実は山田太一はけっこう不倫を題材にしている。一方で、「ありきたり」な生活を描きながら、その生活を否定的にとらえ、その向こうを志向する物語を書いているが、その一つの物語の形式として不倫という男女の営みを描いている。何故私たちはありきたりな生活の向こうとして、不倫を望むのだろうか。どうして私たちは不倫感情に、「潤い」を感じ、「なんか詩のようなものを、恋とかそういったものがとても必要」だと考え、「恋ができる自分を喜んで」しまうのだろうか。 . . . 本文を読む
山田太一『早春スケッチブック』はありきたりを嫌悪する沢田竜彦というキャラクターをとおして物語が展開してゆくのだが、その沢田竜彦の生き様を一貫して貫いているのが、「死の受容」という姿勢だ。しかし、沢田竜彦は決して堂々と死を受け入れることができるわけではない。見苦しくもオロオロしながら、あるときは、死に怯えて失禁し、あるときは、家の片隅で泣きながら死を恐怖に打ち震えるのだ。死は怖いのだ。それにしても、ありきたりな生き様への嫌悪と死を受け入れるという極端とはどのようにつながるのだろうか。「バカは死ななきゃ治らない」という言葉を私たちは知っているが、死ぬのは嫌ではないか?この連環はまたのちに考えてみたいと思う。 . . . 本文を読む
山田太一の『早春スケッチブック』はありきたりな生きざまに対する嫌悪という情念が巻き起こすドラマだ。作中の人物たちは沢田竜彦が突きつけるありきたりな生きざまに対する攻撃への対応を求められる。
そりゃあないでしょ、非常識だよと、人は攻撃されれば一応防御する。防御するが、小さな雨だれが大きな石に穴を穿つように、何かの変化を自身に引き起こすことを強いられる。いや、強いられるというのは正確ではない。迫られる、いやそれも正確ではない。自発的に、変化を起こさざるを得ないところに追いつめられる。うーん、どう表現しても正確ではない。要するに、外的強制ではないのだ。 . . . 本文を読む
通常しかし、だれもこの「ありきたり」に地獄の苦しみを感ずることなどないのではないだろうか。お前はありきたりだ、いや、端的に「お前はつまらない。言ってること、なしてること全部平凡でつまんねえ」といわれても、その言葉の不快感はあるかもしれないが、ありきたりな自分に苦しむことは通常ないのではないか。〈感動〉することは誰しもある。しかし、それが長続きしない。いろいろやり散らして一向にものにならない。根気がない。ちょっとした感動はある。よし、とやってみる。しかし、どれもこれもじきに飽きてしまう。〈感動しつづける〉ことはなかなかできることではない。そして、私たちはそのことのもつ意味になかなか気づかない。 . . . 本文を読む
私たちが異性に対し恋愛感情を抱き、さらにそれが愛情へと発展することはあることだ。しかし、いつのまにか、その感情が薄れ、枯れてしまうこともまたあることだ。努力しても、いかんともなしがたく関係が悪化し、破綻することもある。まさに、「長く一人の人間を愛し続けるということは放っといてできることでは」なく、能力の問題であり、人格の問題なのかもしれない。
しかし、こうは考えられないだろうか。人格がいかに高潔だろうが、能力がどれだけ高かろうと、それをあざ笑うように、何かの力が、私たちから愛情を奪い、そして、その自覚さえも奪うことがあるのではないか。 . . . 本文を読む
無期で泣いた井上嘉浩 一審で死刑を求刑されたオウムの井上はかなり精神的に参っていたようである。警察に吐くだけ吐けば情状酌量の余地はあると、お定まりの取り調べの言質をもらったのかもしれない。いずれにしても、死刑という求刑を受けた彼は相当追いつめられたのだろうと思われる。ためしに今晩寝しなにお考えいただきたい。「あんた、死ねや」といわれ、それが実際にあなたを襲うのである。死刑とは、死刑の決行の予告が当 . . . 本文を読む
■私はコンテストについて、これまで論じてきました。コンテストがもっとも活性化する構造を、マルクスに問い尋ねてみたいと思います。それは、「互いに独立して、かつ依存する」という関係なのです。それは、互いが移動の自由をもって交通することだ、といってもよいのです。■それは、市場が典型となる場です。まさに、単位制高校です。学年制の閉じた構造にはこの試みはほとんど意味を失います。 . . . 本文を読む
みずからの鏡をもつこと。鏡に写る自分との究極の事後としての一致のための準備を事前に重ねること。そして突然の瞬間的な鏡との対面を通して、そのズレを確認し、みずから自身を確認しつづけること、ここに西洋は自律の根源をみるのである。カントの、まず理性による認識が先行する、そして、対象それ自体はついに認識されることはあり得ない、という理性批判もこうした構造をとらえて議論しているのである。
