■泥酔で全裸になってお騒がせをしたあのスマップの草剛が彼のキャラをまったく一新した任侠という役柄で好演しています。■「任侠」つまりかんたんにいうとヤクザですね。みなさんは、ヤクザと「ヘルパー」をくっつけて何か意味をつけられますか?いえ、大体、ヤクザとヘルパーをジョイントさせることを思いつきますか?■一回読み切りに近い構成になっているので、もし興味がおありの方はこれからでも遅くありません。ご覧になられるといいと思いますね。この作品の優れている点はここです。私はこの作品を予想できませんでした。しかし、いつかこのような作品が現れるのではないか、と無意識に待っていたんだな、と気付きましたね。 . . . 本文を読む
さて、トップダウンはこれからある程度社会に導入すべきシステムである。たとえば私はもっと職場を選びたいのである。ひとつの理念を校長が立ち上げる、その趣旨に賛同する教員が集まって学校を形成する。その際に校長はその応募してきた教員の職能を見る。みずからの理念と照らし合わせて採否を決定する。そして、
「こういう売りの教員がいます。来て下さい」
と生徒を募集する。これで生徒が来なければ退場である。あるいは、校長が自己責任において、採用した教員の授業に対する生徒・保護者の授業評価が悪い、成果としてうたった成果がでなければ、これまた退場、こうした自己責任の世界こそをトップダウンという仕組みは明確に示すことになるのだ。
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私たちはこういう基本に立ち返る必要がある。つまり、社会というものの存在、それも生徒にとって切実となる=「リスク・リターン」の鮮明な形態を学校へとどのようにしていれてゆくのか。総合学習という文部科学省の試みはこの延長で考えてみる必要があるのではないだろうか。既存の科目の死のむこうを私たちはどうやって再生させるのだろうか。 . . . 本文を読む
■絶対評価の到達度を受講生と議論しているときの爽快感は、このときに、受講生が私に媚びていないって点だ(笑)。受講生が伸び伸びしている。だって、「先生には関係ない(笑)」■たどり着くのは当人なのだ。当人の努力なのだ。いや、当人の努力を目の色かなんかで示したって無駄なのだ。入試も、そうだね。そこだけは、当人に、当人だけに、当人の努力とは関係なく、到達が示されると言う構造が開示されるのだ。だから、絶対評価は外部試験、外部評価が本当は絶対条件なのだ。そこが、いま、私たちの構造では致命的な脱落点であることは認めなければならない。■そのときに、到達の絶対性が彼らに不思議な自発性を生む。従属することが主体性を生むのだ。そして、担当者を介助者に変える。どうやってそこへと至ればいいのか、その手段を求める。そして、その介助者がかりに選択制だったとき、この制度は完成する。「介助者を選べ」これが介助者の能力を明示していく。こうして教員の能力が刻み出されていくのだ。
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■本当の絶対評価は、外部試験である。これは当然である。私たちがやっている評価はしょせん、似非絶対評価である。■さて、現在私は、自分の中で絶対性を入れられる限り入れようとしている。絶対評価を絶対的に行うためには、まず、到達基準を客観的に明示することだ。■前期の期末後、生徒が私の所へと確認にきた。私がまちがってつけていることが判明した。
「先生おかしいですよ」
「えっ?!」
背中を冷や汗が流れる瞬間だね(笑)。
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現在、学校ではだれの何の授業がいい授業なのか?わからないということだ。自分も分からない。そして、経営管理している人間もわからない。
こんなことはあるだろうか?靴屋が自分の店で売っている靴がいい靴なのか、悪い靴なのかわからない。なのに、大切なのはいい授業だという。 . . . 本文を読む
生徒による授業評価はきわめて重要である。それは本校のような選択を生徒の責任のもとに行っている学校では不可欠といっていい。去年はなぜ、履修がうまくいかなかったのか。今年はなぜはかばかしくないのか。何の授業の何が自分に履修を促さないのか。この観点から自分をチェックするのだ。なぜ、授業へと出るということが障害となるのか、それを年間を通じて問うのがおそらく本校のHR担任の存在理由の重要な一つである。そのときに、他の生徒が残した教員評価が意味を持つ。これを参考にして、究極の選択をさせる。もはや、それがなされれば言い訳はきかない。とりわけ私たちの公民や国語のような科目の選択を十分にする資料は現在生徒にはほとんど提供されていない。この授業はどのような生徒に向けて設定されているのか。 . . . 本文を読む
売り物にしうる何が君にあるのか?
