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高校公民Blog

高校の公民科(現代社会・政治経済・倫理)教育に関連したBlogです

到達度絶対評価 2 教科担当者の自己責任

2025-08-13 20:55:11 | 成績・評価
現在、高校卒業程度認定試験という制度を懸命に高等学校は、制度として学校の内部に入れないように努力しています。  この高校卒業程度認定試験とは、文部科学省が作成する高校卒業程度の学力を認定するという文部科学省じきじきに運営している制度です。高校卒業資格は、この試験に通ればよいのです、と文部科学省が認定しようとしているのに、全国の高等学校は、この制度を前向きにうけとめていないのが一般的状況なのです。  この制度が走ったとき、おそらく教育改革でなく教育革命に近いものが起きます。そうです。この高校卒業程度認定試験を基礎学力の認定として認定したとしましょう。もうひとつ、学校設立基準の規制緩和を文部科学省は、推進しています。何も既存の高等学校へいかなくてもよいのです。塾や、予備校、フリースクールでもよいのです。この試験に通るべく援助してくれると、それも生徒たちのために努力していると考える学校を生徒保護者は選択すればいいのです。 到達させる力があるのか?  学校は、生徒保護者の選択のもと、この能力を問われるのです。そこに学校の選択肢が存在することを前提にしたとき、本気で学力を身につけさせることを保障させることを、公言し、しかも、達成させられなかった時には、もっと可能性があると思われる学校へと生徒保護者が逃げて行ってしまうのです。 ここに到達度絶対評価の真の意味が現れるのです。 . . . 本文を読む
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到達度絶対評価 1 総合的に評価しない

2025-08-13 20:54:44 | 成績・評価
■ドイツの哲学者カント(1724~1804)は、主著『純粋理性批判』で、総合判断は可能か、という問いを立て、不可能という結論を出しています。 このカントが不可能と断じた結論に背を向けるかのように、いまだに学校の先生は、こう豪語しているのです。 ■私は、一つ一つの基準を明示して、それらを足し算をして、自分で計算できるようにしています。もちろん、出席も授業態度も評価基準を示せないし、客観的な根拠を示せないので、成績からは、修得からは除外しています。■ここから、こういうことがいえますね。学校は、身に付くということについての客観性にはまったく興味がないのだ。学校は、身に付くということを生徒に客観的に理解させるという努力もしていないし、気付かせないようにしているのだ . . . 本文を読む
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意欲・関心を評価する

2025-08-13 20:48:19 | 成績・評価
■意欲・関心など評価はできない。私がここで書くのは、この自明な事実ではない。この自明な事実を、自明でなくさせるシステムを書こうと思うのだ。■どうして、勉強するのが楽しくなくてはいけないのだ。なんで、デキの悪い人間は苦しまねば、勉強に入っていけないときめつけるのだ。 . . . 本文を読む
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履修を修得条件とすることは絶対的な論理矛盾である

2025-08-13 20:47:08 | 成績・評価
ある生徒がほとんど全授業を履修しているのに「1」が数科目に付いたという報告を成績会議で担任がしていた。この事実は私たちに重大な指摘をしている。それは、 「履修すれば修得するというものではない」という指摘である。単純にこう問おうではないか。 「履修すれば即修得なのか?」 . . . 本文を読む
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4分の1以上欠席すると1という呪術 2 到達度観点別絶対評価

2010-09-25 21:04:10 | 成績・評価
この判断を下す担当者が、考えているのは、「許せない」ということだけです。もう少し言うと、生徒に相手にされていない、というルサンチマンのはけ口だということだけです。競争もない。教員評価もこと教科については全くなされていない。こういう温室のなかで、教授能力のない年寄りたちが編み出した、途方もない、怠け者制度がこの4分の1制度です。 . . . 本文を読む
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4分の1以上欠席すると1という呪術 1 修得条件の溶解

2010-09-23 16:52:28 | 成績・評価
「履修は修得の必要条件ではあるが、十分条件ではないですよねえ?だったら、どうして「4分の1」の生徒が、かならず、修得条件をクリアしない、とどうして言えるのでしょうか? . . . 本文を読む
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絶対評価 2 到達度の絶対性

