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  <title>高校公民Blog</title>
  <link>https://blog.goo.ne.jp/kmasaji?fm=rss</link>
  <dc:creator>kmasaji</dc:creator>
  <dc:date>2025-08-13T20:55:13+09:00</dc:date>
  <language>ja</language>
  <copyright>&#9400;NTT DOCOMO, INC. All Rights Reserved.</copyright>
  <description>高校の公民科（現代社会・政治経済・倫理）教育に関連したBlogです</description>
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   <title>到達度絶対評価　２　教科担当者の自己責任</title>
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<![CDATA[
<p>官僚制の無謬性と無責任性<br /><br /> 　一般に官僚制の問題として指摘されるのがこの二つの問題です。簡単に言うと、自分たちは間違えない、間違いを絶対認めない、という問題点と、無責任性、つまり、責任を取らないという点ですね。<br />　学校の先生も官僚制の末端です。この二つの問題は根深く存在します。授業を放棄し、授業をサボるという形で生徒が逃亡したとします。そのとき、あくまで、<br /><br />逃亡した生徒<br /><br />だけが責任を追及されるのです。先生の責任は、まず問われることはない。到達度絶対評価というシステムは、その責任を実は、学校の先生に問わせる制度なのです。<br /><br />究極の到達度絶対評価<br /><br />　現在、高校卒業程度認定試験という制度を懸命に高等学校は、制度として学校の内部に入れないように努力しています。<br />　この高校卒業程度認定試験とは、文部科学省が作成する高校卒業程度の学力を認定するという文部科学省じきじきに運営している制度です。<br /><br />高校卒業資格は、この試験に通ればよいのです、<br /><br />と文部科学省が認定しようとしているのに、全国の高等学校は、この制度を前向きにうけとめていないのが一般的状況なのです。<br />　この制度が高等学校へ義務付けられたとき、おそらく教育改革でなく教育革命に近いものが起きます。<br />　そうです。<br /><br />　この高校卒業程度認定試験を基礎学力の認定として制度化したとしましょう。<br />　もうひとつ、学校設立基準の規制緩和を大幅に実施したとしましょう。<br /><br />　実際、文部科学省は、この学校設立の規制緩和は推進しています。何も既存の高等学校へいかなくてもよいのです。塾や、予備校、フリースクールでもよいのです。この試験に通るべく援助してくれると、それも生徒たちのために努力していると考える学校を生徒保護者は選択すればいいのです。<br /><br />到達させる力があるのか？<br /><br />　学校は、生徒保護者の選択のもと、この能力を問われるのです。そこに学校の選択肢が存在することを前提にしたとき、本気で学力を身につけさせることを保障させることを、公言し、しかも、達成させられなかった時には、もっと可能性があると思われる学校へと生徒保護者が逃げて行ってしまうのです。<br />　ここに到達度絶対評価の真の意味が現れるのです。<br />　選択制が機能していること、そして、外部の教員が計らうことができない機関がその提供している学力の質を検査するという外部検査システムが存在していること、この二つが重なったとき、教員はその責任を追及されることになるのです。<br /><br />自分が教えて、自分が作った試験で、自分が評価できる、つまり、成績をどうとでもつけられる、などというシステムで、どうして、まじめな教育ができるんですか？？<br /><br />進学校の単位制高校化<br /><br />　現在、もっとも激烈に到達度絶対評価が実際に求められているのは、進学校です。進学校では、内部で授業を行った結果行う定期テストは、最終的には学力測定にはなりません。なぜか？<br />　だって、結局、各大学、あるいは、センター試験である水準に到達しなければ、意味がないからです。そこへ通るための本当の学力を、外部試験到達度絶対評価を、進学校の生徒は必要になります。全国の東京大学入試希望者のなかで自分はどのくらいの学力があるのか？