高校公民Blog

高校の公民科(現代社会・政治経済・倫理)教育に関連したBlogです

学校の先生はどうして「いらっしゃいませ」といわないのか?

2005-09-18 18:32:19 | 経済分野の授業

以下の問題は今回の『政治経済』の試験問題です。よろしかったら挑戦してみてください。

【問題】授業では「先生はどうして「いらっしゃいませ」と言わないのか?」という問いを考えた。その理由として、

「先生は公務員であり、その給与体系が年功序列だから」

という仮説を立ててみた。この仮説が正しいとしたとき、先生はどのような理由で「いらっしゃいませといわない」と説明できるか。以下の二つの条件を満たして文章として記述しなさい。(10点)

条件1 公企業と私企業の違いを明らかにすること

条件2 そのさいに、以下の4つの用語を必ず使い、使ったところに下線を引くこと 

 市場   税金   平等分配   顧客

【解答例】(以下のものは全部生徒の答えたものです!)

① 先生は公務員であり、税金によってお給料が平等に分配される為私企業と違い市場で顧客を獲得する必要もなく年をとり、能力が下がったとしても税金という装置があれば、努力する必要もなく、客を集める必要もない為「いらっしゃいませ」とはいわないのだ。

②公企業の先生の給料は税金と授業料で毎月平等分配される。そのため、私企業のように市場があって、売上があったり、営業能力、仕事のできで、給料が決まるわけではない。先生たちも、生徒を顧客とし生徒の数と授業評価で給料が決まればいらっしゃいませというはずです。

③学校の先生は公務員で、公企業にあたる。そのため、国民から半強制的に集められる税金から平等分配され、どんな良い授業をしても、どんなに悪い授業をしても給料は同じである。それにくらべ、私企業は能力主義のところが多く、市場に出回り、顧客がつかないと売上がなく、給料も少なくなる。そんな理由から、先生は「いらっしゃいませ」といわない。

【解説】
 この問題のタイトルは、そっくり授業のタイトルです。枕として「なぜ体罰が犯罪にならないのか?」という授業を行いました。実は、このタイトルの授業の導入として、生徒に「接客ランキング」と称して、以下のような授業を行いました。

「みなさんが接客態度としてよいと評価するBest5の教員の名前を書いてください、1位=5点、2位=4点・・・とし、集計して、背面黒板に掲示しましょう」
 生徒は思い思いに5人の教員の名前を書きました。それを授業中に集計し、書き出しました。
「このなかに名前が一切出てこない教員がいますねそれって何なんでしょうか?」
では、こんどは「Worst5」でやりますか?そして張り出したとしましょう。いや「体罰ランキングWorst5!」「セクハラランキングWorst5!」

 こうしてこの「学校の先生はどうして「いらっしゃいませ」といわないのか?」と題する授業を行ったのでした。もちろん、この授業は「経済分野」の学習として行われたのです。市場原理がこの問題にどのような解答を与えるのか、それを学習したにすぎません。私は、市場原理で何でも片付くのか、というアホなパブロフの犬的反論を恐れます。必要十分条件ということばがありますが、必要条件ではあっても十分条件かという保証はもちろんありません。生徒の【解答例】は学習した事例のきわめて典型的な適用例として掲載しました。もちろん、市場原理ですべて解決がつくわけもなく、また市場原理は新たな問題を惹起するなどと言うこともいうまでもありません。
 私は、近代的な人権をまったく否定する公務員としての教員の前近代性の消し方をここで提示しました。『政治経済』の教材よろしく、情報の公開と市場原理による選択の自由、これを一つの形式として提示してみたことになります。かように、私たち学校は『政治経済』を前近代から近代へという段階でとらえるという必要性に往々問われることになります。それは、教科書が想定しているレベルではありません。
 さて、学校の不祥事、学校の前近代的な権力の乱用、という問題にたいしてどのように私たちは歯止めをかけるのか、ここからは一般的な問題として考えてみたいと思います。


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20 コメント

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「先生」とよばれる「身分」 (ハラナ・タカマサ)
2005-09-18 21:20:23
「先生」とよばれる「身分」は、もちろん、「学校の先生」が典型ですけど、「お医者さん」「臨床心理士先生」「弁護士さん」「会計士さん」「税理士さん」「代議士先生」「棋士先生」「作家先生」「教祖さま」など、多士済々です(笑)。

 これら「先生方」の共通点は、決して公務員とか、非市場性といったものではありません。高度の選抜原理によってかちえた、専門知識のもちぬしで、おもには「こまった状況の打開者」などとして、位置づけられているものです。「棋士先生」「作家先生」など、特殊な「先生」以外は、基本的に、トラブル解消の「すけっと」であり、ひとびとの不幸に 生業の根拠をおいています(笑)。でもって、基本的に、「アタマをさげず、むしろ顧客が謝金をもって、アタマをさげる。ときには、正規料金以外の、お布施まで、もちよります。「顧客」が、よわりはてているからです。警察に、ねじこんで、拘束/反則金などをとりけしてくれる「代議士先生」なんてもの、同類です(笑)。わたくしからしますと、三文時代劇にでてくる「用心棒の先生」と、同質です。

