ユッコ姉の日記

日々思うことをタリラリラン♪っと・・・。

あなたの特技はなんですか・・・?

2006年05月21日 08時58分56秒 | 思う事・・・
先日、子供が私に聞いてきました。
「おかあさん、僕の特技って何やろう?」
どうやら、他の小学校との交流会準備で、それぞれ自己紹介の紙を作る事になったらしいのですが、
自分の特技の項目が書けないでいるらしい。
私は自分の小学校の頃を思い出しました。

私も自分の特技を書けといわれると、いつも頭を抱えました。
先生は、「これだけは誰にも負けない、と思う物を書きなさい。」と言います。
でも、勉強も大して出来ない、スポーツもそう得意な方でなかった私は、
いつも自分の出来の悪さにため息をつきながら、必死で考えた物です。

でも、今なら分かる!
みんなより少しだけ体が柔らかくて、体育の柔軟運動の時は先生に褒められた事。
本を読むのが大好きで、学年で一番本を借りた数が多かった事。
また、読んだ本の題名と内容はすべて覚えていた事。
ソプラノの声を上手に出す事が出来て、クラスの合唱で、独唱した事。
リコーダーが好きで、友達とアンサンブルコンテストに出た事。
アニメの主題歌は50曲以上覚えてて、全て歌詞を見ずに歌えた事。
平泳ぎは10メートルしか泳げないけど、潜水なら25メートル泳げた事。
↑この状態で、中学の水泳部に入って泳げるようになり、市の大会で優勝した事。
マンガ本なら1冊15分で読み終える事ができた事。
本屋での立ち読み最高記録が8時間!という事。
持久走大会で、10位になった事。

くだらないと言えばそれまでだけど、体は硬くなり、声は低くなって伸びが無くなり、
読書の量もすっかり減り、体力も記憶力も衰えつつある今、
出来なくなって 初めて、それらが自分の得意な事だったんだと気づきました。

そう、特技って、「誰にも負けない物」じゃなくて、
「チョットだけ自慢できる物」で良かったんじゃないでしょうか?
つまり、ナンバーワンじゃなくて、オンリーワンです。

私は子供に言いました。
「何でもいいから、あなたが、ほんのちょっぴり友達に自慢出来る事でいいんだよ。」と。

子供は、
特技(ゲームでたくさんてきをたおすこと。)と、書きました。

後日の交流会、この特技が好評で、沢山の他校の子と話しが出来たそうです。

さて、では 今の私の特技はなんだろう?と考えました。
「・・・。」 ウーーン、やっぱり思いつきません。

きっともっと年をとった時、「ああ、あれが特技だったんだ。」と、
気づく時が来るのだと思います。

退院・・・

2006年05月20日 00時53分29秒 | 私の病気・・・
主治医は、私の都合のいい時に退院すればいい、と言うので、勝手に翌週に決めた。
退院後は、家に帰っても家族に迷惑をかけるので、暫くは実家に行く事になった。
主治医は、「そんなにあわてて行かなくてもいいのに。」
(そんなに、入院させときたかったのか?この病院はいつもベットが不足していて、
すぐ追い出されるので有名なはずだが?)

とにかく知り合いに退院する事を連絡し、主人に入院代を用意するように伝えた。
金額は約〇〇万円。

退院2日前になって病室に来た主人。入ってくるなり、「おい、どうするんや。」
何の事かと思えば、なんとお金が足りないと言う!