そのための学力を測定してくれて、そのなかで勝ち抜くために到達しなければならない学力を真に授けてくれる授業者を望んでいるのです。<br />　ところが、大体において、進学校は学年制です。教員の競争もほとんどないのです。選択制がないのです。<br />　<br />「私は学力に自信のない人の英語力をアップします」<br />　<br />とたとえば公募するのです。そのときに、同様の趣旨の講師が複数存在するとします。そこに到達度絶対評価という外部試験が存在したとき、選択という行為が、教師の責任を追及することになるのです。<br /><br />　どの先生の教え方が自分にあっているか？<br />　この先生は教え方がよくない。自分にあっていない。<br /><br />　こうして、生徒の選択が、教員の評価を産み出していくのです。<br /><br />「私は学力に自信のない人の英語力をアップします」　<br /><br />　といって、実際効果を生む先生と産めない先生、ここに到達度が外部試験であることによる先生の責任を発生させるのです。<br />　これは、何も、入試だけではありません。教養科目も同様です。<br /><br />「私の「倫理」はみなさんの人生を深く考えさせます、おもしろいよ！」<br /><br />こう、コマーシャルして選択制の洗礼を受ける。すると、ここではじめて先生の教養が責任を、到達度の責任を問われることになるのです。</p>
<p>　実は、進学校の教員だろうが、そうでなかろうが、現在の学校制度では教員の責任は問われません。そして、学力が身につかないことはすべて生徒の自己責任となっています。そうです。現在、私を含めて指導力不足教員は現場ではさっぱりわからないのです。それは、指導者としての、到達責任が存在しないからです。外部試験、絶対評価、そして、選択制、この三つのなかから、生徒だけでなく教員の責任ははじめて問われることになるのです。<br /><br />　私たちは、これから教育が真に受益者の利益のために存在するシステムとなるための条件としてこの到達度絶対評価がどの程度浸透していくかを見ていかなければいけません。そして、どうしたら、この制度が学校に深く深く入っていくのか、考えていかなければいけないのです。<br /><br /><a href="http://education.blogmura.com/"><img src="http://education.blogmura.com/img/education88_31_1.gif" width="84" height="29" /></a><a href="http://blog.with2.net/link.php?182807"><img src="http://blog.with2.net/img/banner2.gif" width="88" height="36" /></a><br />↑　↑　↑　↑　↑　↑　↑　　　<br />よろしかったら、上の二つをクリックをしてください。ブログランキングにポイントが加算されます。</p>
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   <category>成績・評価</category>
   <dc:date>2025-08-13T20:55:11+09:00</dc:date>
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   <title>到達度絶対評価　１　総合的に評価しない</title>
   <link>https://blog.goo.ne.jp/kmasaji/e/4ce2913af75f2b522f42861aa9fca969?fm=rss</link>
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<![CDATA[
<p>総合判断の不能<br /><br />  ドイツの哲学者カント（１７２４～１８０４）は、主著『純粋理性批判』で、総合判断は可能か、という問いを立て、不可能という結論を出しています。<br />このカントが不可能と断じた結論に背を向けるかのように、いまだに学校の先生は、こう豪語しているのです。<br /><br />出席と授業態度とテスト、提出物を総合的に判断して、成績を出しています<br /><br />　総合的に判断して成績を出すなどということはできない、という、できないことを堂々と行っています。<br />　三年ほど前に、県教育委員会は各高等学校に、絶対評価で成績をつけるようにと、指導しました。評価基準となる観点を明示し、その割合を明示せよ、と。<br />　その指示に従って、高等学校では、シラバスを作り、そのなかで成績の基準を明示しました。