和井弘希の蘇生

桂信子先生に師事。昭和45年「草苑」同人参加。現在「里」同人「迅雷句会」参加

正義31/新・人間革命

2014年02月07日 12時34分06秒 | 新・人間革命
    
      小説「新・人間革命」

【「聖教新聞」 2014年(平成26年)2月7日(金)より転載】


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 正義30(2/7)

 山本伸一は、固く心に決めていた。

 “尊き仏子が、悪侶から不当な仕打ちを受け、苦しむような事態だけは、いっときも早く収拾させなければならない。

 広宣流布にかかわる根本問題については、一歩たりとも引くわけにはいかぬが、会員を守れるなら、それ以外のことは、なんでもしよう。ともかく、大切なのは、わが同志だ。

 私が盾となる。矢面に立つ。何があろうが、会員は私が守り抜く!”

 娑婆世界とは忍耐の世界である。正義への確信ゆえに、彼は何ものをも恐れなかった。

  


 一九七七年(昭和五十二年)十二月四日、伸一は、宮崎県日向市にある日向本山定善寺の本堂新築落慶入仏式に参列した。この宮崎訪問で日達法主と胸襟を開いて話し合いを重ね、学会の外護の赤誠を知ってもらい、学会に反感をいだく僧たちの、会員への非道な仕打ちに、ピリオドを打ちたかったのである。

 伸一は、前日も、宮崎市内で日達法主と、僧俗和合のために忌憚ない対話を交わした。

 そして迎えた定善寺の本堂新築落慶入仏式で、あいさつに立った伸一は、日達法主をはじめ僧侶たちに、今後も学会は、誠心誠意、宗門を厳護していく精神は不動であることを強く訴えた。

 宗門との間に、枝葉末節の問題で意見の食い違いがあったにせよ、広宣流布のために不惜身命で突き進む学会の情熱と宗門外護の心には、いささかも変わりがないことを、わかってほしかったのである。

 彼は、各寺院の儀式にも、さらに力を注ぐことを述べ、謝意を表し、最大の誠を尽くして、あいさつを終えた。

 伸一が一切の行事を終え、宿舎のホテルに戻ると、連絡があった。日達法主が、伸一に歌を詠んだとのことであった。


 「我宿の 松原越の 日向灘

     波静にと 祈りつ眺む」


 伸一もまた、直ちに日達への尊敬と感謝を込めた句を作り、届けてもらったのである。


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冴返る/今日の俳句 ≪No. 1493≫

2014年02月07日 08時59分23秒 | 今日の俳句
     ☆冴返る/今日の俳句☆


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2014年(平成26年)2月7日(金)


   ■2月7日(金)■

○ 北方領土の日
 日本政府が1981(昭和56)年に制定。
 1854(安政元)年12月21日(新暦1855年2月7日)、日露和親条約が締結され、北方領土が日本の領土として認められた。
 北方領土は択捉島・国後島・色丹島・歯舞諸島からなり、面積は4996平方kmで沖縄の2倍強ある。
 江戸時代から日本は北方領土の開発・経営をしていた。「日露通好条約」により、ロシアとの国境が択捉島とウルップ島との間に確定された。その後、1875(明治8)年の「樺太千島交換条約」によって樺太全島を放棄する代わりに千島列島全てが日本領となり、1905(明治38)年の日露戦争の勝利により、「ポーツマス条約」で南樺太も日本領となった。
 第2次大戦の敗戦により、1951(昭和26年)の「サンフランシスコ平和条約」で、日本が戦争によって奪った土地の権利・権原等は放棄することとなり、千島列島もその中に含まれた。しかし、北方領土は戦争によって獲得した土地ではなく、権限を放棄する千島列島には含まれないが、ソ連は千島列島の一部であるとして北方領土を占領し、その状態が現在まで続いている。

※ 瓜人忌
 俳人・相生垣瓜人の1985(昭和60)年の忌日。
 兵庫県高砂町(現、高砂市)生まれ。
 1920年、東京美術学校の製版科を卒業する。その同年に、浜松工業学校(現在の静岡県立浜松工業高等学校)に赴任し、その図案科教員となる。その傍ら、俳句活動に熱を入れ、1928年には「ホトトギス」に、1930年には「馬酔木」に投句活動を行う。1933年には水原秋桜子に従って、「馬酔木」の同人となるも秋桜子の脱退に伴い、それを共にす。戦時中は投句活動を中断していたが、戦後の1947年には俳誌「あやめ」に投稿、またその翌年の1948年に再び「馬酔木」へ投句を行う。1950年には「あやめ」を「海坂」に改題し、百合山羽公と共に撰者として活躍する。
 1949年には浜松放送局聴取者文芸俳句撰者に抜擢される。1976年には句集『明治草』などが評価され、第十回蛇笏賞を受賞する。
 1985年、風邪から心筋梗塞を併発し、意識を失ったまま永眠する。享年86。

【「ウィキペディアフリー百科事典」より転載】


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  ■※今日の俳句※■


  
  子規堂の一机一硯冴返る
         伊吹ぬい子


  凍てもどり木曽路は夜へ渓響き
         福田蓼汀


  地に下りて鳶の大きさ戻り寒
         光木正之


※ 冴返る→凍返る・寒戻る。
 そろそろ暖かくなりかけたと思うと、また寒さが戻ってくるのをいう。寒さがぶり返すと、ゆるんだ心持ちが再び引き締まり、万象が冴え返る感じをもつ。
 「凍返る」は寒さがぶり返して大地の凍てが再び戻ること。
→余寒・春寒・冴ゆ(冬)。

【「合本・俳句歳時記/第三版」(角川書店)より転載】


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※わが友に贈る/名字の言※
【「聖教新聞」2014年(平成26年)2月7日(金)より転載】


  ■※わが友に贈る※■


 「感謝」の心が
 無限の力を引き出す。
 「報恩」の人生に
 行き詰まりはない!
 わが誓いを貫け!

        2月7日



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  ■※名字の言※■


金閣寺放火事件が起きたのは1950年(昭和25年)7月のこと。犯人は若い寺僧であった。言わずと知れた三島由紀夫の『金閣寺』は、同事件に材を取った小説。一方、犯人と同郷だった作家・水上勉にも『金閣炎上』と題する一冊がある。こちらは綿密に取材を重ねて著したノンフィクションだ



後者を開くと、当時の仏教界の実態がよくわかる。寺は多額の拝観料に潤い、住職は酒に溺れ、花街に遊ぶ日々。欲望にまみれた寺の内情を見て、犯人は僧として生きることが嫌になってしまったのではないか、と水上は推測している



敗戦下、国民の生活は苦しかった。ところが坊主は、のうのうと暮らしている。民主化へと向かう時代にあって、庶民を食い物にする既成宗教界への反発は、必至であったろう



52年(同27年)、民衆運動の新たなうねりが、本格的にスタートした。「2月闘争」である。「宗教のための人間」から「人間のための宗教」へ。日本の戦後史における、この人間復興運動の時代的意義は大きい



今、世界広布の新時代を迎えた。平和創出への、一大民衆運動の開幕である。国籍・人種を超えて、笑顔と励ましの連帯が広がる。その世界史的意義は尊い。さあ、新たな人間復興の「2月闘争」を!(生)


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2月6日(木)のつぶやき

2014年02月07日 02時18分30秒 | 今日の俳句