入院前に私が用意してあった金額。
たぶん足りないだろうから、その分用意しておくようにと言ったのに、
主人はそれを使い込んでしまっていた・・・。

「なんで用意しておかなかったの!」
「だって、こんなにかかると思ってなかったしー。」
「これだけでは足りないからって、入院前に言ってあったでしょう?」
「お前の入院が長すぎたんや!もっと短かったらよかったんや。」
「最初に、1ヶ月くらいかかるって、あなたも一緒に聞いてたじゃない!」
「一週間多かったやんか!」 主人怒って逆切れ・・・。

こんな話、とても病室では出来なくて、夜の談話室でボソボソボソ・・・。
まったく、呆れてものが言えない!
病院内でなきゃ、大喧嘩で罵り合ってる所だ!
面会時間はとうに過ぎて、主人は怒りながら帰っていった。

まさか入院費が払えないので、もう少し入院してます。と言う訳には行かないので、
翌朝主人に電話して、私の定期預金から出す事を伝えた。

なんとか入院費を払い終わり、実家に着いた私は、用意してくれていた布団に入ると、速攻で寝てしまった。

睡眠薬を飲まずに眠ったのは久しぶりだった。

手術後・・・(5)

2006年05月19日 00時44分28秒 | 私の病気・・・
4週間目に入ると、いいかげん入院生活にも飽きてきた。
もう、入浴も洗髪も許可が出ていて、2,3日おきに入っていたし、
顔以外、首から下は全く何ともないのでなおさらだった。

まだ、体に問題が無いわけではなかった。
物を食べるときは、鏡を見ながら食べないと、口の周りにべったり付いていても全く分からなかったし、
あまり硬い物は食べられないし、片方でしか噛めないから時間がかかる。
片方の目だけでは遠近感がなく、階段の上り下りはかなり難しかった。
(階段が平らに見える。特に、下りは段の高さが全くよめなかった。)
両目で歩くと、まっすぐ歩けない。
ベッドに横になると、目眩のような、頭痛もある。

でも、これ以上病院にいても、今の状態が良くなるわけでもなさそうだったし、
なにより、同じ病院内に担当医がいるのに、ちっとも会えないのはかえって不安が増していく。

夜中にやっとつかまえた担当医に、
自分なりに、退院後の注意事項を書いた紙を見せながら、
「もう、退院したいんですけど。」と言うと、

「うーーん、まあ、いいかあ。」

なんじゃそりゃ?
どっちでもいいんなら、もっと早く退院させてくれればいいのに!

入院してから1ヶ月が過ぎていた。

主人・・・(命の恩人 3)

2006年05月18日 01時27分20秒 | 主人・・・
私の記憶は水を飲んで意識が無くなった所から、川岸であえいでいる所まで記憶が無い。
主人に娘を渡されて引き上げた記憶は全く無いのだ。

後から気付いた事がいくつかある。
私は子供達を川岸に向かって必死で押していた。
でも流れに逆らわず、素直に流されていれば、僅か1m程で子供の足が届く場所に着いたのだ。
そして、主人もやはりパニクッていたのだろう。
川岸から子供達に手を伸ばさずとも、浮き袋が自分のすぐ横に積み上げて合ったのに、
それを使うことを思いつかなかった。

また、火事場のばか力というが、息子を放り投げた力はすごかった。
足の着かない水の中で、自分にしがみ付く息子を引き剥がし、
当時30㌔近くあった子供を高さ1.5mくらい、距離4mほども放り投げたのだから。
私が見た息子は、まるでスローモーションのように空中を飛ぶ息子だった。

この一件で、私はイロイロな事を思い知らされた。
分かっていたつもりだったけど
①どんなに泳ぎが上手でも、人間いざとなったらパニックを起こして泳げなくなることがある事。
 (泳げない人ならきっと、もっと怖いだろう)

事故後、布団に入ると溺れた時の記憶が浮かんで眠れず、半年ほど苦しんだ私は、
②PTSDって、ほんとにあるんだって事。
 (一緒にしちゃ申し訳ないが、神戸の電車事故でPTSDの人なんて、
  ほんとに苦しんでるんだろうなあ。たかが溺れた程度で私は半年苦しんだ。
  あの事故の時いた人達の苦しみはきっと半端じゃないと思う。
  どうぞ、頑張って元気になって下さいね。遠くからですが応援してます。)

③溺れて死ぬ時って、思ってたほど苦しくない?って事。
 (私の場合だけ?状況によるのかもしれないけど・・。 むしろその後のPTSDの方が苦しむ・・・)

