ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート

「神話探偵団~スサノオ・大国主を捜そう!」を、「ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート」に変更します。雛元昌弘

神話探偵団90 「高御位山」で即位した大国主

2010-06-20 15:53:49 | 歴史小説
京都御所の紫宸殿に据えられている高御座(ウィキペディアより)

「ヒナちゃんのメモだと、まず、播磨国風土記に国司の上生石大夫(かみのおいしのまえつきみ)が登場し、713~15年に完成の播磨国風土記を国守の大石王が編纂している。その後、726年に聖武天皇が印南に行幸し、藤原4兄弟が死んだ翌年、738年には石村主真人が美濃の少目(しょうさかん)になっている。こう見てみると、この地には代々、大石=生石一族がいたと見てよいね。聖武天皇がこの地を訪ねたのも、生石一族と藤原一族への対抗策を練った可能性が高い」
慎重な長老も、今日はテンションが高い。
「そういえば、見学ルートを調べている時に気付いたんですけど、この山の北側には『神爪』という地名があります。当時はこの伊保山の南は海ですから、街道はこの北側の谷間を通ったと考えられます。そこに神が詰めていた関所があった可能性があります。他にも、この『大国の里』には、『大国』『神吉(かんき)』『神木』『神野』や『横大路』『日岡山』『天川』などの地名があります」
一番慎重な高木も雰囲気に飲まれてしまっていた。
「ボクちゃんも、推理の楽しさが分かってきたようだな。『かんき』は『神城(かみしろ)』だから、ここには環濠に囲まれた『城』がいくつかあった可能性があるな」
長老は、この地に吉野ヶ里のような「城」があったとイメージしているようだ。
「大物主との同盟ができた大国主は、石の方殿を諦めて、どこで建国の儀式を行ったのかしら?」
マルちゃんから、新たな問題が出された。ここは、高木の出番であった。
「古事記によれば、大物主は、『私を御諸山に祀るなら、共に国づくりをしよう』と申し出ています。そうすると、大国主・大物主連合の新たな国づくりの中心は、三輪山ということになりますよね」
愛郷心に燃えて、高木は新説を披露した。
「その可能性もあると思いますが、大国主一族は、代が変わる度に、三輪の大物主の下に使者を送り、王位継承を報告し、大物主を祀る儀式を行い、大物主一族の顔を立てたのではないでしょうか」
高木の単なる思いつきとは違って、ヒナちゃんちゃんは考え抜いていたようだ。
「なるほど。出雲國造神賀詞(かむことほぎのことば)は、その儀式を引き継いだのか。出雲国造だけが、新任の儀式として、天皇の前で神賀詞を述べたことが説明できるね。これは新しい説だね」
長老は学生の説に対しても、正しいと思うものは素直に認めるところは素晴らしい。
「10代崇神天皇、御間城(みまき)入彦の時に、大物主の磯城王朝は、入り婿のイニエ、後の崇神天皇に乗っ取られたと思います。大物主に対して行われていた出雲國造神賀詞の儀式は、その後、天皇家の権力が強力になった時代に天皇家に対して行われるようになったと思います」
ヒナちゃんはそこまで考えているのか、高木は恐ろしくなってきた。
「そうすると、ボクちゃんの三輪山での建国説はアウトね」
わざわざ念押ししなくてもいいのに、マルちゃんも人が悪い。
「大物主が三輪からここまで出向いてきたのだから、大国主―大物主同盟による建国はこの地でなされたに決まっているじゃないか」
カントクの推理の方が筋が通っているのは認めざるをえなかった。郷土愛から高木が発想すると裏目に出てしまうことが多い。
「ここまで来ると、大国主の建国の即位式は高御位(タカミクラ)山で行われた、これ以外の答えないと思うよ」
「播磨富士」と言われる美しい神那霊山を指さしながら、ヒメは断言した。
「天皇家の霊(ひ)継ぎの即位式が高御座(タカミクラ)で行われるようになったのは、大国主の高御位山での霊(ひ)継ぎの即位儀式を真似したのだと思います。天皇家の即位儀式の玉座の名前を、勝手に山の名前にしたりすると、首が飛んだと思います」
