ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート

「神話探偵団~スサノオ・大国主を捜そう!」を、「ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート」に変更します。雛元昌弘

神話探偵団133 「大国主王墓」を捜す 

2020-04-16 06:02:02 | スサノオ・大国主建国論
 2016年11月に、出雲市在住・ゆかりの菊池孝介・石飛仁氏ら4氏に御案内いただき、「梁山泊」の合計9名が2泊3日の「出雲神在月忘年旅行」に行ったときに「『大国主王墓』想定地メモ」を作成しましたが、その表を分解してこのメモとしました。 
 「邪馬台国はどこか」「卑弥呼の墓はどこか」については多くの人の関心が深く、天皇陵についても発掘を求める声が考古学者から出ているにも関わらず、不思議なことに、古事記が記した豊葦原の千秋長五百秋(ちあきのながいほあき)の水穂国の「大国主の墓はどこか」や、桓武天皇第2皇子の第一流の文人の52代嵯峨天皇が「皇国の本主」とし、ヤマタノオロチ退治で有名な「スサノオの墓がどこか」については誰も追究しようとはしていません。「皇国の本主」の建国王の解明を恐れ、神話として空想の世界に閉じ込めてきたのです。日本の考古学は150年近く前の1873~7年のシュリーマンのトロイア以前の水準といえます。
 スサノオ・大国主建国論をテーマにしている私にとっては、避けて通ることのない課題です。
 私はこの「出雲神在月忘年旅行」では、以前、京大建築学科同級生の馬庭稔さんに案内していただいた時から考え続けてきた「スサノオ・大国主の墓はどこか?」をさらに追究したいと考えました。
 現地を訪ね大国主の墓地については一定の結論に到達することができましたので、紹介いたします。
 今後は地元、出雲の皆さんによって、「八百万神信仰」の世界遺産登録を目標に置きながら、スサノオ・大国主建国の証拠を見つけ出していただきたいと期待しています。
 世界に出かける日本人が「無宗教・自然宗教の未開人・野蛮人」として軽蔑されないためには、スサノオ・大国主建国と大国主の「霊(ひ)信仰・霊継(ひつぎ)信仰」(すべての命を大事にする八百万神信仰)を世界にアピールする必要があると考えます。雛元昌弘

大国主王墓候補地A 日御碕沖の水底
<想定の根拠>
① 出雲大社の神使は「海蛇」であり、海人(あま)族の霊(ひ)の国は海底にあると見られる。
② 出雲大社建設では海底の赤土や海布をとって祀りを行うなど海人族の儀式が行われている。
③ 大国主の子の事代主が「天の逆手を打ち成らして隠れた」先の「青柴垣」は海中である。
④ 柿本人麿の妻・依羅娘子(よさみのおとめ)の歌「今日今日とわが待つ君は石川の貝に交りてありといはずやも」は、出雲族の霊(ひ)が水底に帰ることを示している。
⑤ 鳥取・用瀬などの流し雛(雛流し)、長崎・熊本等の精霊流し、各地の灯籠流しは、霊(ひ)を海に帰す儀式である。
<結論>
 日御碕神社の神の宮はスサノオを祀り、隠ヶ丘もスサノオ伝説であり、大国主伝承がなく、可能性は低い。

大国主王墓候補地B 出雲大社背後の禁足地
<想定の根拠>
① 大国主は「天御巣=天の御舎」(出雲大社)を建てて住所とし、その子の百八十神は毎年、神在月に集まって大国主を祀ったのであるから、スサノオ時代の「地神(地母神)信仰」から「天神信仰」への宗教改革を行っており、出雲大社の後背地の神奈火山(神那霊山)に葬られ、その霊(ひ)はそこから天に昇った可能性が高い。
② 少彦名の死後、大物主との国づくりの条件が大物主大神を御諸山(美和山)の上に拝し奉ることであり、天神信仰は新宗教として確立していたと考えられる。
③ 高砂市の石の宝殿・高御位山の「大国主の建国・日本中心伝説」と、天皇王位継承が「高御座(たかみくら)」での「日継ぎ」(霊継ぎ)であることからみて、大国主は「天神信仰」の開始者である。
<結論>
 出雲大社背後の八雲山は禁足地となっており、大国主応募の可能性はある。しかしながら、縁結びなどの神議り(かみはかり)の後に、王達が別れの「直会:なおらい(神との共食)」を斐伊川上流の万九千(まくせ)神社で行っていることからみて、大国主王墓はその近くの可能性がより高い。

大国主王墓候補地C 西谷墳墓群付近
<想定の根拠>
① 出雲大社から上流の斐伊川左岸(西岸)の西谷墳墓群(西谷=祭谷)には2世紀末~3世紀の大国主一族の墓地がある。
② 王達が別れの「直会」を斐伊川右岸(東岸)の万九千神社で行っていることからみて、斐伊川対岸の西谷の丘陵地にある祖先墓に詣って別れを告げた可能性がある。大国主の墓のありかを隠すために、対岸に万九千神社を置いたと考えられる。
③ 1世紀の大国主の時代にはまだ大きな四隅突出型古墳を作る段階ではなく、西谷丘陵地のどこかにより小さな墓として築かれた可能性がある。
<結論>
 供え物を神と共にいただく直会で、万九千神社が斐伊川左岸(西岸)に西谷にないのは疑問であり、可能性は低い。

大国主王墓候補地D 神庭の地
<想定の根拠>
① 万九千神社が斐伊川の右岸(東岸)にあることからみて、大国主王墓は右岸側にあった可能性が高い。
② 『出雲国風土記』の「神代(かむしろ)社」が、「万九千社」にあたると伝えられていることからみて、元は神庭の神代神社の場所にあった可能性がある。
③ 大国主時代の出雲の中心は稲作と政治・軍事の中心は斐伊川右岸の可能性が高い。
④ 神庭の神代神社は「神庭荒神谷遺跡(神庭西谷)」の東、「大黒山」の北麓にあり、この山を越えた南側に「加茂岩倉遺跡(神財郷=神原郷)」があることからみて、大国主の政治的な本拠地はこのあたりにあった可能性が高い。
⑤ 東15~20kmにはスサノオを祀る「須賀神社」「熊野大社」がある。
<結論>
 出雲大社から斐伊川の万九千神社の現在の位置、万九千神社での直会儀式、元の「神代(かむしろ)社」の位置、神庭の地名、大黒山(大国山)の山名、神庭荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡への銅槍・銅鉾・銅鐸の集積、大国主が神財を置いたという神原郷の伝承から見て、大国主王墓の最有力候補地である。

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1 コメント

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Unknown (全くの素人です。)
2020-04-23 19:34:08
こんばんは。
スサノオ・織田信長を検索していましたらあなた様のブログにたどり着き楽しく読ませて頂きました。

織田信長が忌部一族、故に、四国は長宗我部に切り取り次第の命から、長宗我部家の四国統一目前にも拘わらず、阿波忌部の地、徳島県と淡路は三好家に返せ、最後には長宗我部討伐になりました(と妄想しています)。

また、光秀の領地が大国主と深く関わる土地、近江坂本と丹波亀山。そして最後に光秀に対して出雲・石見に国替えと何か意図があるように感じます。信長と光秀は何か二人で企んでいたと考えるのは浅はかではありますが、本能寺の変後に二人の遺体が発見されていない事から、歴史の表舞台から身を引いて影で歴史を動かす事をしていたのでは?と考えてしまいます。

信長と光秀に関して、古事記から紐解く事は可能でしょうか?
詰まらない突然の質問で大変失礼致しました。
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