④人間死ぬ時は過去の記憶が走馬灯のように見えるっていうけど、一概には言えないこと。
 (私は子供や自分の命じゃなくてビーチサンダルの心配だったし・・・

そして⑤、あれほど頼りにならないと思っていた主人が、ちゃんと私達家族を守ってくれた事。

(でも、それから数ヵ月後に少し強い地震があった時、
               やっぱり主人はタンスを押さえていたのでした・・・

手相占い・・・

2006年05月17日 10時01分02秒 | 私の病気・・・
私が二十歳の時、手相占いをしてもらった事がある。
私の手相は、生命線が真ん中辺りで大きく途切れていた為、以前からちょっと気になっていたから。
もしかしたら、結構早く死ぬかも?なんて一緒に行った友達と笑いあった。
その時の占い師に言われたこと。

死ぬ事はありません。ただ、命に関わるような大きな病気をするでしょう。
その後は、しっかりした生命線があるので、かなり長生きします。

いつ頃、病気になるのか?と尋ねると、

30代前半だと言われた。

私は、子宮がんかなあ?と勝手に考えていた。
私の母や、伯母達がみんな30代前半に子宮筋腫になって手術を受けていたからだ。

だから30歳を過ぎてからは、割りとこまめに子宮がん検診を受けていた。
生命保険も、女性特有の病気の場合は入院日額の高い物に入っていた。

35歳を過ぎ、もう大丈夫だろうと思った。
やっぱり占いは所詮占い。あたるも八卦あたらぬも八卦だ~。などと1人勝手に考えていた。
そして、生命保険を安い物に変えた途端、私に脳腫瘍が見つかった。

占いは当たっていた?
手術をしたのは35歳過ぎてからだけど、始まりはそれ以前からだったんだから・・・
癌ではなかったけれど、確かに命に関わるほどに近い大きな病気だった。

手相占いあなどるなかれ!

でもこれが当たってるとすると、私は今後、後遺症に悩まされながらも長生きすることになる。
うーーん、ちょっと複雑な気分・・・。

手術後・・・(4)

2006年05月17日 08時02分34秒 | 私の病気・・・
この頃、もう一つ私は不安を抱えていた。
それは、記憶である。
初めにその事に気づいたのは、TVを見ていて、有名な芸能人の名前が出てこなかった。
確かに良く知っている芸能人で、昔、直接会った記憶もある。でも、名前が出てこない!
(3日ほど経ってから、それが島田紳介だということを思い出した。)

他にも、私は見舞いに来てくれた何人かの親戚や友人の名前も思い出せないでいた。
顔は分かる。相手と自分の関係も分かる。
でも、名前が思い出せない。
ちょうど、昔のクラスメイトに偶然会って、名前なんだったかなあ?という感じに似ている。
でも私の場合、長期間会ってない人でもなく、中には入院前に会ったばかりの人も・・・。
名前を忘れるはずが無い人間の名前を思い出せない。
医師に聞いても、「なんでかなあ?」

記憶をつかさどる部分は触れていないはず。
手術によるショックで、精神的なものなのか?

とりあえず、かなりの時間が経ってから思い出すので、まあいいじゃないか。と医師は言った。

この頃思い出せないのは人の名前だけだったので、結局そのままになっている。
でも、これが退院してからちょっとトラブルの原因にもなった。

  
  
  
 

主人・・・(命の恩人 2)

2006年05月17日 08時00分04秒 | 主人・・・
気がつくと、私は川岸で四つん這いになり、ゲホゲホと咳をしながらゼーゼーと息をしていた。
私の隣では、娘がキョトンとしている。
振り返ると、空中を飛ぶ息子の姿と、川の中にいる主人の怒鳴り声。
「しがみ付いたら、2人とも沈んでまうやろが!」
息子が浅瀬に落ちたすぐ横を、私のビーチサンダルが流れていった。

