ミクロもマクロも

心理カウンセラーが気ままに書き続ける当たり前

傲慢・恥知らず・不愉快!

2007-12-16 22:59:19 | Weblog
電車の中の相変わらずの風景。
着席してみれば、隣の女の子、おもむろにお化粧の開始。
す~ぐ席を立ちました。彼女から離れること10m。不愉快!
下半身を見せられるようで、気色悪いこと甚だしいったらありゃあしない!

食事時、感謝の言葉をはかないで、いきなり食べ出す恥知らず。
外国旅行、と言っても観光旅行はしないから滞在型。
必ず「いただきます」の言葉をその地の人に教える、もちろん日本語で。
同席する人々によって対応が異なる人を決して尊敬しません。その不遜さに
辟易です。謙虚さが感じられないって、最近では不愉快の上に悲しさも加わります。
なんでこう、恥知らずなのかって。傲慢な心模様を見せ付けられる不快さ。

子ども達を育てる時、耳にタコができるほど、「おなたならどうする?」を
繰り返してきたものです。
「ママお水!」
「お水がどうしたの?」
「お水が欲しい!」
「なら、なんて言うの?」
「ママ、お水を頂戴」
・・・・手渡す時、すぐ与えません。
「なんて言うの?お水は一人で来たの?」
「ママ ありがとう」
そうして彼はお水の入ったコップを手にするのです。

それは、誰であっても同じです。
大人は言わなくていい?・・・とんでもありません!
生きると言う事は、「お陰」で生かされていることなのです。

「いただきます」は、作ってくれた人へ、目の前に並べてくれた人へ、
自分が生きるために他者の命を戴くことへ、普通に食べられる境遇へ感謝!
ですから当然「ご馳走様でした」も心から言えるのです。
ええ、もちろん一人で食事する時でも当然のことですよね。
「いただきます」「ご馳走様でした」

「ありがとう」も、自分の出来ないことを代行してくれた、あるいはプレゼ
ントの心、その気持ちの好意と行為に感謝です。
家族間で言えない人を軽蔑します。シッシッシッシ近寄らないで!
人以下なのですから、そんな生き物と付き合う暇はない!です。だって、不遜・
傲慢なのですよ。触発されない人との関りは無駄です。
いつもいつも他者を批判する人は、他者から批判されると勘ぐる狭量な性格
ですから、内弁慶です。内弁慶の人は家族を大事にしません。いつも自分の
感情が最優先です。

生きることが、家族のあり方がどのようなものか知っている人は、外部に対
して臆することはありません。自分を本当に大事と思える人は他者へも優し
い気持ちを持てます。時として、自分を打っちゃることが出来るのです。
損得は存在しません。

生きることは又、日々己の未熟さを思い知らされることでもあるのです。
後悔の気持ちに苛まれる時を持つことでもあると私は思います。
そこに、本当の成長があり、他者への優しさが初めて誕生する瞬間を持つこと
でもあると思います。

親は、な~んにも偉くなんてないのです。
子どもがいて初めて親なのです。子どものまっすぐな視線を浴びなくてはなら
ないのです。子どもがいるから親になれるのですから、親はいつも試されてい
ることを知らなくてはいけません。
人として、子どもに尊敬される存在にならなければ、子どもは悲しみます。
子どもは純粋です。その純粋さを親は往々にして汚します。
計算高い人間にしがちです。与えることより、受けることばかりを望む姿を
見せ付けてきます。教えられて、育てられてこなかった子どもは、親の二乗の
下らなさの中で人生を歩きます。社会、いわゆる家族間以外の人々の中で浮い
てしまう自分に出会っていきます。お行儀も言葉遣いもいい加減な親は、子どもの
人生の水先案内人にはなりきれず、苦しい航海を子どもに味わわせてしまいます。

人と比較する愚かさに早く気付かなくてはいけません。
全ての人は、全て個性的な存在で、他者と比較する必要なんて何もないのです。
「私は私以外の何者でもない」事にいち早く気付いた人が勝者です。比較する
という愚行を犯さずにすみますし、自分をいとおしむ事を知ります。
そして、言葉の持つ力を知ります。
「ありがとう!」「いいえ、どういたしまして」
「大丈夫?」「お陰さまで」そして心から「ごめんなさい」
これらの言葉をスムーズに言える人は、何かの能力を持っている?肩書き?
社会的地位?そんなものを持つけれど不遜な人、をはるかに凌駕します。
肩書きも地位もなくなるけれど、失うものを持たない人は死ぬまでその宝を
持ち続けられるのですから。

ここで、もっとそれらと同じように、否それ以上に大切なことは
「いりません!」
捨てる勇気を持つことです。心の中にいつもビクビク人の顔色を見ているい
やらしい根性をポイッて捨てられる人は強いのです。
他者が自分にとって、恐るるに足りない存在ということを知ることは力にな
ります。幻影におののいている自分に気付くべきでしょう。するとアホらしく
て、その時間と感覚を自分に向けられるようになります。
私は欲しいものなんてない!ハッキリと
「ありがとう、でも要りません!」
嫌われてもいいじゃありませんか?その前にこちらから願い下げなのですから。
本当に必要なものは、決して形をなしてないものかもしれないことを知るべき
なのです。
そして、この悠久な人間の歴史に、先人達が残してくれた普遍的なことを取り
入れることに時間を割くべきでしょう。どうやって?
 
