ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート

「神話探偵団~スサノオ・大国主を捜そう!」を、「ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート」に変更します。雛元昌弘

スサノオ・大国主ノート140 縄文建築から出雲大社へ:玉井哲雄著『日本建築の歴史』批判

2022-10-24 17:10:39 | 日本建築論

 私がいつも利用しているさいたま市中央区の与野図書館では、毎月、テーマを決めて本を集めたコーナーがあり、帰りにたまたま目についた2冊、玉井哲雄千葉大名誉教授(東大卒)の『日本建築の歴史』(河出書房新社;ふくろうの本)を借りてきました。

                    

 今、スサノオ・大国主建国論のまとめに集中しているのですが、返却期限がきているのでざっと目を通したところ問題が多く、出雲大社論にも関わりますので、玉井氏建築説の批判をメモしておきたいと考えます。

 

1.建築=宗教建築起源説

 最初のイナバウアー(びっくり仰天の大のけぞり)1は、「雨風をしのぐための住宅いうよりは、人間として生きていくためのよりどころとなるような精神的な施設を最初の建築として考えた方がいいかもしれない」という玉井哲雄氏の奇妙な「建築=精神的施設=宗教建築」説です。

 なんと、建築を「寺院>神社>住宅」に3分類し、「建築=精神的な施設=宗教施設」として特別な位置に置き、書院造や茶室、城郭、土蔵などは住宅に分類していたのです。

 

  

 書院や茶室は「精神的な施設」には入らず、領主支配のシンボルとなる「城郭」や穀類などの貴重品を保存する「土蔵」などの建物を「住宅」に入れてしまうのですから、大多数の建築家は怒るのではないでしょうか。

 玉井氏によると「建築家が設計するのは建築であって、建物ではない」となり、寺院・神社の設計者だけが「建築家」で、他の住宅などの建物の設計者は「建物屋・住宅屋」にしてしまうのでしょうか、日本の大多数の建築家はこんな説を認めないでしょう。

 

2.寺院建築起源説

 イナバウアー2は、「日本列島でオリジナルな形で建築が成立したとは想定しにくい。・・・日本建築も大きく見れば中国大陸から、そして場合によったら朝鮮半島から入ってきたと考えるのがよいであろう」という日本建築中国・朝鮮起源説です。

 天皇家が仏教を採用する前に倭国にあった神社建築は「オリジナルな形の建築」として成立していなかったというのです。

 日本語が「主語-目的語-動詞」言語で中国語の「主語―動詞-目的語」言語とは異なり、「倭音倭語・呉音漢語・漢音漢語」の3層構造であることからみても明らかなように、倭人は中国文化をうまくを取り入れながらも縄文時代からの倭音倭語を現在まで維持し続けているのです。

           

 同じように、寺院建築様式を中国・朝鮮から取り入れたとしても、それは既存の倭建築様式の上に新たな様式を付け加えたに過ぎないはずです。

 玉井氏は「弥生人(中国人・朝鮮人)征服説」に立っているのでしょうか、旧石器人・縄文人から独自に内発的発展を遂げた倭人の歴史など眼中にはないようです。

 

3.寺院建築天武・持統朝確立説

 イナバウアー3は、「天武・持統朝に中国から律令など本格的な制度がもたらされ、・・・都城が建設され寺院も建てられていったのである。この時期の都城、寺院の華やかな建設を横目にみながら、簡素な神社建築の形式が整備されていった」というに至っては、冗談でしょうという以外にありません。 

 そもそも、藤原宮・平城京・平安京に城壁などはなく、中国を真似した「都城」ではありません。城壁で宮殿や街を防御する必要などない、インダス文明型の独自の「都」だったのです。環濠と城柵を設けた邪馬壹国の延長ではないのです。

 さらに、寺院建築について述べるなら、6世紀末に蘇我馬子が建てた法興寺(飛鳥寺、元興寺)や聖徳太子が建てた四天王寺や7世紀初頭の法隆寺から始めるべきでしょう。

           

