かつて2006年のサッカー、ワールドカップのさいに、選手たちをサムライブルーと呼びました。また、今年のプロ野球のワールドカップではサムライジャパンとチームを呼んでいました。このサムライという形容をスポーツ選手に付け、印象づけられたはじめの選手は、こと私についていうと落合現中日監督なんですね。バット一本で生活している落合を世間は職人とも呼んだことがあるのですが、戦闘し、しかも独立した、一匹狼としての落合にはサムライと呼ぶほうがふさわしいと思ったものでした。
さて、みなさんは、学校の先生もサムライだってこと知ってましたか? . . . 本文を読む
この一年間、学校の業務がかなりの原因ですが、ブログの更新がままなりませんでした。世界史の授業を持つ、という去年は大変な一年で、ブログを書いている余裕がありませんでした。 今年は、一年ブランクを開けてしまった倫理の準備にくわえ、新しい学校設定科目「時事問題考」で一年間いじめを授業で扱うという私のこの15年ほどの研究成果を集大成する作業もあり、なかなかブログを書くという余裕がありません。 ま、ぼち . . . 本文を読む
■「授業態度」と「出席」は全員が自分の成績の中でどのくらいの配分になっているのかを〈問いただした〉ときに崩壊します。なぜなら、説明できないからです。いや、この問いは現実的ではありません。実際は「何?出席点?つべこべ言うな!全部出ればいいんだ。そんなことは気にするな!」とこの問いそのものを全力で打ち消されることでしょう。なぜか?出席点など測定不可能であり、授業態度など点数化できないからです。出席点は能力ではありません。授業態度も能力ではありません。そういう問いを発することが授業態度点を落とす(!)のです。
「つべこべ言わない能力」
実はこれが出席点と授業態度点の正体なのです。孔子はそれを「忠」とも「孝」ともいいました
. . . 本文を読む
落語家は高座でウケるかどうかが命である。しかし、ウケるかどうかはしゃべってみないとわからない。仕込みの段階で話を作り、演出をし、練習をする。しかし、その段階でウケるかどうかはわからない。あくまで事後において落語家は受けたかどうかを知りうるのだ。そして、しかも噺は高座の本番の事前に作られ、演出され、練習される。この分離こそ、談志が恐れ、高座に遅れ、謝らされる構造である。 . . . 本文を読む
「優先座席付近では携帯電話の電源をお切りください。それ以外の場所ではマナーモードに設定のうえ、通話はご遠慮いただくようお願いします。Please turn off your mobile phone near “Priority Seat”.」
これは電車のなかでの携帯電話の電源の切断のお願いの文章です。ここで注意をしなければいけないのは、
携帯電話の電源を切ることを要請するさいには、最後に
「ご遠慮いただくようお願いします」
「Please turn off 」
とお願いしなければいけないということです。
. . . 本文を読む
あなたは小児麻痺で足が不自由だがきわめて理知的に行動ができる生徒と頭は空っぽだが運動神経は抜群という生徒を比べてどう体育の成績を評価するだろうか?つまり、体育の能力とはどう判断するのだろうか?くりかえしますが、私がここで書く批判は他者を攻撃するという意味のものではありません。カントやマルクスがいう意味での批判、つまり、対象が拠って立つ構造や基盤を明らかにする、というほどの意味です。 . . . 本文を読む
「倫理」だけを教える教員が複数存在する学校を考えてみよう。それを生徒が自分たちの興味や関心に沿って選択するというシステムをさらに想定してみよう。こうした方向を目指すことなく、現在の学年制の学校単位の持ち分で、それも学年単位で、今年は「現代社会」、来年は「世界史」と専門性を無視して教科を持ちあうようなシステムで、どうして生徒の細やかなニーズに対応できるだろうか。そういう意味で、単位制というシステムの可能性をもっと私たちは考える必要がある。 . . . 本文を読む
精神分析はいいます。私たちは、自我分析や反省というちゃんちゃらおかしい、「ごっこ」をしたがる。しかし、自我分析はしょせん、自分に都合のよい、どうしても思い出したくない何かを封じ込めるための儀礼にすぎない!だから、私はいつの頃からか、自己分析なるものをやめるようになったのです。外部をみること、外部へと脱出すること、これが私の課題となったのです。 . . . 本文を読む
キリスト教は奴隷宗教です。ヨーロッパ世界のきわめて厳しい現実、ヘーゲルが「奴隷と主人の弁証法」と名付けたような、きわめて厳しい現実が存在します。主人とならなければ奴隷とならなければならない。しかし、その奴隷が奴隷であるがゆえに主人へと運動していくという逆転の弁証法を私たちは考えることができるのです。奴隷を私たちアジアの奴隷と考えてはいけません。私たちは、ヨーロッパの奴隷どもの恨み節をキリスト教に見ることになります。ニーチェは、その恨みがましさを告発します。しかし、まさに、その告発する精神こそは、奴隷ニーチェのキリスト教的な逆転なのです。奴隷が、奴隷であることをたえず、拒否し続ける精神、そこにニーチェはキリスト教を受け継いでいたともいえるのです。私たちは、最後に、 「こりゃ、違うわ」 というアジア的な溜息をつく演出ができたら、キリスト教の説明は、完璧と私は考えているのです。それを一言でいえば、 「奴隷の身分を奴隷と認識できる人間は、主人以外にいない!」 なのです。 . . . 本文を読む
私は心ある教員にこう言っている。
「一年で一度でよい。君がこれが私のメッセージのこもった授業です。というのがあったら呼んでくれ」
昨年日本史の私より二つ上の教員にこの声をかけた。
そして、ついに呼ばれることはなかった。
. . . 本文を読む
■これから、学校は少子高齢化のなか、どんどん需要が小さくなります。しかし、そのなかで需要を拡大する方法がなければ、学校はどんどん狭い道に追いつめられ、ひとりがいくつもの科目をもち、つまらない、規格大量生産システムの授業を吐き出すしかない、というところへとますます追いつめられていくのです。■どこからはじめるかは私も見当さえつかないのですが、この渡り教員というコンセプトをいかに実現するかが一つの需要拡大と教育の再生のカギになると私は現場の一人の教員として考えています。多品種少量生産からしか自立の目はないでしょうね。
. . . 本文を読む
ちょっと前まで、電気屋へ行けばこのように言われていたのです。
最先端のテレビは1インチ1万円
ところがどうでしょう。この液晶テレビは量販店ではもう37インチ画面のテレビが16万円台で売られているのです。出井はそれをこう言っているのです。
液晶が先端の時代はもう終わった。そして、
「次がもうくることはまちがいない」
というのです。もちろん、その
「次」
には答えはありません。答えはないが、
「絶対来る」
これが実は、哲学で言う
「外部性」
なのです。
答えはない、しかし、答えはある。
日本の電機メーカーの先端はこの問いを解かねばなりません。 . . . 本文を読む
私は、教員評価を、求めています。それも学校が授業中心だというのだったら、授業をきっちりと授業だけで評価してもらいたいと考えています。そのために、そのためだけにといってよいくらい、私は50歳を過ぎても、教科の研鑽には最大の努力を注いでいます。それが、じつは、私の部活命へのエールなのです。
. . . 本文を読む