2009-08-15 00:31:03 | 成績・評価
■絶対評価の到達度を受講生と議論しているときの爽快感は、このときに、受講生が私に媚びていないって点だ(笑)。受講生が伸び伸びしている。だって、「先生には関係ない(笑)」■たどり着くのは当人なのだ。当人の努力なのだ。いや、当人の努力を目の色かなんかで示したって無駄なのだ。入試も、そうだね。そこだけは、当人に、当人だけに、当人の努力とは関係なく、到達が示されると言う構造が開示されるのだ。だから、絶対評価は外部試験、外部評価が本当は絶対条件なのだ。そこが、いま、私たちの構造では致命的な脱落点であることは認めなければならない。■そのときに、到達の絶対性が彼らに不思議な自発性を生む。従属することが主体性を生むのだ。そして、担当者を介助者に変える。どうやってそこへと至ればいいのか、その手段を求める。そして、その介助者がかりに選択制だったとき、この制度は完成する。「介助者を選べ」これが介助者の能力を明示していく。こうして教員の能力が刻み出されていくのだ。 . . . 本文を読む
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絶対評価 1 到達基準の明示

2009-08-15 00:30:41 | 成績・評価
■本当の絶対評価は、外部試験である。これは当然である。私たちがやっている評価はしょせん、似非絶対評価である。■さて、現在私は、自分の中で絶対性を入れられる限り入れようとしている。絶対評価を絶対的に行うためには、まず、到達基準を客観的に明示することだ。■前期の期末後、生徒が私の所へと確認にきた。私がまちがってつけていることが判明した。 「先生おかしいですよ」 「えっ?!」 背中を冷や汗が流れる瞬間だね(笑)。 . . . 本文を読む
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授業態度点という合法的差別

2008-04-23 22:14:01 | 成績・評価
■授業態度点は、つけることができません。通常不可能です。合理的な説明がつかないからです。あの人とこの人の授業態度点をつけて、説明が可能か?その日の終りにいっせいに生徒のみなさんが私の授業態度点は?といったときに、私は評価ができません。理由はかんたんで、授業態度点は、たんなる主観だからです。■先ほどの例を思い出してください。近所の付き合いで、値段を操作することは、隣組の買い物では可能です。あんたには安く売ってやるよということが可能なのです。それは、すでにある人間関係の距離感がそうさせるのです。なぜ、その人には500円安いのか、なぜ、私にはそうではないのか? それは、気まぐれとしかいいようがありません。■ところが、山田電機でもコジマでもいってみてください。言えますか?店員が「あなたには安くしますよ?」■大体根拠がないよねえ、そう言う。この安くしたり安くしなかったりできるのは、あいだに距離があるからです。そういう距離をもてば、そこに、非合理な優遇措置が可能となるのです。授業態度点も同様です。 . . . 本文を読む
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集団ディベート 3 ディベートを点数にする

2008-02-11 17:03:52 | 成績・評価
■あなたはディベートを成績に入れるっていわれて具体的にイメージがわきますか?それも、だれもが公平感を失わず、しかもその獲得した点数に対して、納得をする合理性をもたせるのです■論争に決着が付かなかった場合は、投票になります。その際に、全員の投票となります。一体どちらの論理が勝っていたか、そこを投票で決めることになります。■コンテストと同様、集団ディベートでもいわゆる空気を読まなければ得点にはなりません。一体、過半数がどのような動向なのか、それを踏まえて投票するのです。したがって(ここが大事ですが)、もしも、自分の意見で過半数を占めたかったら自分の意見をいかに過半数に納得させるかを考えなければいけないのです。  点数をゲットしたければ、そうした観察眼を磨かなければなりません。そして、そうした観察眼に関する授業が今度は要求されることになるのです。  ディベートをみていると、うまく教材をディベートの材料として提供すれば生徒は驚くほどそれを使います。それを〈生きた教材〉といってはいけないでしょうか? . . . 本文を読む
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集団ディベート 2 動機としての定言命令

