小梅日記

主として幕末紀州藩の学問所塾頭の妻、川合小梅が明治十八年まで綴った日記を紐解く
できれば旅日記も。

自己紹介

2010-02-15 | 環境

私の名前は川合小梅。
文化元年(1804)の十二月二十二日に紀州・和歌山で生まれました。時の藩主は名君と言われた徳川治宝(はるとみ)様。
ロシア使節のレザノフが長崎にやってきた年です。
私は射手座で、寅卯天中殺。多分血液型はB型でしょう。
父は紀州藩の藩校で教鞭をとっていましたが私が五才の折に三十二才の若さで亡くなってしまってあまり記憶がないのが寂しいです。
でも、母と祖父が大事に育ててくれましたから、お転婆な好奇心の強い女の子になっていったのでしょう。
川合の家は学者一筋の家系だったようで、祖父は紀州の藩校の校長でした。父はこの衡という祖父に見込まれて婿養子として母の辰子と結婚したのです。そして私が生まれたという次第。
禄高は三十石だったとかで、まあ、中級武士というところでしょうか。
お転婆な私でしたが、祖父からは漢文、和歌を母から教え込まれました。勉強は好奇心を満たしてくれるので楽しかったですよ。
そうそう、絵も子供の頃から松亭先生に習ってました。大人になってからは頼まれてたくさん描いたものです。
修という十才年上の書生が我が家にやってきたのはいつだったか、気がつくと居たって感じで優しいお兄さんみたいに思っていました。
で、祖父と母はこの修サンを私のお婿さんにしたのです。私は一人娘でしたから当時のことで「家」を継ぐ関係から嫁には出せなかったのでしょう。
主人もやはり藩校(後には学習館と名前が変わったけれど)で教鞭を執る学者でした。

息子の雄輔が三十の時に生まれました。これも一人っ子です。
この子も藩校で教鞭を執るようになったのですが、明治になってしばらくすると高校教師になりました。
私は明治二十二年(1889)の霜月まで生きました。八十六才まで長生きしましたので、幕末から文明開化までのさまざまな出来事を見聞き、体験してきましてね、生来のメモ好きだったせいで日記とは言えませんが結婚して以来、日々のことや世情の動きなどをそこらにある紙に書き死ぬ前まで書きつけていました。
今では『小梅日記』などと郷土歴史家の方々の参考になってるようで、恥ずかしい限りです。
でも、紀州、和歌山のお天気だけはキチンとした資料にはなるかと自負してます。

門弟や親戚と人の出入りの多い賑やかな家でした。
また、名前もどんどん出世魚のように変わったりととてもややこしいのですが、日本が大きく動いた時期の家庭がどんなもんだったか知っていただければ嬉しいです。

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