに持ってきているので楽しめる。

 「最後の魔術師」は、ブラウンっぽいともいえるけど、ちと違う。英語に不自由な移民が綴り(スペル)を聞きたかっただけなのに、なんでこんな魅力的な話になってしまうのか? まさに錬金術。

 「妖精 ― ピアリ ―」
 茶色の服しか着ない、持ってない、それが全てを言いあらわしている、そんな初老の男が、ひょんなことで(男とはまったく正反対な撥ねっ返りの)孫娘を預かることになる。僅か5週間だったが、孫娘の「毒気」にあてられた男は……
 燃え尽きる一歩手前の蝋燭の最後に大きく伸びて揺らめく、炎のようなラストが切ない逸品。

 「人じゃなく、犬でもなく」
 カーシュ十八番の海洋もの。人生の達観者がかつて一度だけかけがえのない友情を感じたのは……。皮肉且つ真摯、笑ったらよいのか涙すればよいのかよく判らん怪篇。

 「石環の図書館」
 これはもう10回は読んでいる。ボルヘス的雰囲気の傑作。憚りながら私も、今やずいぶんエムシュを読んできたからいえるのだが、ボルヘス的なエムシュって、実は異色なんですね。でもボルヘスはこんな主人公は配置しないから、やはりエムシュでしかありえない。

 ということで、いかにもらっぱ亭さん好みの奇妙な作品がセレクトされていて読み応え充分。逆にいえば非常に翻訳しづらい翻訳家泣かせの作品ばかりを並べたとも言い換えられます。
「ブレイクニーズの建てた家」 なんて、浅倉久志さんが「翻訳不可能」な作品だといわれたのではなかったかしらん(^^;

 けだし、このような作品群は、逐語訳では伝わりきらない部分があるように思うのです(大衆小説はこの限りではない。用いられている観念やセンチメントが既成のものだから)。実質「翻案」に近くなるかもしれませんが、翻訳者の「解釈」で訳していかなければどうしようもない部分が少なからずあるのではないでしょうか。なのでそれはいきおい「批評性」を含まないではおかず、その翻訳は翻訳でありながら不可避的に翻訳者の「オリジナル作品」の様相を呈してくる。
 らっぱ亭氏の訳業は、たしかに翻訳者名を隠して読まされても、あ、らっぱ亭訳だな、とただちに気づかせる独自の文体があるように感じられるのですが、それはまさに「翻訳」でありながら同時に「オリジナル」であることに因っているように思われます。その独自性の部分が、またセンスがあって素敵なんですよね(^^)
 読んでみたいなと思われた方は、当方にメールいただければ添付ファイルにてお送りします(編訳者了承済み)。
コメント
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