ヒナちゃんはとっくに正解に到達していたに違いない。高木は思いつきの推理を口に出してしまっことを後悔した。
「天皇家が高御座(タカミクラ)で即位式を行うようになったのはいつ頃なのかしら? それと、出雲国造が神賀詞(かむよごと)を奏上するようになった時期も知りたいわね」
ヒメの好奇心は留まるところを知らない。
「高御座は平城京の大極殿(たいごくでん)には据えられています。日本最初の大極殿は、天武天皇の飛鳥浄御原(あすかみよみがはら)宮にあったとする説と藤原京にあったとする説がありますから、天武天皇の時代にはあった可能性があります」
ヒナちゃんはよどみがない。
「大極殿は中国の道教では、天皇大帝の居所を言ったはずで、天皇大帝は北極星、北辰を指していたはずだったね。中国で「天皇」と称したのは唐の第3代皇帝の高宗で、天武天皇が天皇を号を使用し始めたのは、高宗に習ったのではなかったかな?」
さすがに、長老は詳しい。
「天武天皇の死後の贈り名は天渟中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)天皇で、真人は道教では仙人の別称とされ、八色の姓(やくさのかばね)の筆頭が『真人』です。従って、大極殿という道教的な名称は、天武天皇に始まるのではないでしょうか」
ヒナちゃんは実に幅広く調べている。
「とすると、大極殿と一緒に高御座もまた、天武天皇に始まる可能性が高くなるわよね。では、出雲國造の神賀詞はどうなの?」
マルちゃんが質問した。
「記録上は、716年、天武天皇の孫の元正天皇の時に最初に出てきます。712年に古事記ができますからその3年後、720年に完成した日本書紀ができる4年前になります」
ヒナちゃんはよどみがない。
「元にもどるけど、古事記や日本書紀には高御座や出雲國造神賀詞はでてくるの?」
高木がヒナちゃんに聞こうと思っていたことを、マルちゃんが先に質問した。
「古事記には高御座は出てきません。日本書紀では『タカミクラ』は、神武天皇のところで『宝位(タカミクラ)に臨みて』、孝徳天皇のところで『壇(タカミクラ)に昇りて即(あまつひつぎ)しろしめす』が出てきますが、天武天皇の即位では『壇場(タカミクラ)を設けて、飛鳥浄御原宮に即天位(あまつひつぎしろしめ)す』と書かれています。
この記述からみると、古事記の最後に登場する推古天皇までは、天皇家が高御座で「霊(ひ)継ぎ」の即位儀式を行うことはなかったと思われます。「霊(ひ)継ぎ」の儀式は古墳の上で行っていたのではないでしょうか。大極殿に高御座を設けるようになったのは、天武天皇からという可能性が高いと思います」
「出雲國造神賀詞は?」
「出雲國造神賀詞は古事記にも日本書紀にも出てきません。『続日本紀』に初めてでてきます」
スマートフォンを片手に、ヒナちゃんの説明にはよどみがない。調べ尽くしているようだ。
「ヒナちゃんの考えをまとめてみよう。
天武天皇は大海皇子と呼ばれ、火明命の子孫の尾張氏に繋がる大海氏に養育されていたと考えられる、播磨国風土記によれば、火明命は大国主の子で、この地に残されたとされている。スサノオ~大国主の一族の後押しを受けて権力を奪った天武天皇は、大国主のように高御座の上で即位儀式を行うとともに、大国主一族が大物主一族に対して行っていた神賀詞を、天皇家に対して行うように変更させ、出雲勢力と天皇家一族の融合を図った、ということになるかな」
長老から、いつもの指導教官口調の先輩風は完全に消えていた。
「ヒナちゃんお見事。100余国を支配した大国主に匹敵するスケールの人物は、天武天皇ということになるね」
カントクもすっかり納得の様子であった。

資料:日向勤著『スサノオ・大国主の日国―霊の国の古代史』(梓書院)
姉妹編:「邪馬台国探偵団」(http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/)

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