2008-02-10 23:02:31 | 成績・評価
■カントは、私たちの道徳の基本に定言命令を置いています。定言命令という命令こそが私たちの道徳を基本的に支えていくのだ、とカントはいうのです。定言命令はこのように脅迫的にいいます。「四の五のいうな!無条件にせよ」■ いったん、片一方が攻撃にせよ、持論の展開にせよ、しはじめますね。すると、それを返さなければならない、と言う脅迫が次の相手に発せられることになるのです。「無条件に意見を発せよ」この脅迫が次々に意見の交換を強いていくのです。こうして、いったん、意見の交換が始まると、途切れることはありません。否が応でも意見をひねり出さなければならないのです。すると、だれだか知らないが、自分の集団が〈味方〉を形成し、他方の〈敵〉に対して、共同で戦わなければならなくなります。お互いに助け合わなければならなくなります。それは、味方がだれだとかどこに住んでいる人だとか、ということとは関係がありません。ただただ、論理だけの関係がそこに展開されるのです。勝利するためという目的だけがただ共有される関係です。助け合い、援護しあうのです。 . . . 本文を読む
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集団ディベート 1 コンテストから集団ディベートへ

2008-02-09 21:15:04 | 成績・評価
みなさんは、高校生がディベートするなどということを想像できますか?高校の普通の授業風景を見たとき、いったいどうやったら彼らがディベートを行うか?と首を傾げると思いますね。私は、ディベートは無理だと実は、諦めていたのでした。しかし、もちろんネタにもよるし、仕掛けにもよるのですが、仕掛けとネタを十分に精選すれば、ディベートは可能なのです。  この第二段階のディベートは、 「集団ディベート」 という形式を取ります。そうです。団体戦という形式をとるのです。これがいいんです。もちろん、この段階でも第一段階のように、最後は個別である、という形式を維持します。つまり、相互に関係性を直接的には結ばないという形式で関係が進むのです。しかし、まったくの匿名性ではありません。個別であり、社会関係を直接は結ばない社会を作るのです。あなたはこの関係を理解できますか(笑)?しかも、勝敗を決し、しかも、点数化するのです。 . . . 本文を読む
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コンテスト 7 成績の中の外部

2008-01-19 22:44:05 | 成績・評価
自分でいうのも何ですが、私がつける成績はきわめて多くのデータに基づいています。おそらく、私と同じように厳密に成績をつけており、しかも、観点別の手を挙げる回数をカウントするなどという不真面目な成績とは違って、真に公民の能力を測定する絶対評価をしているのは他にいないんじゃない?(こういう物言いって、我ながら、傲慢だねえ(笑))。  中間期末の成績をつける前に必ず生徒のみなさんに現時点での評価点の確かめ算をしてもらうのです。そんなに無闇に多くはありませんが、しかし、しばしば計算間違いや、記入漏れが発覚するのです。年金問題がそうなんですが、受益者もチェックするという相互努力の中でこうしたミスをなくしていくよりないと思うのです。 で、今回驚いたのですが、コンテスト点が 「59点」 という生徒がいたことでした。 これは、驚きでしたね。  ある種の才能をそこにみていいと私は思います。 . . . 本文を読む
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コンテスト 6 異なれ!そして、同じであれ!!

2007-11-23 22:42:38 | 成績・評価
たえず魅力ある他者を見つめる目こそが、そして、それと同化しようとする欲求こそが新たな差異を生み出します。コンテストのコツはしたがって、以前の意見をよく見ることです。それも天才のものを、いえ、みなさんが天才とみなす他者を見いだすことです。そして、マネをすることです。こういう絶えざる努力をいかにしたかを試すのが、コンテストの能力なのです。 . . . 本文を読む
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コンテスト 5 神をご覧に入れよう

2007-10-25 22:20:45 | 成績・評価
1位を決定したのは、だれか?  投票者ではない、ということは確かです。投票者は投票はしましたが、決定はしていません。しかし、決定の時間の推定時刻はわりだせます。投票と開票の終了の間です。この間に犯行はなされたのです。そこには、投票した人間と、木村以外にはいないことになっています。ま、読み上げた人と「正」の字を書いた人も元を正せば、投票者ですからね。彼らが投票をしたことはまちがいない。証拠は投票用紙です。では、いつ1位は決定されたのか?私たちは開票終了時に黒板に結果を示されました。さて、その結果を決定したのはだれなのか? . . . 本文を読む
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