 「寺院建築を真似て、神社建築が建てられた」に至っては、記紀に書かれた大国主の出雲大社(天御巣・天御舎・天日隅宮・杵築宮)を始めとする神社建築の歴史・伝承を完全に無視しています。

 玉井氏は釈迦の骨を収めたとされる「仏塔」には興味がないようですが、中国の仏塔が「高楼(楼観)型」の塔であるのに対し、日本の仏塔が「心柱(神柱)」を中心にした構造であることなど、玉井氏は「違いがわからない男」のようです。

 玉井氏は「仏教中心史観」(それも仏塔を無視したエセ仏教中心史観)を建築分野から打ち立てたいのでしょうか?

 

4.高床式建物神社建築起源説

 イナバウアー4は、玉井氏が「高床建物が神の象徴性を誇示する必要のある神社建築の原型と考えていいのではないだろうか?」という正当な考えを述べて、自らの混乱を示していることです。

 「高床建物→神社建築」を認めるならば、高床建物は縄文時代からありますから、日本建築史は「中国・朝鮮の寺院建築」からではなく、「日本建築の原型は縄文時代の高床建物」とすべきでしょう。

 学生時代に友人たちとよく寺院巡りを行った時のぼんやりとした記憶ですが、法隆寺や興福寺、唐招提寺、東大寺大仏殿など奈良の寺院は全て土間で竪穴住居系であり、京都の高床式の寺院とは異なっていたように思います。寺院が高床型になるのは神社建築の影響を受けていることが明らかです。わが国の寺院・神社建築の基本的な様式は、「寺院→神社」ではなく「神社→寺院」であることを示しています。

 玉井氏は青森の三内丸山遺跡や諏訪の中ツ原遺跡、阿久尻遺跡などの巨木建築や、三内丸山遺跡や大湯環状列石など縄文遺跡に普通に見られる高床建物の用途をどうとらえているのでしょうか? これらを宗教施設ではなく、住宅だというのでは論理矛盾もいいところです。

    

      

 なお、玉井氏とは関係ありませんが、中ツ原遺跡の長短の巨木再現、三内丸山遺跡の見張り台再現ですが、「建物も屋根を知らない縄文人バカ説」を世界に公表した恥さらしであり、こんな非科学的なものは撤去すべきです。柱穴が見つかっただけで屋根材・床材が発見されていないのだから柱しか建てられないというのであれば、他の全ての復元高床建物なども作るべきではないのです。

 私は後の土器・銅鐸の建物図をもとに、柱の太さにふさわしい高層楼観として復元するか、あるいは何種類かの小さな建物模型を展示するか、どちらかにすべきと考えます。

 

5.奇妙な伊勢神宮論

 イナバウアー5は、神社建築を伊勢神宮から始め、「伊勢神宮社殿の配置形式が整然としており、建築としての細部が洗練されていることは、本来伝統的な高床建築になかったものを仏教建築から学ぶことによってつくりあげたと考えられないか?」としながら、肝心のその証拠を何1つ示していないことです。

 玉井氏は「建築=中国・朝鮮伝来の仏教施設」を神社や住宅などの「建物」とは格別扱いし、伊勢神宮の配置が洗練されているのは仏教建築の影響ではないかというのですが、寺院配置の影響が伊勢神宮の配置のどこに見られるというのでしょうか?

 さらには伊勢神宮が「建築としての細部が洗練されている」というのはいったい伊勢神宮社殿のどの部分なのでしょうか?

