ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート

「神話探偵団~スサノオ・大国主を捜そう!」を、「ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート」に変更します。雛元昌弘

倭語論12 「大和」は「おおわ」「だいわ」か「やまと」か?

2020-02-07 11:46:50 | 邪馬台国
 「大和」と書いて「やまと」と読むことについて、みなさんは疑問を持ちませんでしたか?
 小学生の時でした。何にでも疑問を持ってしまう私は、「だいわ」ではなく、「やまと」と読むのに疑問を持ちました。とりあえず「やまと」と丸暗記しましたが、納得はしていませんでした。その疑問をずっと持ち続けていましたが、古代史をやるようになってようやく「やまと」の謎をとくことができました。
 では「大和」はもともとどう読まれていたのでしょうか? 「大」は倭音「おお」、呉音「だい」、漢音「たい」の漢字読みから、倭語では大和は「おおわ」であり、大和国は「おおわの国」と読むべきと考えています。
記紀(古事記・日本書紀)は、「大和」を「大倭」とも書いていますから、「わのくに」は元々は「倭国」でその後に「和国」と書き替え、さらに「おおわのくに(大倭国、大和国)」ができ、それを「やまとの国」と呼ばせるようになった、と私は考えます。
 そもそも、わが国の国名は次のようなタイプがあります。 

1 穀物国名 「いなのくに(委奴国,伊那国:稲の国)」「わのくに(倭国:倭=人+禾(稲))」「きびのくに(吉備国:黍の国)」「あわのくに(阿波国:粟の国)」
2 自然国名 「ひの国(肥国:火の国)」「きのくに(紀国:木の国)」「まつらの国(末盧国:松浦の国)」「おおみのくに(近江国:おお海の国)」
3 地名国名(地名の由来は様々) 「つしまの国(津島国→対馬国)」「いづもの国(出雲国)」・・・

 では「やまと」読みは何からきているのでしょうか? 「山戸」「山門」「山処」などの自然名や地名やからきているという説がありますが、奈良盆地は大きな平野であり、この国を「山の国」とすることは考えられませんし、ゆかりの古い地名もありません。
 記紀によれば、薩摩半島西南端の笠沙(かささ)の阿多(あた)にいた笠沙天皇家3代の2代目は猟師の「山幸彦」であり、兄は漁師の海幸彦とされています。その海幸彦の子孫は「はやと(隼人)」を名乗っていることからみて、山幸彦の子孫は「やまと(山人)」を部族名としていたと考えます。その笠沙天皇家4代目の「わかみけぬ(若御毛沼:8世紀に神武天皇の諡号=死号)」ら4兄弟は東遷して奈良盆地に入り、「大和天皇家」を建てたとされています。
 もともと奈良盆地は、スサノオ(大物主大神)の子の大年(大歳=大物主)が美和(三輪)の国を建て、出雲のスサノオ6代目の大国主の時に、大国主・大物主連合(大物主は代々襲名)が成立し、協力して国づくりを行ったと記紀は記しています。「美」は呉音「み」、漢音「び」に対し、倭音「うつく(しい)」ですから「美しい和の国」です。
 スサノオ・大国主一族の「わの国」は、「倭国」から「和国」に漢字を変え、それを受け継いだ大物主(スサノオの子の大年)一族は奈良盆地に入り、「美しい和の国」「みわの国」と称したのです。その後、スサノオ7代目の大国主の国づくりに協力し、大国主・大物主連合ができた頃に、大物主の「みわの国(美和国=三輪国)」は「おおわの国(大倭国=大和国)に名前を変えたのではないか、と私は考えています。

「倭(わ)」から「大倭・大和(おおわ)」、「大和(やまと)」への国名変遷



 そして、筑紫大国主王朝で数えて16代目頃に、薩摩半島西南端の笠沙(かささ)・阿多の山人(やまと)族のワカミケヌ(後に神武天皇)が傭兵隊として美和国に入り、10代崇神天皇の時に大物主の王女・御間城姫を妻として権力を奪い、「おおわの国(大和国)」を「やまと国」と呼び変えさせた、と考えます。
 「大和」を「やまと」と覚えさせる「皇国史観」の暗記教育に私はずっと疑問を持っていましたが、70歳を越えてようやく国名変遷の謎を解くことができました。
 『スサノオ・大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム:梓書院、2009年)において「やまと=山人説」を展開しましたが、『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(第2版:雛元昌弘著者名のアマゾンキンドル本)で「委奴国」からの国名変遷の経過を解明しています。雛元昌弘

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