状況はこうだったらしい。
声こそ聞こえなかったが、私が上げた手を見た主人は、子供が溺れている事に気付いた。
手を伸ばしたが子供二人に届かない為、自分も水に入り、まず水中の私の後ろに回り
背中を押して川岸へ行かせ、娘を私に引きずり出させた。
すると、息子が主人にしがみ付いて来たので、危険を感じた主人は息子を浅瀬に放り投げた。

主人は、最後まで私が溺れていた事には気付いていなかった。
川岸に上がってきて、「おまえ、今回は随分長い事潜っとったなあ。」と言われた時には、あっけにとられた。
(実は意識が無くなって溺れていたのだという事が分かると、それ以後何かとその話を持ち出しては、
私を指差し大笑いする!と言う事が未だに続いている。


何はともあれ、私達3人は主人に命を救われた。

翌日、私達とほぼ同時刻に隣の県であった水難事故の記事を新聞で見ながら、
もしかしたらここに載ってたのは自分だったかもしれないと思った・・・。

主人・・・(命の恩人 1)

2006年05月16日 08時19分06秒 | 主人・・・
いつも主人に対する不満ばかり書いているので、たまには良い事も書こうと思う。

もう、6年ほど前の夏の事だ。
私達家族は、私の祖母の家に行っていた。山奥の小さな村。
私たちは近くの川へ水遊びに出掛けた。
細い二本の川が1つに合流する橋の下は、一部深くなっている場所がある。(深いといっても、3メートルくらいだ。)
その場所は村の子供たちの遊び場であり、
私も子供の頃から祖母の家に来ると必ず遊ぶ場所だった。
いつの間にか遊んでいるのはウチの家族だけになっていた。
私が川の中を泳いでいると、子供が「僕も行くー。」「私もー。」と言う。
息子はこの夏スイミングスクールで200mの検定を合格していた。
娘は、25mが泳げるようになったところだった。

私は水の中で立ち止まって、
「ここは、チョット深いからダ・・・・・」 
私は、水中に沈んでいた。
私は元水泳部だったし、ましてやここは、小さな頃から何十回も来ている慣れ親しんだ場所である。
(あらやだ、流れで深みに足をとられたんだわ。 やあ~ねえ、私とした事が。)
そう考えながら、のんびり浮かび上がった。

ここまでなら、なんてことのない出来事だったのだ!
顔が水面に出た時、自分の血が凍りつくのを感じた。
自分の子供が2人、目の前で溺れている!
瞬間、頭の中に「二人は助けられない!」という言葉が走り、私はパニック状態におちいった。
(1人なら何とかできると考えていた。)

それでも私は、子供2人のお尻を後ろから交互に何回も川岸へ向かって押した。
でも、流れが邪魔をして思うように進まない。
主人は一番下の子供と川岸で遊んでいる。こちらには気付いていない!

水面から手を上げて、「あなた、たすけ・・・」そう叫ぼうとした時、私は大きく水を飲み、再び沈んだ。
遠のいていく意識の中で、
(あーこのビーチサンダルじゃまだなー。でも今脱いだら流れていっちゃうよな~)
なんて事を考えていた事を覚えている。

主人のいる川岸から、わずか2,3メートルしか離れていない。
でも、私の声は川の流れる音に吸い込まれ、主人には聴こえていなかった。

この続きは、また明日・・・。


それから・・・(追加)

2006年05月16日 08時15分57秒 | 私の病気・・・
手術前にした事で、周りの人々と会うことの他にしたことがあったので追加です。

1つは、お金の整理。
あちこちにいくつもあった家用の口座を整理し、まとめました。
主人にも分かりやすいように、説明書き付きで準備。

自分の預金も整理しました。
とりあえず、死ぬ事は無い筈ですが、私自身がどうなるか分からない以上、
(最悪、体が不自由になったり、記憶が無くなったり等を考えました。)
私にもしもの事があった時はどうして欲しいかを書いた紙を通帳にはさんで、
子供達の通帳と一緒に妹に預かってもらいました。
(情けない話ですが、ここで私は主人を信用していませんでした。
主人の実家は子供の預金を平気で使い込む家だったので・・・)