 仏塔についていえば、「心柱」を中心にした構造は、出雲大社の形式を仏塔が取り入れているのであり、真逆なのです。仏教では死後に極楽か地獄に行ったきりであるのに対し、盆正月やお彼岸に祖先霊が帰ってくるなどもまた神道を仏教が取り入れているのです。 

 伝統的な神社建築は祖先霊が昇天・降地する神名火山(神那霊山)を遥拝する神殿(拝殿)であり、祖先霊が昇天・降地する神籬(霊洩木)=心柱(神柱:大黒柱=大国柱)を神殿の中心に置いた建築様式が出雲大社から続いているのです。仏塔と仏像を祀る金堂を中心に回廊で囲む寺院建築の影響など神社のどこにもありません。

     

 玉井説は、縄文時代からスサノオ・大国主建国、さらには現代へと続く日本文化・神道を低く見る、中国文化崇拝=仏教崇拝の劣等民族史観のトンデモ説という以外にありません。なお、玉井氏は仏教を精神史の中心に置くというなら、インド建築から論を立てるべきでしょう。

 

6.遊び・交流・芸術軽視史観

 すでに建築の分類でも触れましたが、イナバウアー6は、書院造や茶室、城郭、土蔵などを住宅に分類し「精神的施設=宗教建築」より低く見る奇妙な建築思想です。

 第1に、宗教に関わらない実用的な建物には精神的な働きは見られないと玉井氏は言いたいようですが、住宅の中でも家族が団らんし、会話(おしゃべり)し、学び、歌い遊び、客をもてなす活動などは、立派な精神的活動です。また、華麗な城郭や立派な土蔵は権力や富の象徴とする精神的なシンボル機能を持っているでしょう。 

 第2に、日本ではもともと祖先霊を祀る神棚を住宅内にもうけ、それは仏教導入後の仏壇に受け継がれており、私の祖父母の家では神棚と仏壇の両方がありましたが、神棚を大黒柱(大国柱)のすぐそばの鴨居上に置いており、神棚こそ家の中心に置かれており元々の中心宗教が神道であったことを示しています。子どもの私には両方とも祖先を祀ってあるといわれ、田舎に行くと朝にご飯を神棚と仏壇の両方に供える役割でしたが、いったいご先祖はどちらにいるのか混乱していました。

             

 竪穴住居の中に石棒などを置いた縄文時代からの住宅内で祖先霊を祀る宗教文化は田舎では現代に連続しているのです。中国・朝鮮輸入の寺院だけを宗教施設として特別に扱うことなど倭人にはありえません。

 玉井説は、自分の専門分野の仏教建築を中心に置いて建築論を組み立てるという我田引水のトンデモ説というほかありません。

 

7.縄文起源高床建物無視史観

 イナバウアー7は、玉井氏の本で寺院・神社建築のあとにわずか7頁(127頁中)で「竪穴住居と高床住宅」を述べ、縄文時代からの竪穴住居や高床建築を日本建築の原型としていないことです。自分の専門分野ではないからといって軽く紹介して済まされる問題ではありません。

 どうやら縄文時代=原始・未開時代として低く見て、天皇家が7・8世紀に仏教建築を受け入れてからを建築史としたいようです。

 私が小学生の時は、竪穴式住宅=縄文時代、高床式建物=弥生時代の米倉として習ってきましたが、高床建物は縄文時代からあり、さらに巨木高層建築があったことが今や解明されてきているのです。これらの復元高床建築のある大湯環状列石や三内丸山遺跡は世界遺産に登録されているのですから、高床建築が縄文時代にあったことは広く公認されているのです。

    

 玉井氏は寺院建築の「法隆寺地域の仏教建造物」「古都奈良の文化財」「古都京都の文化財(京都市、宇治市、大津市)」「紀伊山地の霊場と参詣道」「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―」だけでなく、縄文建築を含む「北海道・北東北の縄文遺跡群」や、神社建築を含む「厳島神社」「富士山―信仰の対象と芸術の源泉」「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」「山・鉾・屋台行事」が世界遺産登録されていることを無視しています。

 玉井氏は最後に「発掘遺構の検討では、高床建物は弥生はもちろんのこと、縄文時代にもすでにあったという見解がかなり力を持ちつつある。もちろん発掘部材などの根拠が示されているのではあるが、研究者の間でも認めない人もおり、見解は分かれている」と付け足して言い訳していますが、そのような知識があるなら世界遺産登録遺跡の復元模型で採用されている多数派説をまず紹介してから、「研究者の間でも認めない人」として少数派の自説を具体的に説明すべきでしょう。

