1月25日、まいまい京都で旧奈良県知事公舎をリノベーションしたラグジュアリーホテル紫翠の館内案内とランチを楽しみ、その後、高畑町にある入江泰吉奈良市写真美術館に来ました。
僕が高校生の時から奈良大和路の魅力に取りつかれたきっかけとなったのが入江泰吉先生の一枚の写真でした。
当時の薬師寺は東塔だけが唯一、白鳳時代を偲ぶ事の出来る寂しいお寺でした。
薬師寺再建を果たされたのは高田好胤さんの功績が大きいです。
昭和24年(1949)に薬師寺副住職に就かれると、仏法の種をまくことが自分の使命」であると考えられ、修学旅行の生徒達への法話に力を入れられました。
18年もの間の長きにわたり、そのユーモアたっぷりで分かりやすい法話は「青空法話」とも呼ばれて人気を呼び、高田好胤さんの法話を聞いた生徒は、一説には600万人以上にものぼると言われています。
昭和42年(1967)に薬師寺管主に就任すると金堂の再建を志し、次に西塔、中門、回廊などを次々と再建されました。特に西塔の再建については強い世論の反対があったそうですが、小説家でフランス文化相だったアンドレ・マルローの賛意を背景に実現したそうです。
再建費用は大きな課題で、金堂の再建だけでも約10億円が必要でしたが檀家組織を持たない薬師寺にはその負担をするのは困難でした。
そこで高田好胤管主は全国の篤志の人々から一人1000円の写経納経の供養料を集める勧進を行い、これを賄おうと考えられました。(写経勧進)。
一人1000円では100万人の写経が必要であった。当初は一年に一万巻しか集まらなかったそうですが、高田好胤管主は全国、800以上の市町村で8000回におよぶ講演をして周られました。
昭和51年(1976)には念願の100万巻が達成され、同年、金堂が再建されました。
その後も写経勧進は進み、平成9年(1997)には600万巻にのぼりました。
写経勧進は現在も薬師寺の大きな柱の一つとなっています。
高田好胤さんの没後、大講堂が落成しています。建物の再建には法隆寺の宮大工として知られる西岡常一棟梁があたり、千年先のことまで考えて建てられたそうです。
薬師寺再建の苦難な歴史を思うと今の堂々とした伽藍を見ると感慨深いものがあります。
話は薬師寺に飛んでしまいましたが、奈良市写真美術館では「入江泰吉 約70年前の古都奈良の豹(かお)」展が開かれています。
(注:1月28日で終わっています。)
どの写真も古都奈良の凛とした雰囲気を見事に切り取った写真ばかりです。
撮影で使われたカメラも展示されています。
東大寺や興福寺、薬師寺、飛火野、、、と当時の奈良大和路が満載の企画展でした。