2つめは生命保険です。
よりにもよって、私は病気が分かる8ヶ月ほど前に生命保険を切り替えたばかりでした。
保険に入る時、顔の痺れがあった事は話してありましたが、担当者は問題ないと言っていたのですが・・・。
私は、うそを言った覚えはありません!。
この頃は、医者にかかっていた訳でもないし、実際痺れは治まっていた時期でした。
また痺れが始まるとは思ってもいなかったし・・・。
だいいち、保険を変えた事で、入院日額は減っていたんですから・・・。
(あのまま、前の保険に入っていれば良かったなーと、後で少し後悔しました。

でも、入ってからまだ一年も経っていないので、
もし、何も出なかったらどうしようかと、とても心配でした。
電話して問い合わせると、担当者はすでに会社を辞めていた。(オイッ!

でも、の対応をしてくれた人はとても良く話を聞いてくれて、
ちゃんと、入院や手術でお金が下りることになりました。
いい保険会社で良かったー。

3つ目にしたことは、
私がもし、死ぬような事になったら、連絡して欲しい人の一覧を作りました。
名前と連絡先の一覧を書きながら、
あらためて自分の人間関係を振り返ることになりました。

大袈裟ですかね?
でも、今まで極めて健康で、初めての入院が頭の手術、という私にとっては
最悪の場合を考えて準備しておく必要があったんです。
こうした準備をしながら、少しづつ自分の気持ちを固めていく必要がありました。

手術後・・・(3)

2006年05月15日 09時17分10秒 | 私の病気・・・
ショックは受けたけれど、私はそんなそぶりは見せなかった。
普段は、いたって元気な患者?だった。
本当はもっと個室にいられたのだが、自分から希望して相部屋になっていて本当に良かったと思った。
ずっと個室にいたら、きっと私は毎日激痛と戦いながら泣いてばかりいたと思う。

入院前に周り中に公表していたせいもあって、見舞い客は後を絶たなかった。
(退院時に計算したら、見舞いに来てくれた人数は総勢70人くほどいた。
何回も来てくれた人もいたので、お見舞いの回数は100回以上あったことになる。
毎日、誰かが見舞いに来るので、落ち込んでるヒマが無かったのも幸いした。
でもある日、お茶を飲んでいた私は、左耳にそのお茶が喉の辺りから入った感触を感じた。
ビックリしてその事を訴えると、(また主治医を捕まえるのに時間が掛かったが)翌日、耳鼻科へ行かされた。
ここでも、手術の情報が耳鼻科には行ってないので、いちいち私が説明する。
とりあえず、異常なし。とのことだったが、数日後、私は内耳炎を起こしていた。

主治医に、なぜこんな事が起きるのか聴いたところ、
手術の際に中の骨の一部に穴を開けるのだそうだ。
その穴は、塞いだと思っていたのだけど、もしかしたら完全に塞がってなかったのかもしれない。と言う。
その場合、どうなるのか?と尋ねると、
「もう一度、手術をして穴を塞がなければいけません。」
ヒエ~!である。
もう、絶対に手術は嫌だった。あの苦しんだ日々をもう一度する気にはとてもなれない。
さすがにこの時は、恐怖で夜中に1人、ベッドで声を殺して泣いた。(頬の痛みと戦いながら・・・)
この少し前から、夜眠れなくなっていた私は、毎日睡眠薬を出してもらっていた。

1週間ほどして、とりあえず耳の方はOKが出た。(内耳炎ってそんなに早く治るか?)
どうやら、心配していた穴は開いてなかったんだろうと医師は言ったが、
私は穴は開いていたが、体が自分でそれを塞いだのだと今でも思っている。

そうでなければ、あんな事が起こるなんて考えられないよ!