 

8.出雲大社無視史観

 イナバウアー8は、あたかも伊勢神宮から神社建築が始まったかのように伊勢神宮を最初に取り上げ、出雲大社を無視していることです。

 記紀によれば出雲大社(私説は紀元2世紀)が最初の神社であるのに対し、伊勢神宮は10代崇神天皇の頃(私説は紀元4世紀後半)の創建であり、神社建築をとりあげるなら出雲大社から始めるべきです。 

 記紀は出雲大社を大国主の「住所(すみか)、天御巣・天御舎・天日隅宮・杵築宮」としてその建築の様子を具体的に述べており、中古(平安時代)には16丈 (48m) 、上古(神代後)には32丈(およそ96m)であったという伝承がありますが、「中古→上古2倍」伝承が「上古→神代2倍」伝承にも適用された伝承ミスが起こっており、実際には神代32丈 (48m)で世界一の巨大建築であった可能性が高いと考えています。―「縄文ノート50 縄文6本・8本巨木柱建築から上古出雲大社へ」参照

                    

 平安時代、10世紀末の『口遊』(源為憲)は、「雲太、和二、京三」と記し、聖武天皇が建立した15丈(45メートル)の東大寺大仏殿、京都御所の大極殿をしのいで、出雲神社が日本で最高の高さであったことを伝えています。出雲神社は、10世紀においてもなお国教である仏教や朝廷の正殿(中央に皇位継承儀式に使われる高御座(たかみくら)が置かれた)よりも高い権 威を持っていることを、当時の人々は広 く認めていたのです。―以上『スサノオ・大国 主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』より

        

 玉井氏は天皇中心史観の信者であるからでしょうか、伊勢神宮から神社建築を書き始めていますが、正史「日本書紀」を無視していることと、どう折り合いをつけるのでしょうか?

 

9.竪穴住居土屋根説

 イナバウアー9は、玉井氏の「東アジアの北の地域で今でも建てられ、季節的な建物として用いられている竪穴住居」を例とした「このような形(注:土饅頭型)のほうが、防寒だけでなく、外敵に備えた構えとしても有利なのではないかと想像できる」という竪穴住居土屋根説です。

 どうやら縄文人北方起源説をもとに判断した説と思われますが、暖かな鹿児島県霧島市の上野原遺跡からは9500年前頃の細い部材を使った円形平面住居(注:床を掘り下げていない平地住宅)が見つかっており、積雪のある北に進むにつれて、床を掘り下げ、内部に構造材を入れて補強したと可能性が高いと考えます。

        

 防寒・防御のための土饅頭型竪穴住居説は縄文人北方起源説に基づく単なる「想像」にすぎません。―「縄文ノート69 丸と四角の文明論(竪穴式住居とストーンサークル)」参照

 なお、私は円形平面住宅のデザインを重視しており、そのルーツはアフリカにあり、東南アジアをへて南方から伝わった可能性が高いと考えています。 

        

     

 なお、石川県金沢市のチカモリ遺跡、石川県能登町の真脇遺跡、富山県小矢部市の桜町遺跡の巨木を半割にした円形の列柱跡は、円形竪穴住居から円形高床建築への移行を示しており、私はこれらは神の住処となる神殿と考えています。

    

 

10.巨木建物物見櫓説

 イナバウアー10は、「弥生遺跡」(私は「弥生時代はなかった」説)の高床建物を「コメなどを収納するクラ」とし、吉野ヶ里の「物見櫓、主祭殿、住宅」も「高床建物」にして「高床建築」としていないことです。「寺院からが建築」「寺院建築の影響を受けた神社は建築」という氏の珍説はここでも首尾一貫しています。

 復元された「主祭殿」を宗教施設と認めないということは、同時代の魏書東夷伝倭人条に書かれた卑弥呼の「鬼道」(祖先霊信仰)を宗教とは認めないということであり、吉野ヶ里遺跡や原の辻遺跡などの巨木建築は「高床建物」に分類しています。