そして、堂々と上に書いたことをいっているのです。<br /><br />履修と修得の区別<br /><br />　この不可能をしめすのはきわめて簡単ですが、一つ単純な質問をみなさんにします。<br />それは<br /><br />履修と修得の区別がつきますか？<br /><br />というものです。わからない方には、<br /><br />出席することと身につけること<br /><br />といっておきましょう。出席することを履修といい、どれだけ身に付いたかというのを修得といいます。出席することは身に付くことではありません。それをこういいましょう。<br /><br />出席すれば身に付くものではない<br />出席しなければ身に付かないのでもない<br /><br />この二つの言葉の意味をよく考えたいものです。<br />　出席は出席だけの条件です。成績は成績だけの条件なのです。ところが、学校の現状はそういう単純なことがわからないのです。<br /><br />そうです。これは、こう考えればいいのです。<br /><br />「出席すれば身に付くものではない。しかし、最低限度の出席を単位認定の条件とする」<br />「出席しなくても身に付くかも知れない。しかし、最低限度出席を単位認定の条件とする」<br /><br />こうして、履修も単位認定の条件としているのです。通常高校では慣習的に３分の１までの欠席は単位認定にしています。つまり、３分の１以内に欠席を押さえれば出席条件は満たした。としているのです。あとは、身に付いたということを私たちがどう認定するか、ということなのです。<br /><br />出席と授業態度とテスト、提出物を総合的に判断して、成績を出しています<br /><br />　出席は身に付いたこととは関係ありません（笑）。<br />では、どうやって、出席とテストと、提出物を綜合して最終的に絶対評価到達度の評価を出しているのです？<br /><br />　私は、この問いを生徒の半数が問いはじめたら、この制度は破綻し終わると考えています。なぜかって？<br />　答えは単純です。説明不可能だからです。<br />　カントは言います。私たちは綜合した全体など理解することはできない。私たちに出きることは、過去の事実のなかで分析的に概念を当てはめて、認識できることだけだ、と。<br /><br />　出席についてこういう生徒がいたとします。一回も休んでいない。そして、テストは１０点。<br />　それに対して、３分の１ギリギリの欠席である。そして、１００点。<br /><br />　さあ、あなたはこの二つの事例を到達度で、絶対評価で、どのように５段階の評価を出すのです。<br /><br />綜合してみやがれ（笑）！<br /><br />総合判断の意味<br /><br />　かつて私のクラスの生徒が、こういう事実を私に言ってきました。<br /><br />ある教科の先生は、ギリギリ休んだ友だちがテストを半分取っていたのに「１」にした。私は、何もいえませんでした。その先生は、大体どういう基準で成績をつけているの？とききましたが、要領を得た説明がなされませんでした。<br /><br />私が親ならね、その教師の所へ言って、<br /><br />「根拠を示せ、基準を明示せよ」<br /><br />とねじ込みますね。そして、絶対負けない（笑）。だって、１００％まともに説明できないから（笑）。<br />　私は、教育改革などと能書きを言う前に、これを徹底して教育できれば、学校はガラっと変わると思いますよ。これを小学校から徹底していくだけで。ところが、これがまったくできないのです。<br />繰り返します。<br /><br />総合判断はできないのです。<br /><br />　だから、私は、一つ一つの基準を明示して、それらを足し算をして、自分で計算できるようにしています。もちろん、出席も授業態度も評価基準を示せないし、客観的な根拠を示せないので、成績からは、修得からは除外しています。<br /><br />ここから、こういうことがいえますね。<br /><br />学校は、身に付くということについての客観性にはまったく興味がないのだ<br />学校は、身に付くということを生徒に客観的に理解させるという努力もしていないし、気付かせないようにしているのだ<br /><br />これで学力問題が解決しますか（笑）？</p>
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   <category>成績・評価</category>
   <dc:date>2025-08-13T20:54:44+09:00</dc:date>
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  <item>
