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半沢直樹を2倍楽しく見る方法 ―― 3 正義という復讐

2013-08-26 19:38:02 | 映画・演劇・ドラマ

なぜ、すぐに印籠を出さないのか

 

  長寿番組の『水戸黄門』が印籠を出す印籠タイムは大体20時45分ごろだ。
  しかし、印籠タイムの前にかならず、乱闘シーンがあることを皆さんはおかしいと思ったことが一度くらいはないだろうか?平和主義憲法9条の国、基本的人権の尊重を掲げる我が国に日本で、なぜ、峰打ちとはいえ、公務員水戸黄門一行が避けようと思えば避けられる暴力をふるうのか(笑)って?。

ほら、かならず水戸黄門がこう言うではないか?

「助さん、格さん、懲らしめてあげなさい」

  で、まあ、水戸の隠居をはじめ、場合によっては、あのうっかり八兵衛まで、懲らしめの〈暴力〉をふるうのだ。助さん、格さんは、峰打ちとはいえ、あれ日本刀ですよ、鉄だぜ、骨折するかもしれないだろ(笑)?
  私は子供の頃、あの印籠タイムを疑って夢中になっている私のじいさんにこう尋ねたことがあった。 

だったら、なんではじめから印籠をみせないのさ?そうすりゃあ、すぐ終わるじゃ?」 

この質問に対して、 

「スポンサーがね、許さない、だってそれじゃあ、番組がもたないよ、時間いっぱい」

なんて答えてはいけない。せめて、 

「それは、ね、印籠をみせる直前の時間、つまり、それが大体20時40分頃だが、物語を説明する進行上、その時間帯ぐらいにならないと印籠を見せることができないからだ。」 

というくらいに粋(いき)に、しかも、ちょっと含蓄をこめて答えてあげなければいけないとは思わないか。相手が子供だとはいえ。じいさんはただ怪訝な顔をしていただけだったなあ。
 でも、それにしても、あの乱闘シーンを繰り広げずに、どうして、すぐに、

「静まれ!静まれ!こちらにおわすをどなたと心得る・・・」

をいわないのだろうか?助さんでも、格さんでもいいから?
この質問のキイワードは、この印籠を見せる前の、乱闘シーンを切り上げるときに、黄門様が発するある合図のかけ声だ。
何ていうかご存じだろうか?そうだ、必ずこう言うのだ、黄門様は。

「もういいでしょう!」

何なら上の動画でもう一度確認してみていただきたい。
それにしても、何が「もういい」のだろうか。もちろん、

「懲らしめてやりなさい」

が、だ。 

正義をかざす人間のルサンチマン(怨念)

 ドイツの哲学者ニーチェ(下写真)は『善悪の彼岸』をはじめとした彼の著書のなかで、幾度となく〈正義〉をかざす人間の危うさを指摘する。私などは大変耳が痛い話で、とてもいやなのだが(笑)、ここから説明をしなければいけない。


 

 ドラマ『半沢直樹』は銀行を舞台とする。銀行の〈融資〉を舞台とする。銀行は「金融」業と呼ばれるが、要するに「カネが余っている人間から、カネがなくて困っている人間に〈融通〉してあげる」というのが仕事のはずだ。本当に困って、しかもその融通されたお金を使って、社会に貢献ができる、そうした仲介サービスこそが銀行の使命だ。

 ところが、ところが、銀行にはとんでもねえ悪党がいる!
 本当に困っていて、しかも、融資をしてあげれば、十分社会に貢献できるだけの力があるのに、大した審査もせず、ちょっと銀行が困れば、さっさと融資を引き上げ、あるいは、場合によっては、銀行にダメージがあるとわかっていながら、融資をし、その見返りに賄賂をうけとり、しかも、その融資の失敗をこともあろうに、部下の責任にする!そういうなあ、とんでもねえ悪党がなあ、銀行にはいるんだよ! 