       

 なお、玉井氏は魏書東夷伝倭人条に書かれている「楼観」を物見櫓としていますが、私はこれらは大国主の八百万神信仰・神名火山(神那霊山)信仰の宗教施設である出雲大社本殿の形式を受け継いだ「神殿」と考えています。

 縄文ノート「33 『神籬(ひもろぎ)・神殿・神塔・楼観』考」「50 縄文6本・8本巨木柱建築から上古出雲大社へ」で書きましたが、紀元3世紀の魏書東夷伝倭人条に「楼観」と書かれている大型建築は、その大きさや位置(吉野ヶ里遺跡では木柵の内側の濠のさらに内側に立地、原の辻遺跡では高台に立地)などからみて軍事施設の見張り台や櫓(矢倉)ではなく、多くの人々が昇って神名火山(神那霊山)崇拝を行う国見の展望機能を持った神殿、ランドマークタワーであり、縄文の巨木建築の建築思想・技術を継承していると考えます。

 

11.出雲大社縄文巨木建築起源説

 最期に、私のこれまでの主張、出雲大社縄文巨木建築起源説の紹介をしておきたいと考えます。

 死者の霊(ひ:魂)が神山から天に昇るという神山天神信仰のルーツはアフリカにあり、南・東南アジアをへて日本列島に伝わった。―縄文ノート「56 ピラミッドと神名火山(神那霊山)信仰のルーツ」「57 4大文明と神山信仰」「61 世界の神山信仰」参照

        

        

 前掲9のとおり、円形住宅もまたアフリカルーツの可能性が高く、南・東南アジアをへて日本列島に伝わった。―「縄文ノート69 丸と四角の文明論(竪穴式住居とストーンサークル)」参照

 信濃には縄文時代から神名火山(神那霊山)信仰があった。―縄文ノート「35 蓼科山を神名火山(神那霊山)とする天神信仰」「40 信州の神那霊山(神名火山)と霊(ひ)信仰」「44 神名火山(神那霊山)信仰と黒曜石」参照

      

 諏訪の「ヒジン様(霊神様)=女神」の住むと伝わる蓼科山を向いた阿久尻遺跡・阿久遺跡・中ツ原遺跡の巨木建築は世界最古級の神山天神信仰(神名火山(神那霊山)信仰)の神塔神殿である。―縄文ノート「104 日本最古の祭祀施設―阿久立石・石列と中ツ原楼観拝殿」「105 世界最古の阿久尻遺跡の方形巨木柱列群」「106 阿久尻遺跡の方形柱列建築の復元へ」「78 『大黒柱』は『大国柱』の『神籬(霊洩木)』であった」参照

 

   

          

          

        

 死者が全て神となり神名火山(神那霊山)から天に昇り、山上の磐座(いわくら)や神籬(ひもろぎ)(霊洩木)に降りてくるという霊(ひ)信仰=八百万神信仰の出雲大社は縄文巨木神殿の伝統を受け継いでおり、諏訪大社の御柱祭や姫路の広峯神社(牛頭天王総本宮)の御柱祭などは、神籬(霊洩木)信仰を現代に伝えている。―縄文ノート「33 『神籬(ひもろぎ)・神殿・神塔・楼観』考」「50 縄文6本・8本巨木柱建築から上古出雲大社へ」「118 『白山・白神・天白・おしら様』信仰考」「106 阿久尻遺跡の方形柱列建築の復元へ」参照

    

      

  

 神社建築の「高床」「千木(ちぎ)」「棟持柱(むなもちばしら)」の様式は、東南アジアの住宅建築をルーツとしており、ピー(霊)信仰やトカゲ龍・龍神信仰、イモ食・もち食文化、ソバや温帯ジャポニカ、とともにわが国に伝わった。―縄文ノート「106 阿久尻遺跡の方形柱列建築の復元へ」等参照

     

    

