ホッブズの思想

別段、ホッブズは体罰を支持してるわけではありません。大体、体罰のことなど彼は何も書いてません。しかし、ホッブズの論理を応用させていくと、まちがいなく体罰を支持する思想に変換することが可能です。
ホッブズは、彼の有名な、あまりに有名なことばである「万人の万人対する戦い」という概念を提示しました。全く自由な状態を設定すれば人間は、お互いに対してオオカミである、というのが基本のコンセプトです。さらに、これを要約すると人間というものは、自由を手にすると、秩序を破壊する自由だけを行使するのだ、というのが、 基本的なホッブズの人間観です。
この論理を、体罰が置かれている状況に翻訳してみましょう。すると、こうなります。
生徒は、基本的な本性として、感情的、かつ利己的である。そして、加減というものを知らない。いわば、理性が肝心なところでは飛んでしまう。そして、その結果、自由を生徒が行使すればそこには学校の勉強をする秩序を破壊する自由を行使する、結果、そこに無秩序が出現する。ホッブズは基本的にこういう図式を描きました。
だから、臣民は自由を全面的に放棄せざるをえない。放棄して賢明なる指導者に全面的にこの自然権を譲渡する。生徒の次元でいえばこうです。生徒はわがままで怠けものである。いや、わがままで怠け者が生徒のなかにはいて、生徒集団はその怠け者を秩序づけることはできない。そこで、学校側に全面的に自由を譲渡する。学校は、どこまでが、自由で、どこまでが彼らの権利かを決定する。もし、それに従えない場合は学校側が外から規制する。こういう論理を組み立てることになるのです。
君たちの中にはわからずやの怠け者がいる。君がそうかもしれない。君の同級生がそうかもしれない。そういう人間を君たちでは、秩序の枠内にとどめることはできない。そこで、学校が全面的にコントロールする。場合によっては体罰もふるうことはある。それに君たちは絶対的に従うのだ、と。
「わからずやの怠け者はまともな理性がない。そういう人間に自由を与えては無秩序になる。理性がない人間は、外から規制するよりない。したがって、体罰も場合によってはせざるをえない」
こう論理を構成するのです。
もちろん、こういう反論は可能です。
「それはわかりました。しかし、賢明なる指導者がまちがったらどうなるのです?行き過ぎたらどうなるのですか?」
ロックの思想

それに対して、ジョンロックはこういいます。
人間が理性的でない、というのは間違いである。人間の本性は基本的に理性的である。人間は基本的に私有財産を自らの手でつくり、蓄積することを喜びとし、そのための努力をするものである。だから、そもそも政府とは、その私たち国民の私有財産蓄積の努力の手助けをするために設立されたものなのだ。権力はあくまで私たちの私有財産の蓄積のために存在する。したがって、権力行使は、あくまで国民の合意を基本とするのだ。
体罰についていえば、外から合意もなく一方的に行使することを、非とするのがロックの立場である。生徒は理性的な存在であり、本来、学業を含めた教育活動で自分の財産を蓄積しようとする存在なのだ。学校は、その手助けをし、援助をするものだ。あくまで、したがって国民の合意が必要である。
もし、国民の財産形成を妨げ、権利を侵害する人間が権力の座にあったとき、国民には抵抗および革命をする権利がある、とロックは主張する。つまりだ、ロックは体罰についてこう論ずることになる。
「生徒は基本的には理性的である。そして、学校で学力という財産を自分の手で蓄積したいと考えている。したがって、あくまで、生徒が納得するような指導をすることが前提である。」
きいてもわからない。やる気も起こらない。しかも選択の自由もない。その上で、その教員とつきあえ!いうことを聞かない奴は外から規制する。体罰も可だ。という論理に対しては、したがって
「それ[体罰可という思考]は、教育力のない教師の力量の問題である。説得できない人間が、理性的な対応ができないために編み出した夢想にすぎない。むしろ、私たち生徒は自由を要求する。教員を選択する自由、ダメ教員を排除する自由。これがないから、授業中にケータイの林を立てざるを得ないのだ。これは、やむをえない抵抗である。」
さて、みなさんは、どちらの立場に立つことになるのだろうか?![]()
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