交差点の信号の絶対性 突然ですが、交差点を、それもかなり交通量の多い交差点を、想像してみてください。そこに、信号がないとしたら? 私は何度か、暴走族的なバイクが、交差点の信号を無視して通過しようとしたのを見たことがあります。でも、よくみると、交通量が少ないことを(注意深く(笑))確認して、無視しているのです。つまり、「ぶつからない」って確認して、安全運転で信号無視(笑)していたんです。 本物の交通 . . . 本文を読む
時間割には、月曜日の1時間目から金曜日の12時間目までただひたすら科目名が並んでいるだけなのです。生徒は、その科目を各々自分の進路や興味関心に沿って選択します。そして、その選択した人たちで授業集団が構成されます。
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まあ、とりあえず、あなたを単位制高校のクラスへお連れします。
そこには、まず、何歳だか、わからない、どこのだれだかもわからない、そして、次の時間には、全く違うメンバーがいる、というクラスが、次々あるだけなのです。
無学年・無学級制のクラスの理想は、こうです。
あなたが決めたのです。そして、あなたが決めたのではないのです。
これが単位制の無学年無学級制のクラスです。
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いま学校は、早退Movieと気合の入ったレストランであふれている。早退Movieや気合の入ったレストランがなにゆえ存在しつづけていけるのか?という問いは別として、存在しつづけ、ロックのいう抵抗権や革命権が担保されていないとしたら、授業中のケータイを私たちはどう受け止めたらよいのだろうか? . . . 本文を読む
素直で従順は、社会の富をつくりません。ただ、単純にモノをつくっていては、ただただ価格競争に巻き込まれるだけです。すなおに言うことを聞く人間は、自分の興味がわかりません。おもしろい、ということがわからないのです。そして、社会として、複雑な価値を客観的に刻みだすことができないのです . . . 本文を読む
歴史的に次に世界を制覇した資本主義の形式こそ産業資本主義でした。イタリアは、正確には、胡椒と銀でヨーロッパを制したのですが、ま、胡椒でヨーロッパを制したといってもいいでしょう。続いた、ポルトガルとスペイン(考えてみると、いずれも、最近のヨーロッパのお荷物国ですね。ギリシアも混ぜて、かつてのヨーロッパの覇者たちです)は、単純に商業資本主義を原理にヨーロッパを制したのです。・・・・さて、こうして、ヨーロッパの覇者は、イタリアからポルトガルへ、そして、スペインへと変わっていきます。そして、最後に、ヨーロッパの覇者になっていったのが、オランダを経由したイギリスでした。英仏といってもいいですが、最後は大英帝国ですね。イギリスは、では、一体どうやって世界を制覇したのか。 . . . 本文を読む
■表をご覧いただくとおわかりのとおり、文部科学省は、象徴的に昭和のおわりから単位制高校を全国に設置させていくのです。 これは、あまりに象徴的です。■なぜ、昭和から平成への過渡期に、文部科学省は単位制高校を設置していくことになるのか、考えてみましょう。■じつは、この過程で産業社会が構造転換を求められていました。昭和から平成へというのは、実は、産業社会が、高度成長からの脱皮を求められていたことと重なっていくのです。そうです。高度成長モデルがゆきづまり、いわば消費社会へと構造転換していく、その時代背景と、単位制高校が全国へ広げられていくこととは重なっていくのですなぜ、昭和から平成への過渡期に、文部科学省は単位制高校を設置していくことになるのか、考えてみましょう。 . . . 本文を読む
無学年無学級制では、担任は選択する、というのが基本です。もちあがりはあるでしょう。それは、しかし、〈逆持ち上がり〉です。つまり、選ぶ方が持ち上がりを希望するのです。みなさんは、クリニックを選択しますね。同じです。相談員を選択する。自分に合う相談員を選ぶ。つまり、こうして無限の〈金八先生〉が誕生してくるのです。 . . . 本文を読む
こうして、受講者は自己責任を問われます。担任も推奨した責任を問われます。そして、なにより、教科担当者は、受講生の評価を受けることになるのです。 そうです。さらに、リピーター率もこのネット上には掲載されていたらどうでしょうか?どのくらいの人がリピートしているか? これが消費社会を前提とした無学年無学級制の単位制高校の可能性の中心なのです。これが、可能性から実現性に移行した時、人事担当者の決済責任が赤裸々になるのです。現在は、何の理由で採用されたのかも不明、いったい、その教員が学校のニーズに合っているのかも不明、何もかも不明、この真っ暗闇を前提に教員評価が行われているのです。 . . . 本文を読む
単位制高校は、こうして多様な人間関係を同居させるうえで最大の問題となる対人関係のストレスを縮減する構造となっているのです。
ある生徒が気に入らない、として、いじめたいと思ったとしましょう。しかし、彼は次の時間には、ばらばらになって散っていきます。次の教室を突き止めても、授業が終わったとき、そこにはもはや当該の生徒はいる可能性は少ないのです。
これがタコ足配線を原理とする単位制高校の、多様を同居させる構造なのです。 . . . 本文を読む
無学年無学級制は、受講生の一つ一つの行為を把握しようとすることが原則できないシステムだ、ということです。
それは、生徒の一つ一つの履修登録という決定に支えられている、ということだ、と考えてよいと思います。
と、同時に、市場の需要と供給のギャップが必然的に存在し、当然、供給側の淘汰が存在するということです。 実は、この無限なる市場をいかに機能させていくか、という問題こそが私たちが、無学年無学級制を有効に機能させうるか、という課題となるのです。
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人間関係で苦しんできた方が単位制の門をたたくケースは多い。その方たちに、一つ一つの人間関係を軽くする、というのが、実は、単位制のもっとも個性的な特徴なのです。だから、ホントは、単位制は800人なんて規模ではいけないのです。
2400人、これがざっくり私が適正規模と考える単位制の規模です。
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「倫理」だけを教える教員が複数存在する学校を考えてみよう。それを生徒が自分たちの興味や関心に沿って選択するというシステムをさらに想定してみよう。こうした方向を目指すことなく、現在の学年制の学校単位の持ち分で、それも学年単位で、今年は「現代社会」、来年は「世界史」と専門性を無視して教科を持ちあうようなシステムで、どうして生徒の細やかなニーズに対応できるだろうか。そういう意味で、単位制というシステムの可能性をもっと私たちは考える必要がある。 . . . 本文を読む
■これから、学校は少子高齢化のなか、どんどん需要が小さくなります。しかし、そのなかで需要を拡大する方法がなければ、学校はどんどん狭い道に追いつめられ、ひとりがいくつもの科目をもち、つまらない、規格大量生産システムの授業を吐き出すしかない、というところへとますます追いつめられていくのです。■どこからはじめるかは私も見当さえつかないのですが、この渡り教員というコンセプトをいかに実現するかが一つの需要拡大と教育の再生のカギになると私は現場の一人の教員として考えています。多品種少量生産からしか自立の目はないでしょうね。
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単位制高校には、校則がありません。残念ながら、この無校則という原則を理解している教員はほとんど皆無です。
私はそれを売りにすればいいのに、と、思います。教育の世界にもおそらく競争原理が否応なく入るでしょう。そのときに、単位制高校が、差別化できる最大の売りの一つが
校則がない、
という原理をもっていることです。
もちろん、そういう学校へ自分の子弟をやりたくない、という方は選べばよいのです。そうです。単位制へいかせるか、どうかは、究極の選択を行うことになるのです。
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