 縄文巨木建築や出雲大社は、氏族社会・部族社会(母族社会)の霊(ひ=祖先霊)信仰の共同作業を示す歴史遺産であり、イギリス・アイルランドのストーンサークルなど全世界共通の氏族・部族段階の宗教を示す歴史遺産であり、また、石器文明にはない木器・木造文明などを示す顕著な歴史文化遺産として世界遺産登録を進めることが求められる。―縄文ノート「11 『日本中央部土器文化』の世界遺産登録をめざして」「59 日本中央縄文文明世界遺産登録への条件づくり」「77 『北海道・北東北の縄文遺跡群』世界文化遺産登録の次へ」「82 縄文文明論の整理から世界遺産登録へ」「113 道具からの縄文文化・文明論」参照

 

12.玉井建築論を支えた世界・日本の歴史学・宗教学などの誤り

 日本建築のルーツを中国・朝鮮からの寺院建築とする玉井説の誤りは、そもそもは宗教中心史観、西洋中心史観、西欧流文明史観、天皇中心史観、中国崇拝史観などの誤りからきていると考えます。

 第1は、世界に普遍的に存在した霊(ひ:pee、祖先霊)信仰、死者の霊(ひ)が神山から天に登ると考えた神山天神信仰、死者の霊(ひ)が大地や海から蘇ると考えた地母神信仰や海神・龍宮・黄泉信仰、死者の霊(ひ)を天に運ぶ神使(風神・雷神、蛇神、トカゲ龍、龍神、鳥、猿など)信仰、人々に恩恵や災害をもたらす太陽や大地・海・森などの自然信仰などを原始信仰とし、ローマ帝国の国教となった絶対神信仰のキリスト教からを宗教とみる神学の影響です。仏教は絶対神信仰ではありませんが、世界宗教として玉井氏は特別の価値を置いたようです。

 第2は、人間の精神的活動の中心をキリスト教におく西洋中心史観の影響であり、玉井氏はキリスト教が支配した中世暗黒時代を変え、科学・文化・芸術などの復活を図ろうとしたルネサンスなどは眼中にないようです。玉井氏の建築論は西洋中世の宗教中心社会を建築に当てはめたようです。

 第3は、人類史を野蛮・未開・原始時代と文明時代に分ける西洋中心史観の影響で、玉井氏は縄文文明・文化を認めたくないのであり、縄文建築などないことしたいのです。

 第4は、記紀に書かれたスサノオ・大国主建国伝承を8世紀に創作された「神話」としてきた皇国史観と津田左右吉氏流の反皇国史観の影響です。玉井氏はを天皇制確立を建築史から支えるために寺院建築中心の日本建築史を確立したいようです。

 第5は、暗記・模倣好きの日本人に根強い「和魂」抜きの「和魂漢才」「和魂洋才」秀才に見られる中国・西欧崇拝の拝外主義であり、全編儒教(朱子学)思想の教育勅語好きにも見られるように、玉井氏は縄文時代からスサノオ・大国主建国に連続している倭人の建築文化・伝統など無視し、中国・朝鮮から導入した寺院建築から日本建築史を組み立てたのです。

 このような縄文人・倭人を貶め、卑下する玉井コンプレックス建築史観に対し、必要なことは縄文建築から出雲大社など八百万神神道の神社建築に続く建築文化の伝統を評価し、世界に情報発信することです。

 そのためには、阿久・阿久尻・中ツ原遺跡やチカモリ・真脇・桜町遺跡の円形巨木建築と出雲大社を始めとした八百万神神道の神社の世界遺産登録が求められます。

   

□参考□

<本>

 ・『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2017冬「スサノオ・大国主建国論1 記紀に書かれた建国者」(『季刊山陰』38号)

 2018夏「スサノオ・大国主建国論2 「八百万の神々」の時代」(『季刊山陰』39号)

2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

2018夏「スサノオ・大国主建国論3 航海王・スサノオ」(『季刊山陰』40号)

2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(『季刊 日本主義』43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

<ブログ>

  ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/



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