どうしよう?もう返却しちゃおうかしら?でも、身分証明の一つでもあるし。etc.
運転免許更新のハガキを眺めつつ、オットット、期限切れになっちゃうわ、で行ってきました。
ーーーなななななんと、眼鏡使用が消滅。記載されない事に。
ウッヒヒヒ、でやんしょ?!
ここ2~3年、「目なんか悪くないのよ。遠くも近くも見えるのよ」って言い聞かせてきて、
アラッ気がつけば、ウン十年愛用メガネ、手にしてないわ。
裸眼両目で0,3+強度の乱視。・・・でした。
ええ、見えるのよ、円の開いてる部分(上下左右)のどっちの方が開いてるか。
ここから本題。
心理学再受講も回を重ねて。違う講師で受けています。
昨日は、催眠療法。意識が肉体を支配するのを見てきました。か弱き女性の支えのない腿の上に男性(講師)が乗ります。毎回、「ホント、凄い!」。催眠を解くと、同じ箇所に力を加えようとした途端「イタッ!」。
氷山に例えられる意識。過去の衝撃、不快経験などが、無意識(90~95%)に積もっていきます。そして、ほとんどの人の言動の元は、その無意識に積み込まれた他者及び自身が吐出した言葉に左右されているのです。そんなことはないって言ったとしても、事実なのですから仕方ありません。
他者に向かって吐出す言葉は、他者へ届く前に自分に届けています。そこでは、その言葉の善し悪しは判断されず、言った本人の無意識にストックされて、その量だけ本人を支配していきます。ですから、常に批判されてきた人は、批判します。そして又、批判の言葉を厚くしていきます。それを他者へ向けます、瞬時に自分に向かって言ってるとは気付かず。
無意識層に何をストックするか?ここがとても大事なのです。
否定する人は、ことごとく否定する環境に身を置きます。それを選んでしまうのです。
無意識がその人を誘導するのです。
くも膜下出血で緊急手術を受け、その後の心の不安定に悩まされたあたくしはカウンセリングを受けていました。名医でした。指示は何も出されません。あたくしが原因に気付くようにもっていかれた優秀なカウンセラーでした。
ある時、以前にも書きましたけれど、全身を貫く衝撃を受け、なぜか「私だったの?!」次の瞬間「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」声に出して泣き崩れてしまったのです。
自分でも、説明のしようもないそれは懺悔でした。
いっつも私が!って、そしてどこかで見返りを求めていた、傲慢な、そのあたくしの奥に隠れていた、正真正銘のあたくしに気付いてなかったって、瞬時に感じたのです。私は間違ってないって、その傲慢さを黙って見ていたもう一人の自分を感じたのです。そして、自分を見なさい、感じなさいって。
「もしかして、私は名医?」
「もしかして、私は全てをコントロールできるの?」
どこからも答えは聞こえてきません。けれども、確かに「そうよ!やっと気がついたのね」って、感じたのです。泣き崩れて自分に謝り続けていたあたくしは、次に嬉し涙を流してました。そして、初めて自分を信じてみようと思ったのです。何かがす~っと離れて行くのを感じました。軽くなった自分を。
そして、あたくしは病院通いを辞めました。
定期的に通院するように言われていた脳外科診療。パス!
その後、外傷も骨折も心筋梗塞の発作も、加齢によると思われる諸々も。
全て、そんなものは存在しないと、無視し続けてきました。ええ、存在しません。
悪しき、ネガティブな単語は認めないようにしています。トコトン、自分(全き自分)にとって善い言葉をストックするように努めます。ふっとネガティブな言葉が浮かんだ場合は、たとえば、「痛い」は、「痛くない」のように。悪しき言葉は徹底的に否定します。
目に関しても同様です。「ええ、よく見えるわ」って。
自分を活かすも殺すも自分の意識、言葉です。
神様も仏様も見えませんが、「私」は実体です。その「私」は「私」をどこへなりとも連れて行けるのです。何があっても「信じる」、様々なアクシデントがあっても、「信じる」私を、私は裏切りません。絶対というものはない?あります!信じる自分を自分は裏切りません、絶対に。誰かに寄りかかるから、寂しいのです。自分に寄りかかりましょう。しっかと受け止めてくれます。ええ、本当に。
運転免許更新のハガキを眺めつつ、オットット、期限切れになっちゃうわ、で行ってきました。
ーーーなななななんと、眼鏡使用が消滅。記載されない事に。
ウッヒヒヒ、でやんしょ?!