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私は、囲碁とか将棋をやります。いえ、スポーツでもいいんです。勝負事をしたとき、みなさんは、目をつぶって、決めるよりない、何がたしかなことかわからない、という局面があることは想像できるでしょうか。まさに、そういう局面を想定した時、デカルトのこの議論は、私たちに迫ってくるのです。そのとき、 「わからない、ということだけがたしかなこと」「分からない、と考えている自分がいることだけがたしかなこと」 という局面があるのです。そうです。無いものがあるのです。無いと考えている自分の存在はたしかだ、確かに存在する。確かなことだ! . . . 本文を読む
◆ちょっと調子に乗って続編です。今度は男性編です。◆ もちろん、彼らは、こうした外見のAND MOREを付加されながら、本業の〈それ〉をもっています。そのうえで、〈それ〉だけではない、何かを付加させているのです。◆上の写真の競泳背泳ぎの入江陵介選手は身長が178cmなので、それほど高身長とはいえませんが、まあ、しかし、あなたのまわりでゴロゴロいますか?178cm(笑)!◆前回載せた寺川綾選手は174cmですから、こちらは一見して違う!驚くと思いますよ、近くにいたら(笑)!これでヒールを履いてご覧なさい!ね!◆それに比べたら、入江選手は大きいとは言えませんが、ま、いろいろ趣味はあるかもしれませんが、イケメンですね。くわえて上の写真はあきらかに何かを付加されています(AND MORE)。 . . . 本文を読む
上の写真はご存じ、競泳背泳ぎの寺川綾選手です。彼女のスイマーとしての能力はともかく、くわえてその美貌は何かを私たちに引き立たせることは認めなければなりません。下の写真はさらに何かが加わって寺川選手の魅力をさらに引き立たせようとしているのが分かります。その〈何か〉、こそ、私たちの社会では重要な価値の源泉となっています。ヘアメイク、水着の色やデザイン、何よりカメラマンの能力、照明、そして、本人への〈笑顔の指導〉・・・・つまり、寺川綾それ自体に私が思いつくだけで、これだけの〈付加=AND MORE〉が加わっていると考えられるわけです。いいですか?考えられる、ということに注目です。本当はどういう付加が加わっているか、ここが大切です。これが価値の源泉であり、さらにそれを外化させ、客観化させることこそが、そして、さらに、それを〈市場〉で評価させる力こそが私たち社会の〈労働能力〉なのです。寺川選手を見て、「ああきれい」とか「たいしたことはねえよ」などというところで止まっていては、いけません。寺川選手それ自体にせよ、好感度を与えるために、今日明日ではどうにもならない何かをしているのかもしれません。こうした能力を、教育社会学者の本田由紀は〈ハイパーメリトクラシー〉と呼びます。 . . . 本文を読む
何でもそうだが、超一流の価値をそう簡単に素人が理解することはできない。私は将棋を趣味とするが羽生善治という天才の天才たるゆえんの手を理解することはできない。そのとき、その超一流のすごさを批評する存在が必要となる。超一流のすごさを理解することは簡単にはできないのだ。 . . . 本文を読む
ルソーは単純に『人間不平等起源論』で「どうして授業料払って、毎日学校へ行って、毎日毎日、勉強嫌いになって、バカになって、それでもカネはらって、不良になっていっちゃうんだ」という疑問を提起したのだ。それは言われれば新鮮であり、なるほどと思うではないか。生徒にこれをいうと、今更のように、「なるほど」というのである。生存権というコンセプトはこの文脈から立ち上がる。 「バカがね、学校で勉強することの恥ずかしさ、先生にわかるかい?きついよ、まわりは体中でいうんだよ。「何?そんなこともわかんねえの?」って、それに耐えるんだよ。先生はホント、デキのいい生徒が好きだよね、そういうのって敏感にこっちに跳ね返ってくるのよ、それでも学校で勉強するってキツイのよ」 もちろん、通常この言説は先生の 「そんなにいやなら学校よしゃあいいじゃないか、だれも来てくれとは頼んではいない」という言説にうち消される。 . . . 本文を読む
私たちは県に労働を買ってもらうことになる。当然、そこで買ってもらえるかどうか、という篩が存在する。採用試験だ。しかし、採用する側が、また、篩にかけられる。交換という篩にかけられる。それは、県民のニーズ、県民が自らの労働の対価として支払ってくれるかどうか、という対価ということになる。そこで、買ってもらえない、という事態が、愛されていない、という事態が不安として存在すること。ここに、価値の出現がかかっている。 . . . 本文を読む



















