さて、では、このことをふまえてなぜ、羽生が激しく震えるのか、を考えてみたいと思います。羽生ほどの天才棋士です。おそらく、読み切っているのです。こちらが勝っている、と。しかし、 一手先は不確定 なのです。一手先は、一手先なのです。つまり、勝ちの手前は、勝ちではないということなのです。それは、そこに、途方もない断絶がある、ということなのです。彼らをもってしても、勝ちだとは思うが、しかし、勝ちがみえた片方で、〈負け〉という絶壁を見ながら、つまり、ちょっとした見落としによるわずかな差としての〈勝ち〉しか見ることができないということなのです。これが、彼らの世界なのです。 . . . 本文を読む
大学院を社会人で受験して、落ちまくった時、妻も見捨てたんです(笑)。いや、妻は真っ先だったかもしれない(笑)。生徒によくいうんです。「妻も見捨てました。でも、僕は僕だけは僕を見捨てはしないぞって自分に言ってやりました」って。1勝9999敗が正解かもしれないんですよね。それも、9999敗の後に1勝が来るっていう感じかな、そういう自分を支える哲学を、私はイチローに見たいですね。そういうことなんですよ、きっと。 . . . 本文を読む
この判断を下す担当者が、考えているのは、「許せない」ということだけです。もう少し言うと、生徒に相手にされていない、というルサンチマンのはけ口だということだけです。競争もない。教員評価もこと教科については全くなされていない。こういう温室のなかで、教授能力のない年寄りたちが編み出した、途方もない、怠け者制度がこの4分の1制度です。 . . . 本文を読む
人が、世界とか、日本とか、という大きな世界のために、と言い出した時は考えるべきですね。人は、本当にそのようなレベルで動くものなのか? 武市たちは、「尊王攘夷」という口実の下、土佐藩の外の力を借りて、権力奪取に、成功したのです。もちろん、それは、一瞬のことでした。尊王攘夷の運動そのものが下火になり、京都の公家たちが失墜し、大体、攘夷などできない、開国以外の選択肢はない、ということが明らかになったとき、武市たちの転落が始まるのです。 . . . 本文を読む
高等学校のクラスには、基本的には、自分から発表をしないという同調圧力がかかっています。それを感ずる「ウチ」の集団があるのです。その「空気」を読むことがまず高等学校のクラスで暮らしていく要諦なのです。
「自分から発表する下品はよそうね」
という同調圧力に対して、
「そうだよね」
と答える、これが高等学校のクラスの「ウチ」の和を形成するのです。
そこからソトへと自分から出ていこうとはしない、これが学校でうまくやり過ごすコツなのです。これを破ると、生徒同士でクスクス笑いを浮かべ、嘲笑の笑みを浮かべながら、友だち同士目をあせ、舌打ちをする、という制裁が待っているのです。
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同性愛というのは、大変、身近じゃないような気がしましたね。ブラウン管の向こうの世界のような感覚なんじゃないでしょうか。だから、setunaさんのコメントはある意味オーソドックスなような気がしますね。今、私には、特に付け加えることがないように思えます。この点に関するみなさんのコメントを募集します。
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■昭和39年に新幹線が開通し、東京オリンピックが開催されています。世界を相手に、日本社会がまさに高度成長を遂げていくという真っただ中、司馬遼太郎は『竜馬がゆく』を書いているのです。古い因習を捨て、世界のなかの日本として脱皮してゆく、そうした時代と江戸時代の古い体質から明治維新へと向かう竜馬を重複させて書いていたという表現が当たっているかどうかは知れませんが、まちがいなくそうした楽観的な、右肩上がりの時代を反映して、司馬竜馬は、大変明るいのです。
■しかし、平成龍馬はことなります。この平成22年の龍馬はきわめて暗澹たる、お先真っ暗な状況を示すことから『龍馬伝』ははじまるのです。どこにも龍馬の先行きに明るい未来は感じられないのです。展望もない。そうした青年龍馬を『龍馬伝』は描くのです。
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中学以前での体験という限定で私は、毎年、いじめのアンケートを採っています。それを、いじめの構成・場所、いじめる側の論理と行動、いじめられる側のリアクション、傍観者のリアクション、という形でまとめてみました。
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