   <title>意欲・関心を評価する</title>
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<![CDATA[
<p>ニワトリの鳴き声</p>
<p>司馬遼太郎が『竜馬が行く』で、耳が遠くなった年寄りがその自覚がなく、こう嘆いていたという例をあげている。</p>
<p>「昔のニワトリはもっと大きな声で鳴いたものだ。何なんだ、最近のやつらは！」</p>
<p>これが笑い事でないのがわれわれの業界である。</p>
<p>「最近の生徒はきかねえんだよ、寝てばっかりいる」<br />「この学校の生徒はだめ、進学校とは違う。やる気がない！」</p>
<p>意欲関心を評価する</p>
<p>　意欲・関心など評価はできない。私がここで書くのは、この自明な事実ではない。この自明な事実を、自明でなくさせるシステムを書こうと思うのだ。このシステムは、ある行為をもって崩壊する。それは生徒がこう、全員問うことだ。</p>
<p>「僕の・私の意欲関心は何点ですか？」</p>
<p>　もちろん、この質問が発せられないから持続させることができるのが、意欲関心を成績評価するというシステムなのだ。テストあり、提出物あり、そして、学校の先生お得意の授業態度、意欲関心を総合評価する。もちろん、その心は</p>
<p>「適当などんぶり勘定」<br />と<br />「依らしむべし、知らしむべからず」</p>
<p>この二つをあわせた「恭順＝従順度」を計るというものなのだ。これは、くわしくいえないが、高度成長モデルとしては機能したのだった。</p>
<p>バカ教師と有能教師のやる気</p>
<p>このシステムは、もうひとつこういうシステムがないことによって成立している。それは、教員の能力差が存在しないという前提だ。<br /><br />「あの先生は説明が下手だし、わかりにくいし、おもしろくないし」<br /><br />とりあえず、自分を棚に上げておくが、こういう悪評が高い教師が僕の所属する学校にいる。これでも、何年か生徒の授業評価の集計をやっているとわかるのだ。わかりやすいという評価、興味関心がわくという評価が5段階で「平均1点代とか、２点代前半」という人がいるのだ。そして、その教師がこう職員室で豪語しているのだ。</p>
<p>「しょうがねえよ、生徒は！きいてねえ」</p>
<p>これが、有能と無能の格差が存在するというのであれば、こうはいかないはずである。現在、教員の教授能力は客観的には測定し（でき）ないのです。<br />しかし、こういう事態が表面化したらどうだろうか。複数の教員を同一時間に並べて、選択可能である。ある一定の時間の受講期間に限って、渡りがありである。そして、最終的にいずれかを選択する。視聴ビデオもある。受講生のレベルに応じた感想が公開されている。評価も閲覧できる。</p>
<p>意欲関心が評価から削除されないわけ</p>
<p>ロシアがソビエトの計画経済から市場化したとき、よくいわれていたのが、何がよいのか、わからない、ということだった。君はここに住んでいるからこのスーパーマーケットへいけ、といわれれば、比較もできない、大体、何がよいかもわからない。こうして、小学校中学校とやってきて、さあ、いきなり、〈選択〉せよなる。これが私の勤務する単位制高校の現状だ。しかし、単位制高校が機能をフル回転したとき、意欲と関心はすくなくとも、</p>
<p>「しょうがねえ！こいつら」</p>
<p>という対象ではなくなる。<br />同一時間に複数の日本史が存在する。選択してよい。その複数の中には予備校も参入している。生徒をとりあうのだ。その取り合いに負ければ、その分の給料はない。<br />このとき、興味関心は評価の対象から喚起するのが当然の対象に変貌する。細かいニーズ、いったい歴史に興味を持つとはどういうことなのか？</p>
<p>先ほどの教員だが、私にこう豪語していた。</p>
<p>「生徒の興味関心なんてばらばらでこっちではどうにもならない。大体、基礎学力もねえやつらに、興味も関心もねえ」</p>
<p>最初のニワトリじいさんの話をここにひこう。耳が遠いことに気が付かなくてすむシステムがあるのだ。そして、気が付かざるを得ないシステムが存在する。そして、気が付かなくてすむという前提が崩れたとき、現在の評価基準としての意欲と関心は評価の対象から自然消滅せざるを得なくなる。<br />もちろん、能力の高低は存在する。興味や関心のばらつきは存在する。その上で、次の段階になったときに、いかに到達させるかという問題が浮上するのだ。現在存在するのは、素直な恭順を示せない不満分子を排除する機制というのが、この興味関心の機能なのだ。そして、それは、くりかえすが封建的な機能という意味での差の隠蔽をシステム原理にするところから発しているということだ。こういうと市場原理万能というパブロフの犬がおり、生徒を甘やかすという議論が噴出するのだ。何が何でも苦渋に顔を歪めてでも素直を求めるエトスである。経済学は功利主義を原則にし、効用理論をもってその評価を下す。その側に立つなら、</p>