 もちろん、学校空間的な「先生」でも、市場原理バリバリの集団がいます。小中学生をおしえる塾講師であり、高校生/浪人生をおしえる予備校講師などの「先生」です。スポーツ選手のように、「現役」時代がみじかいので、高額年俸がほしいところですが、そんなものにありつけるのは、Jリーガーなみに、くるしい世界です(笑)。
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言わないんじゃなくて・・・ (匿名)
2005-09-18 22:37:11
 またまたコメントさせていただきます。私が考えるに「いらっしゃませと言えない」んじゃなくて「言えない」んじゃないですかね。それは学校という場所が「言えない空間」なのかもしれません。
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間違えました・・・ (匿名)
2005-09-18 22:38:17
「いらっしゃいませと言わない」んじゃなくて「言えない」の間違えです。
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どういうことかしら? (木村正司)
2005-09-20 22:46:05
匿名さんへ

「言えない」と言う意味をもう少しお話いただけませんか。
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お答えします。 (匿名)
2005-09-21 09:37:04
 つまり「言わない」というのは、言う意志があるけどあえて言わないということ。僕の言う「言えない」は言う意志すらないことです。学校の先生は後者であると私は言いたいんです。皮肉を込めて言いましたが、学校そのものが「言えない」空間なんじゃないでしょうか。つまり生徒が入学して当たり前。生徒が入らなくても給与には響かず毎年昇給や賞与が約束されている。こんな温室栽培の職場なら、「いらっしゃいませ」という意志すら起きないと思いますよ。ほんの「わ」と「え」の違いですが私はこんな解釈の仕方をしたのです。こんなんでいかがでしょうか?
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公共性という問題 (木村正司)
2005-09-24 20:47:08
匿名さん、どうもありがとうございます。

まず、上の私のカキコのほうですが、みなさんのカキコのあとそれを読んで、【解説】を追加しました。ま、これが私が行った授業の趣旨です。このテーマをどのような文脈で投げたか、ということを付け加えておきました。

さて、では、こういう問をみなさんはどうお考えになるでしょうか「はたして、教員は「いらっしゃいませ」という必要があるのか?いえ、教員は「いらっしゃいませ」というコンセプトでその活動がくくりきれるのか?」

それを公教育の必要性というように考えてもいいでしょう。なぜ、「いらっしゃいませ」などという人間関係にしなければいけないのか?公教育、公共空間は、「いらっしゃいませ」の世界ができないことをやる場所ではないのか?

これと、私が解説で述べた次元の問題の解決とが、どのように同居するのか、ここです。

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生活者主権 (木村正司)
2005-09-24 23:23:43
ハラナさんの書き込みおよびTBにかんしてコメントします。私はハラナさんほどに詳細に「いらっしゃいませ」を考えていませんでした。あるいは、「いらっしゃいませ」をハラナさんのくくりでとらえてはいませんでした。学校という世界は生活者主権でなりたっていない、カネはらって学校嫌いになり、それでも授業料をはらいつづけ、なお、学校嫌いになり、あげくに「出て行け」だの、「こんなのもわからねえのか」という対応をされる、少なくとも等価交換になっていない空間なのだ、ということを私は書いています。いいんですよ、「いらっしゃいませ」といわなくても、それでも対価を満足して受け取れれば、それは立派な「いらっしゃいませ」です。需要と供給という世界がない、ということが主題なのです。もう少し言うなら、需要と供給という出会いが自覚できない世界があるのだ、ということが私の論題です。あの立川談志でさえ、深々とお辞儀をし「いっぱいのおはこび、ありがたく御礼申し上げます」といい、最後には深々とお辞儀をして消えていきます。何より、客というものを意識し、客の求めのために死ぬほどの努力をしているわけです。そこにあった「いらっしゃいませ」は絶対にあるのです。そのなかでマルクスが商品について書いているように、どこからか売り手市場になり、どこからか買い手市場になる、しかし、いずれにせよ、客という存在が存在する世界としない世界があるわけです。効用を一切考えなくてもよい世界が。

ところがです、ハラナさんが、再三にわたって強調されるようにいったん市場が入れば、使い捨てという地獄が現在化するわけです。ハラナさんがお書きになられているJリーガーばりの一部の成功者と酷使されるだけの層への分解。私はここはいま論じていません。現実は同時進行でしょうが、論理としてわけているわけです。

ただ高校の現場にいて明らかにこの人たちの提供する教育に明日はないと、断言したくなっちゃうわけです。私は子供がいませんが、子供がいたら、とてもじゃないが、この人たちに教育されたくない、とくに自分たちに不快感を与えるデキの悪い生徒に対する対応のひどさはゾッとします。