ここ2~3年、「目なんか悪くないのよ。遠くも近くも見えるのよ」って言い聞かせてきて、
アラッ気がつけば、ウン十年愛用メガネ、手にしてないわ。
裸眼両目で0,3+強度の乱視。・・・でした。
ええ、見えるのよ、円の開いてる部分(上下左右)のどっちの方が開いてるか。
ここから本題。
心理学再受講も回を重ねて。違う講師で受けています。
昨日は、催眠療法。意識が肉体を支配するのを見てきました。か弱き女性の支えのない腿の上に男性(講師)が乗ります。毎回、「ホント、凄い!」。催眠を解くと、同じ箇所に力を加えようとした途端「イタッ!」。
氷山に例えられる意識。過去の衝撃、不快経験などが、無意識(90~95%)に積もっていきます。そして、ほとんどの人の言動の元は、その無意識に積み込まれた他者及び自身が吐出した言葉に左右されているのです。そんなことはないって言ったとしても、事実なのですから仕方ありません。
他者に向かって吐出す言葉は、他者へ届く前に自分に届けています。そこでは、その言葉の善し悪しは判断されず、言った本人の無意識にストックされて、その量だけ本人を支配していきます。ですから、常に批判されてきた人は、批判します。そして又、批判の言葉を厚くしていきます。それを他者へ向けます、瞬時に自分に向かって言ってるとは気付かず。
無意識層に何をストックするか?ここがとても大事なのです。
否定する人は、ことごとく否定する環境に身を置きます。それを選んでしまうのです。
無意識がその人を誘導するのです。
くも膜下出血で緊急手術を受け、その後の心の不安定に悩まされたあたくしはカウンセリングを受けていました。名医でした。指示は何も出されません。あたくしが原因に気付くようにもっていかれた優秀なカウンセラーでした。
ある時、以前にも書きましたけれど、全身を貫く衝撃を受け、なぜか「私だったの?!」次の瞬間「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」声に出して泣き崩れてしまったのです。
自分でも、説明のしようもないそれは懺悔でした。
いっつも私が!って、そしてどこかで見返りを求めていた、傲慢な、そのあたくしの奥に隠れていた、正真正銘のあたくしに気付いてなかったって、瞬時に感じたのです。私は間違ってないって、その傲慢さを黙って見ていたもう一人の自分を感じたのです。そして、自分を見なさい、感じなさいって。
「もしかして、私は名医?」
「もしかして、私は全てをコントロールできるの?」
どこからも答えは聞こえてきません。けれども、確かに「そうよ!やっと気がついたのね」って、感じたのです。泣き崩れて自分に謝り続けていたあたくしは、次に嬉し涙を流してました。そして、初めて自分を信じてみようと思ったのです。何かがす~っと離れて行くのを感じました。軽くなった自分を。
そして、あたくしは病院通いを辞めました。
定期的に通院するように言われていた脳外科診療。パス!
その後、外傷も骨折も心筋梗塞の発作も、加齢によると思われる諸々も。
全て、そんなものは存在しないと、無視し続けてきました。ええ、存在しません。
悪しき、ネガティブな単語は認めないようにしています。トコトン、自分(全き自分)にとって善い言葉をストックするように努めます。ふっとネガティブな言葉が浮かんだ場合は、たとえば、「痛い」は、「痛くない」のように。悪しき言葉は徹底的に否定します。
目に関しても同様です。「ええ、よく見えるわ」って。
自分を活かすも殺すも自分の意識、言葉です。
神様も仏様も見えませんが、「私」は実体です。その「私」は「私」をどこへなりとも連れて行けるのです。何があっても「信じる」、様々なアクシデントがあっても、「信じる」私を、私は裏切りません。絶対というものはない?あります!信じる自分を自分は裏切りません、絶対に。誰かに寄りかかるから、寂しいのです。自分に寄りかかりましょう。しっかと受け止めてくれます。ええ、本当に。
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