先ほど今年最後の家庭ゴミを集積場へ出してきました。
ふっと、とてもありがたいって思ったのです。日本中、同じような行政インフラ社会保障を享受できる国に生きていることを。
古来、八百万の神々はあらゆる所におわします、と。一神教のような懲罰はない、ただそれぞれの神様が居心地のいいように、祓い清めましょう。仏教やキリスト教が入ってくるまで、この小さな国に生きる人々は偉大な哲学の中にいました。ですから、日本はどこへ行っても祓い清められていたのです。ボランティアなんて言葉を遣う恥ずかしさ。誰に頼まれる事もなく、穢れを払い、手を差し伸べるのです。相身互いの気持ちで。
飾るのではなく、削ぎ落とす美しさを知っている国民、日本家屋がそれ!生活空間は、空間が生きる様式。無駄のない、簡素そのもの。貧しくてモノが買えなかったからでは決してない美意識。それが、日本人のDNA。空間をモノで埋めない、集めない。
それがいつしかモノに振り回される民に成り下がってしまいました。金品の多寡が基準となる心貧乏な人種の出現。
来る年。人々は、有り余るほどのモノに囲まれて、もっともっとモノを欲しがるのでしょうか?
終わりのない物欲。右肩上がりの経済活動を要求する人々。8:2位の割合で二極化。8が操られる人々。モノに取り付かれた人々。
来る年。「欲しい!」→「必要?」へ意識を変えることが要求されるような気がします。
マスメディアに振り回されない、「私は私」で生きることを意識することからスタートです。
あの3.11を経験した私達(間接的であっても)は、メディアの中の見知らぬ人達が、知った気に「ああだ」「こうだ」、それが何の力もなかった事実に直面させられたのです。「私は私」で生きることに、当たり前の事に気付いたって、思っています。ファッション一つとっても、もう、右も左も同じスタイルが徐々に減ってきているって思いませんか?
人の個人的な不幸をえぐり出すメディア。いつも言いますが、何の意義、意味があるのでしょうか?知らしめることに。
人は人の不幸が大好きという事です。無意識に「私はそうではない」という安堵感。
ねたみ・そねみが蠢くから、幸せ話はあまり好きではない。
ケニア・エチオピア辺りが人類の故郷らしい。まだ武器を持たなかった私達の祖先は、絶えず猛獣と自然災害に怯えてきました。その恐怖が私達の脳に刻み付けられて、瞬間反応が不吉な事を想像する今もなおなのです。ですから、個人の「私はネガティブ思考」なんて思う必要なんてないのです。全ての人類が共通して持っている様々な無意識の記憶、神という存在を否定しきれないのも、その恐怖から逃れる、慰めるための手段だったのですから。
同じ経験から、同じような事を考えるのも不自然ではないのです。
気が遠くなりそうな人類共通の経験に、連綿と続く個人の経験や思考が加わって、いつも「私」という個が存在しているのです。
無意識に操られる個人そしてその集団。その無意識からの解放もまたその個人でしかないことを知らなければ、いつも自分以外のせいにする怯惰な生き方の自分を、言い訳をする自分を見るのです。そしてそれがまた、未来の自分へ渡される無意識の層へ重ねられる負の財産として。
際限なくのめり込むモノへの執着は、愛の飢餓感の裏返し。
親との相克。暖かさへの飢え。
乗り越えられるのです、乗り越えなければ、自分が可哀想。
過去(無意識)に怯えるなんて。・・・けれど、ほとんどの人はそれを知りません、認めたがりません。意識しないから、始末が悪いのです。
肉体の健康診断はしても、心の健康診断はいない。心が操る肉体なのに。
来る年。マスメディアから遠のく自分を見る。全ての判断は自分にあるという意識。権威なんてない。自分にとって自分以上の存在なんてないという確かな認識。けれども、全ての専門家の業績は、自分のためにあると思ってもいい。解放、過去からの、無意識の悪しき束縛からの解放を人が得た時、きっと他者へ優しく、けれども、そこにある距離感を自覚して拘りあうようになるのです。
人は変われる。チョコチョコ顔を出す悪しき経験から来る思考、でも怯える事はないのです。それを否定すればいい事なのですから。
人を取り巻く環境に、過去の経験に怯える事もなく、影響されない強い自分に出会う。そんな来る年に。
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