小泉改革がウケましたね、実は民主党の支持基盤が私たちの労組です。みえちゃったんだとおもいますよ、無党派たちに。こいつらも同じだって。労組も教育委員会という官僚もしょせん、天下りだの、既得権だの、という抵抗勢力だ、それはすぐにわかりますよ。そうなったときに、ええい民営化しろ、といわれたときに、ハラナさんがご指摘する事態になるだろう。

私はおそらくハラナさんがくくられるくくりの使い捨てに自分がなるだろうと観念しています。ま、だから合理的な社民党になることをきたいしているわけです、社民党がね。しかし、絶対に、私が該当者にならなくても、広汎な教養を売り物にした教員、売り手になりうる教員というものがこの消費社会でははっせいせざるをえないのではないか、とそこは見ているのです。というより、そこの展望を作ってやると思っているわけです。



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熟練工組合の独立 (木村正司)
2005-09-25 09:37:06
ハラナさんの射程は広く、深いので、一回のコメントですぐ答えはでません。私の現実で生きることで解答がなしうる、と思っています。一応、レスを私のすぐ上のコメントでしましたが、もう少し付け加えます(このコメントはハラナさんの貼られたTB本文コメント欄にも書き込みさせていただきました)。

ハラナさんの本文の結論部「プロダクションとか球団/協会と同様、理事会とか教育委員会とかが、「巨悪」」はズバリ私の現場での皮膚感覚です。教育委員会という無責任団体の無責任をどう解体させつつ、責任を問わせるのか、この問の前に私は現在沈黙です。

市場化による両極分解の問題もじつは私には何の対抗策もないのです。おっしゃるとおりなのです。私はただ、前近代的な人間関係を溶解させる手段として近代化の過程を市場や情報公開という形で問い、それいがいは思いつけないわけです。それはもちろん、論理的解答でしかありません。

私はしかし、ハラナさんの悲観をみながらも、それが私でなくても、きっと熟練工組合にそうとうするものが熟練の重視、それも生活者主権、消費者主権重視の、多品種少量生産という消費社会的形式を生むのだ、と思っているのです。私は労働組合の歴史をみて、未熟錬工組合はほとんどその意味を歴史上のこせていないとみています。私はあるいみ、予備校のカリスマといわれる連中がハラナさんがいうような意味での使い捨てという環境を変えられないのであるならば、それは隷属民とみます。私は落語や囲碁将棋、プロ野球という世界を現在の熟練工とみています。彼らはやはり最後に〈移動しうる〉という〈独立〉への運動をし、また自分たちのチームをつくり、文化の伝承と熟練の保持を懸命に探るのです。そして、隷属民は絶対独立しようとはしない、そして隷属民あがりが下手に管理的な立場に立つと隷属状態を再生産する・・・ええい、てめえら隷属がお似合いよ!俺はいやだというヤツら俺と連帯せよ!(古いなあ)
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匿名さんへ (木村正司)
2005-09-25 09:46:19
匿名さんがもしおよみになられたなら、木村として質問したいことがあります。ハラナさんのTBにはハラナさんの一貫した持論が展開されています。それは、私には重すぎて基本は上で書いた「強がり」(笑)を書くに止まっているのですが、――匿名さんも別の箇所で例の中学教師の方にお答えになっていたように――塾だってこき使われるだけ、客をえらぶなどというレベルでは到底ない、とおっしゃられていました。市場化はますます働く側が弱い立場にたち、雇用される側に依存せざるを得ない、という物語のすさまじさに明るい展望はないのでしょうか?私は市場化が避けられないというレベルで、つまりいいの悪いのいっていられねえべ、というレベルでこの問題を考えています。しょせん、安くていいものをほしがるのです。消費する側は。そのときに、消費する側に立つと、自分が生産する側であることを人はどうも忘れるのです。で、自分の首を自分で締める。その循環にハラナさんは出口なし、とみています。私もじつは同感です。
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お答えします。 (匿名)
2005-09-25 19:56:45
 木村様、ご質問有難うございます。質問の内容は「市場化はますます働く側が弱い立場にたち、雇用される側に依存せざるを得ない、という物語のすさまじさに明るい展望はないのでしょうか?」ということでよろしいでしょうか?そう受け止めてお答えいたします。

 われわれサービス業は消費者がいて成立しています。また雇用者がいて成立しています。消費者と雇用者の板ばさみになっているのが我々従業員になるわけです。私は、このサービス業は明るい展望の兆しがないと考えます。つまりその状況が嫌なら自分で企業を起こすことが最善の策と考えます。しかしながら意外とこの板ばさみの状況も中々も刺激的で私は好きなのですがね。こんなとこですが、もし質問の論点がずれているならばご指摘ください。どんな質問でもお答えさせていただきます。
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