死ぬほど本を読みなさい!です。偏らないで、出来るだけ多くのジャンルを!
そうすると、見えなかった一条の光がまっすぐに射しているのをある時感じる
自分に出会うと思います。
私は母に育てられました。そう、養われたと同時に育てられました。どれほどの
薫陶を受けてきたことでしょう。感謝!母の娘であったことをどれほど誇りと
してきたか、ありがとうお母さん!です。そして、折節に出会った人生の指導者。
そして、そして、多くの本が私を育ててくれました。断言できます。
ですから、私は3人の息子達に「死ぬほど本を読みなさい!」と言い続けました。
きっと、彼らは作者に、登場人物に案内されるでしょうから。
本は優秀な水先案内人です。


お久し振り・Long time no see・ Cuanto tiempo・好久不見!

2007-12-16 12:42:03 | Weblog
 出戻りスペイン語スサーナクラスへ木曜日に出席は3週間ぶり。
先生のご都合で、開始時間も2時間遅れの19:30~21:30。
なかなかスペイン語モードに切り替わらない脳みそ。
"Espera un momento,por favor!"・・・お願いちょっと待って!が度々。

最近、朝9時ちょっと前には家を出て、帰宅は深夜の日々。片道行スペイン語
の相手をかまう時間もなくてね。毎朝、
"Buenos dias.Buon giorno.Good morning.早上好。アニョ ハセヨ
Huomenta.おはよう。”の掛け声から始まる私の1日。相手はもちろん愛犬
マリリンよ。抱きしめて、7ヶ国語で朝の挨拶。これを最近言ってないのよ。
彼女のお散歩もセニョール・ダンが係り。まだ、夢の中のマリリンへ、小さな声で
"Mama tengo que ir a OGAYA,por eso no puedo ir a paseo contigo.
Entendistes?"・・・ママはおが屋へ行かなきゃならないので一緒にお散歩は
できないのよ、わかった?って。

久々の休みは、何やかやと野暮用で潰れる。
昔々の読書スタイル通勤電車内。正味にすれば30分弱でしかないけれど、
貴重な時間なの。私の人生から活字がなくなったら、大袈裟に言えば生きていけない。
私の指が紙をめくらなくなった時は死ぬ時。
携帯?パソコン?電子辞書?ン~~~、それがどうした?
身動きできないほどの活字(本)に埋もれて、コーヒーと緑があれば、言う事無し!

最近は、イタリア在住”塩野七生”の本に夢中です。
「ルネッサンスの女達」を読み上げたわ。「ローマ人の物語」の間に入れてね。
おが屋は神大(神奈川大学)側で、ここも古本屋が何軒もあるそそられる界隈。
暇な時間は、その本屋を訪ね、悦楽の時間に浸ります。
昨日も昨日とて、かなり大きい1軒へ。2代と思しき女主人2人が店番。
古色蒼然とした、本達が所狭しと並べられ、積み上げられ、どちらと言えば
無秩序な配置の膨大な本達は、あちらこちらから私に
「一緒に連れてって!」
って、声をかけるのよ。
その声を振り払って、今回手にした本は、
私の一生を、女としての一生を決定づけしたと今なお思っている懐かしい本に
出遭った、その名は「魅せられたる魂」ロマン・ローラン。表紙は、これまた
私の大好きなセザンヌの静物画が物語を包んでいたのです。これは迷わず手に。
ディケンズの「炉辺のこおろぎ」。難しい漢字で書かれていて、「?」とっさには
読めなかったの、情けないことに。
姉夫婦とその友人達6人が来店。その中にいる義兄(中国人)へ訊ねれば、
事も無げにその難しい漢字を読んで。さすが漢字の国の人と感心よ。
もちろん塩野七生の本も。計5冊の本を手にして、
「今日はこんなところで勘弁してやろうじゃないの!」
なんて、自分にね。

年内は無休のおが屋です。
私のできることを受け持ちます。
けれどもそこはプロとアマチュアとの線引きが要求されますから、背筋を伸ばさ
なくてはなりません。「このへんで」「とりあえず」「ま、いいんじゃない」は
排除しなければなりません。
お客様の線引きは・・・ありません、否、してはなりません。
お若い方が、私の煮物を美味しいといって下さいます。
「便利・簡単」からは価値あるものは生まれない!・・・自論です。

いつか又、横浜の片田舎でぐ~たら読書三昧の日々に戻れるまで、私はおが屋で
働きます。ええ、もちろん無給ですよ。お金?セニョールのお陰で不足なく日々を
過ごしていますから、強いて必要ありません。
飢えていません!裸ではありません!履く靴も持っています!冷暖房自由の家に
住んでいます!何が不足でしょう!充分満ち足りた生活です。
私は寂しくありません。ですからモノに取りつかれてはいません。
際限のない欲望に踊らされてはいません。不幸な人間ではないのです。
何が私にとって必要か?充分知っていますから。
人に操られない!これこそ誰もが自覚しなきゃならない事だと思うのです。
流行?・・・無視する勇気を持ちましょう!そこに自己の確立が生まれるのですから。
誰かの仕掛けに乗ること、私が絶対に拒否することです。
自分を、最も大切な自己を他者に委ねては、自分に失礼。でしょ?ね?