京都つれづれなるままに

京都好きの旅日記。お寺、神社、グルメからスイーツまで!思いつくままに。

中村先生と歩く新選組ふたつの屯所跡

2023年10月26日 07時31分00秒 | 日記
 10月14日は、JR東海「そうだ 京都、行こう。」の会員オリジナルイベントで表題のイベントに参加しました。

講師は歴史地理史学者の中村武生先生です。
「そうだ 京都、行こう。」の会員イベントでは顧問的存在の先生で、最近は史実に基づいた新発見の場所に石碑を建てられています。





① 一念寺

最初に訪れたのは西本願寺と東本願寺との間にある"一念寺"です。

先ずは、ご住職から一念寺の由緒についてお話がありました。

明治維新時には、この地に西本願寺の家臣である富島家の屋敷がありました。









当時の当主・富島頼母(とみじまたのも)は、新選組の屯所を不動堂村へ大功労者であり、西本願寺の宗主・広如上人より褒美として献木を与えられています。

当時の西本願寺にとって如何に新選組が厄介な存在だったかがよくわかる逸話です。



次に一念寺の本堂をお借りして中村先生よりパワーポイントを使って新選組の屯所の変遷について講義が約1時間ありました。

その後は受講した内容を体感するフィールドワークで現地を巡ります。







② 西本願寺

新選組の活動期間の約半分にあたる2年3ヶ月間、西本願寺を屯所としました。

厳密には、太鼓楼と北集会所が屯所として使われました。
太鼓楼は現在地のままですが、北集会所は明治6年(1873)に姫路市にある亀山本徳寺に移築され本堂として現存しています。







③ 不動堂屯所跡

新選組の屯所は、慶応3年6月に西本願寺から不動堂村に移転しています。
その費用は全て西本願寺が負担したそうです。

塩小路堀川にあるリーガロイヤルホテル京都には、新選組不動堂村屯所跡の石碑が建てられています。





④ 近藤勇妾宅跡

醒ヶ井通木津屋橋下ルにあった興正寺下屋敷に、大坂新町から深雪太夫を落籍させて住まわせていました。

慶応3年(1867)11月18日、伊藤甲子太郎はこちらに招かれ酒宴が開かれたと伝わります。



⑤ 伊藤甲子太郎遭難の地

本光寺を出て油小路通を南へすぐ、木津屋橋通を西に入ったところで、伊藤甲子太郎が新選組隊士に襲撃された場所です。

宮川信吉ら4名の隊士が待ち伏せし、その内のひとり・大石鍬次郎が、謡曲「竹生島」を口ずさみながらやって来た伊藤甲子太郎の喉を槍で刺しました。









⑥ 本光寺

日蓮宗寺院で新選組「七条油小路の変」の伊藤甲子太郎他3名殉職の地です。

伊藤甲子太郎は、境内にある「南無妙法蓮華経」のお題目の石塔によりかかり絶命したと伝わっています。