「おい、そこの上司、おめえのことだよ!」 (あ、すいません、つい、自分のこととダブっちゃいまして・・・興奮してしまった。)

 半沢直樹は、正義を掲げる。なぜか?
 それは、彼の生い立ちに起因する。彼の父は小さな町工場を経営していた。銀行に融資を引き上げられ、父親は資金繰りができず、倒産に追い込まれ、自殺する。彼はこともあろうに、その彼の父を死に追いやった銀行に就職する。もちろん、何のためかはわかるよね、半沢はその復讐のために銀行に入行したのだ。

 正義をかざすものには「恨み」がある、とニーチェはいう。理想を掲げるもの、道徳を説くもの、科学的真理を追求するもの、こいつらには、共通した臭みがある!そうだ。恨み辛みだ!自らは強者になれなかった出来損ないの人間たち特有の怨み、ニーチェはそれをルサンチマンと呼ぶ。
 ニーチェは『道徳の系譜』という彼にしては珍しい純粋な哲学書のなかで、この怨念のルーツとして

負債

を挙げる。心に負ってしまった〈負債〉だ。
 そうだ、人間はどこかで心に負債を負う。そして、人間はその負債を忘れない。無意識のうちに蓄積していく。それをどこかで晴らしたい。しかし、そうそうかんたんには債権者になれない。どんどん負債はかさんでいく。

 道徳を振りかざす人間をニーチェは忌み嫌う。

「近頃の若い者は・・・」

とか

「生徒はちゃんと授業に出席しない」

「ケータイばっかりやっ」 

うるせえ、とニーチェはいうのだ。しょせん、てめえらの繰り言はねたみ=怨み(ルサンチマン)だろうが!相手にされていないんだよ!魅力がねえんだよ!わからねえのか!
 ニーチェは、民主主義をも嫌う。ありゃあ、あんた、デキの悪い奴らが俺も入れてくれっていう怨みのシステムだ!というのだ。 
 半沢直樹が正義を振りかざすとき、口調が大変悪くなるのに気づいていますよね! 

「てめえ、なめた口たたくんじゃねえぞ!」

 

みたいな。そうだ!もちろん、半沢は相手に文句をいう隙間を与えないくらいに条件としての〈正義〉を装備する。相手がいかに〈不正〉を働いていたのかを、驚くほどの緻密さで、証拠として挙げる。その上での〈正義〉の主張であり、〈正義〉の名のもとに相手への復讐を遂行していく。 

もう一度水戸黄門

 
〈正義〉をかざすものがもつルサンチマン。これは、水戸黄門にも当てはまる。水戸黄門はあのオープニングのテーマミュージックからはじまって、はじめ、どんなに〈まじめに〉〈けなげに〉〈コツコツと〉〈いじらしく〉〈だれからも後ろ指一本指させやしないくらいにがんばって〉・・・(もうやめます)・・・生活をしている〈善良な〉人々が〈悪代官〉〈悪徳商人〉〈悪徳暴力団〉によって、どんなにかむごたらしく、残忍に、冷酷に、虐げられているのかをえんえん私たちに見せてくれる。その物語が一応、進行し、同時に、水戸黄門ファミリーが、〈悪党〉どもの〈悪の証拠〉を積み上げるのに、気づくと〈20時40分頃〉になっちゃっているのだ。そうだ!水戸黄門を見ている視聴者はここまで、たんまり〈怨み=負債〉を蓄積させられてくるのだ!その私たちにだ! 

「ハイ、印籠!」

「ははあ、恐れ入りました」 

で収まりがつくだろうか?
  そうだ。そこで、黄門様はおっしゃるのだ!すぐに印籠をみせろといわずに

「助さん、格さん、懲らしめてあげなさい」

  私たちが正義を口にするとき、正義というフィクションに酔っているとき、このときこそ危険なのだ。〈正義〉の名の下の復讐を敢行しているのだ。

「今の教育はなってない」
「今の教員は腐っている」
「今の官僚は腐っている」

  でもね、こういっているあなた、失礼ですけど、おちこぼれじゃないですか?本当は「東京大学」行きたかった、せめて、早稲田大学、慶応、いや・・・こうして官僚になれなかった人、公務員試験に落ちました、教員採用試験にうかりませんでした、こういう人たちの〈怨念=ルサンチマン〉は〈悪〉を何かに貼り付け、みずからを〈正義〉に仕立て上げ、その怨念を晴らす対象を求めてゆく。しかし、現実はね・・・!

「倍返しだ!」
「いや10倍返しだ!」

このとき、この瞬間に、存在するはずのない非存在の半沢直樹が存在するようになるのだ。



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