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履修を修得条件とすることは絶対的な論理矛盾である

2025-08-13 20:47:08 | 成績・評価

全部履修しても未修得

 ある生徒がほとんど全授業を履修しているのに「1」が数科目に付いたという報告を成績会議で担任がしていた。この事実は私たちに重大な指摘をしている。それは、

「履修すれば修得するというものではない」という指摘である。単純にこう問おうではないか。

「履修すれば即修得なのか?」

履修は必ずしも修得ではない

 この問いには比較的容易に答えうるだろう。この命題の意味をよく考えてみたい。「履修」と「修得」は等号では必ずしも結び得ないということだ。これは少し論理学が理解できる人間ならば、こういう結論にもなることを理解できるだろう。

「マイナス履修することは、必ずマイナス修得することにはならない。」

 つまり、「履修しなかったことは必ずしも修得にはならない、とはいえない」ということだ。要するに、履修しなかったことも修得とは必ずしも等号では結び得ないということだ。

 先に私は「履修すれば、即修得したことになるのか?」と問うた。今の表現はそれを言い換えれば、「履修しなかったことが、必ず修得しなかったことになるのか?」という疑問になるのだ。なぜか教員世界にはこの問いの前に〈バカの壁〉が存在している。

再度・履修すれば修得なのか

 普通、履修すれば必ず修得か、といえば、そうではない。なぜならば、多くの科目で、欠席が3分の1以内という履修のための最低条件を満たしていれば、生徒はその修得結果に差が出ており、具体的には「1=未修得」から「10」までのばらつきで修得結果がでているからだ。上記欠席条件をみたしているかぎりにおいて、履修が少なかった生徒が「10」を獲得し、すべて履修しても「3」という生徒が出る可能性を私たちはそれほどの違和感を持って受けとめることもないだろう。
 この論理の単純な適用で端的な矛盾がでてしまうのが国語科や家庭科が実施している「出席点」というシステムである。このシステムでは出席すればそれだけで「出席点」として、加算される仕組みになっている。「履修すれば部分的ではあるが無条件で修得」としているのだ。こんな杜撰な修得条件は通常ありえないではないか。履修することは小学生でも、ひょっとすると3才の子供でもできるのだ。私たちは履修すればその人の修得した実態を無視するのだろうか。
 履修すれば修得したとするこの「出席点」という修得観は何を意味するのか。私の見解は後で述べるとして、まず問いたい。ただ出席しただけで、なぜ、それが点数として加算されるのだろうか。

5分の1欠席規定という不可解 

もっと不可解なのが、実技科目と英語が行っている5分の1の欠席で未修得という評価方法である。これはもはや論理を形成できない。「でたらめ」といわれてもしかたがない。その「でたらめ」さは二つほどの問いを発してみれば判明する。
 その質問を発する前に次の前提を確認しておこう。私たちは「3分の2以上の出席をもって履修条件をみたした」としている。つまり、「3分の1+1」の欠席がなされた時点で即座に、年間の出席は「零出席」とみなされる、修得はおろか、履修さえ一時間もなさなかったとみなされるのである。 それに対して、3分の2以上の出席をすれば、1年間の出席条件は満たしたとみなされるのである。これが大前提である。つまり、原則は「3分の2以上の出席があれば、修得「1」から修得「10」の可能性がある」というのが、この原則の趣旨である。この原則をまず確認しておこう。
 さて、ところが、「5分の1規定」を実施している教科・科目は5分の1以上3分の1以内の欠席数で「1」、つまり無条件で「未修得」だとしているのである。

 では、まず、こう問うとしようか。

「5分の1以上の出席をしても「1」つまり未修得ということはありえないのか?」

 ありえないなどといえるわけが通常〈無い〉だろう。では、「5分の1以上の出席をしても「1」つまり未修得」であった人間が満たした「5分の1以上の出席=履修」の修得に関する意味は何だろうか。
 じつは、この事実こそが「履修が修得とは関係無い」ということを物語っているのである。ところが現実には、3分の1以上の欠席はしていない=履修条件は内規上満たしているのにもかかわらず、該当生徒は、修得条件を「無条件」に奪われている(履修と修得を無条件で等号で結ばれている!)のだ。なぜ、5分の1以上3分の1以内の欠席だけが修得と無条件で連結されるのだろうか。論理は破綻している。

 通常未修得者はこう説明される。
「君は、履修条件は満たしているが、修得していない」
 ところが、この5分の1規定では「君は、履修条件を満たしているが、履修条件を満たしていないから無条件で未修得だ」といわれているのである。「履修条件を満たしているのに履修条件を満たしていないから未修得」、この論理破綻した論理は裏返しとして「修得条件のための履修に達すれば即絶対的に修得」といっているのと同じである。しかし、それも(上記のように)許さない、というとしたら、一体これが何を意味するか。ふつうならば、ただの「ダダっ子」でしかない。つまり、5分の1以上3分の1以内は何が何でも一切の修得を認められない、というのと同じである。
「うるせえ、四の五のいうねえ、だめなものはだめ」これしかいっていない。どう考えてもこれは論理ではない。

 なぜ、「5分の1以上の欠席」が修得にいたらないのか。この「5分の1以上の欠席」が絶対的未修得であるという絶対性を各教科は示さなければならない。これが教科の挙証責任・説明責任である。言い換えれば、この「5分の1以上の欠席」の到達度としての「未修得」を絶対的に示さなければいけない(通常不可能である!)。
 今一つの問いはこの「絶対評価」の「絶対性」と関連する。この「5分の1欠席=未修得規定」は5分の1以内の欠席者には履修条件を適用しない。つまり、論理上は「10」の可能性が「5分の1マイナス1の欠席」から存在する。つまり、論理の可能性として「5分の1」と「5分の1マイナス1」の欠席の一回の欠席の違いで「1」と「10」の違いの可能性が出てしまうということだ(実際、「7」と「8」の可能性をほのめかした事例が前期の成績会議で体育の教員からあった)。これを論理と呼べるのだろうか。

道徳と学力の未分離という後進性

 では、一体「5分の1欠席=未修得規定」とは何なのか。これだけの履修不足が絶対的未修得となるという、つまり「履修」と「修得」を無条件で結びつけてしまう構造は何か。
 それは追認の中身を見れば一目瞭然である。
 私はかつて杜撰な追認試験をいやというほど見てきた。
 多くは「写せ」とか「何回繰り返せ」、ひどいものは作業である。
 日本の社会は学力になど何の関心も無いのだ。あるのは一言〈恭順せよ〉〈いうことを聞け〉〈素直に従え〉。道徳と学力の区別がつかないのである。多くは履修すら満足にさせられない教授者の、その教授能力を外部者に査定されないことをいいことにした「はらいせ」「江戸の敵を長崎でうつ」程度のものなのである。こんなことをくりかえしていたのではこの国はもたない。


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1 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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Unknown ()
2020-05-28 09:53:34
まぁ、そもそも学校自体が無意味で不合理で無駄な害悪の存在ですね。
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