それは、この県をやめて、もう一度外部へと自らを問うというように考えてみるといい。そうしたとき、はたしてなんでもかんでもやっていいのかという問いが自然に起きてくる。私は50才までにはたして転職できる何かが自分の内部に蓄積できるか、その準備をこれまで考え努力してきた。それは徹底して現場に就くことからしかはじまらないだろう。具体的にいえば授業だ!一にも二にも授業だ! . . . 本文を読む
この不況で、公務員の志望者が激増している。学校の先生になろうという人たちもかなりの数に上り、しかも自治体の財政事情の悪化から採用枠が減となるケースも多く、なお狭き門となっている。教員試験の予備校も盛況だという。
その一方で、学校の先生たちの始末のわるい不勉強を私は毎日見せつけられている。高教組には悪いのだが、多忙多忙というのだが、私が見る限り、暇がふえても学校の先生は勉強しない。ただ、茶飲み話の花が咲くだけだというのが私の現場感覚である。いっそのこと、5年ごとにどんな教員も採用試験を受け直すというのはどうだろうか。 . . . 本文を読む
私は授業評価を基本とする学校を考えてきました。それが、ある意味でグローバリズムに対抗する一つの運動を形成できないだろうか、と。もちろん、それは、そうかんたんにはいきません。というより、流れはどんどん総体として奴隷となる方向へと向かっています。私が考えてみたかったのはいったい、独立の単位とは何か、という問題です。 . . . 本文を読む
かつて、坂本九は「上を向いて歩こう」と歌いました。それは「涙がこぼれないように」でした。今の若い教員は、〈シタ=生徒〉を見ずに、「ウエ(=年寄り)を向いて歩こう」と歌っている。「同期に置いていかれないように、ウエ=年寄りの機嫌をそこねないように」と。そこに職能への興味をみることはできません。つまり、生徒とのやりとりのなかの熟練への眼差しをみることはできないのです。 . . . 本文を読む
■学校には見えない日溜まりがあります。それは、ある〈眼鏡〉を着けなければ見えてこないというものなのです。その見えにくさは〈呪術〉と呼ぶにふさわしい。■学校で部活の顧問という公式の審議機関はありません!そこで何が問われ、解決を迫られているのか、公的な機関で話し合われることはないのです。■実は、この「教科」「分掌」「学年」(「部活」)のなかに日溜まりは存在するのです。しかし、日溜まりは黙っていては表に現れません。それでは、日溜まりはどこにあるのか。それは多忙という〈寒い場所〉の〈影〉にあるのです。■「技能」や「職能」を軽視すること。「若さ」のもつ「従順性」や「体力」に着目すること。時間外労働としてはみ出る「大変な仕事」は「若い人」へという意図――これがこの職場が出している人事の意味です。 . . . 本文を読む
進学校の教員は熱心な教員同志は驚くほど和気あいあいである。個々の能力は、一緒に補習にとりくめば、同じという見方をしてもらえる。個として切り離されることがない共同体は差異を隠蔽する。管理職はもちろん、各教員も互いの授業はブラック・ボックスである。そこは平等原理である。誰もその効率を問わない。生徒に至っては「無礼打ち」である。そこから脱色されるのは、個としての力能の差異である。 . . . 本文を読む
成績会議の内容は守秘義務もあり、公表出来ない部分が多い。個人の成績内容などはその最たるものだが、そういうこととは関係なく、成績会議の会議資料のデータらしきものからは公表したくても公表すべき何ものも見いだせないような空疎感を感ずる。データを見せられ、担当者たちが報告する。しかし、それを聞いて、何か言えといわれたときに、「あ、そうなの」程度のことしかいえないのだ。これは、私の実感である。 . . . 本文を読む
学校には「皆勤賞」「精勤賞」などと呼ばれる賞がある。言うまでもないが、「皆勤」とは休まずに学校へ来たことである。学校の先生は何の疑いもなく、正確には脳死状態でこの賞を続けている。まさしく〈呪術〉と呼ぶにふさわしい力をこの賞は持つ。この賞は生徒が休まず学校へ来たことを称揚するのが目的である。「みんな、休まずに学校へ来ような」とこの賞は言うのである。ここまではどうということはない。ここからが問題なのである。
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