<p>「どうして、勉強するのが楽しくなくてはいけないのだ。なんで、デキの悪い人間は苦しまねば、勉強に入っていけないときめつけるのだ」</p>
<p>小生は、必ずしも効用理論の側で思考してこなかったのだが、ここは反論がない。<br /><br /><a href="http://education.blogmura.com/"><img src="http://education.blogmura.com/img/education88_31_1.gif" width="84" height="29" /></a><a href="http://blog.with2.net/link.php?182807"><img src="http://blog.with2.net/img/banner2.gif" width="88" height="36" /></a><br />↑　↑　↑　↑　↑　↑　↑　　　<br />よろしかったら、上の二つをクリックをしてください。ブログランキングにポイントが加算されます</p>
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   <category>成績・評価</category>
   <dc:date>2025-08-13T20:48:19+09:00</dc:date>
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   <title>履修を修得条件とすることは絶対的な論理矛盾である</title>
   <link>https://blog.goo.ne.jp/kmasaji/e/9f987d636e3f4441bba0809f22568b0a?fm=rss</link>
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<![CDATA[
<p>全部履修しても未修得<br /><br />　ある生徒がほとんど全授業を履修しているのに「１」が数科目に付いたという報告を成績会議で担任がしていた。この事実は私たちに重大な指摘をしている。それは、<br /><br />「履修すれば修得するというものではない」という指摘である。単純にこう問おうではないか。<br /><br />「履修すれば即修得なのか？」<br /><br />履修は必ずしも修得ではない<br /><br />　この問いには比較的容易に答えうるだろう。この命題の意味をよく考えてみたい。「履修」と「修得」は等号では必ずしも結び得ないということだ。これは少し論理学が理解できる人間ならば、こういう結論にもなることを理解できるだろう。<br /><br />「マイナス履修することは、必ずマイナス修得することにはならない。」<br /><br />　つまり、「履修しなかったことは必ずしも修得にはならない、とはいえない」ということだ。要するに、履修しなかったことも修得とは必ずしも等号では結び得ないということだ。<br /><br />　先に私は「履修すれば、即修得したことになるのか？」と問うた。今の表現はそれを言い換えれば、「履修しなかったことが、必ず修得しなかったことになるのか？」という疑問になるのだ。なぜか教員世界にはこの問いの前に〈バカの壁〉が存在している。<br /><br />再度・履修すれば修得なのか<br /><br />　普通、履修すれば必ず修得か、といえば、そうではない。なぜならば、多くの科目で、欠席が3分の１以内という履修のための最低条件を満たしていれば、生徒はその修得結果に差が出ており、具体的には「１＝未修得」から「１０」までのばらつきで修得結果がでているからだ。上記欠席条件をみたしているかぎりにおいて、履修が少なかった生徒が「10」を獲得し、すべて履修しても「３」という生徒が出る可能性を私たちはそれほどの違和感を持って受けとめることもないだろう。<br />　この論理の単純な適用で端的な矛盾がでてしまうのが国語科や家庭科が実施している「出席点」というシステムである。このシステムでは出席すればそれだけで「出席点」として、加算される仕組みになっている。「履修すれば部分的ではあるが無条件で修得」としているのだ。こんな杜撰な修得条件は通常ありえないではないか。履修することは小学生でも、ひょっとすると３才の子供でもできるのだ。私たちは履修すればその人の修得した実態を無視するのだろうか。<br />　履修すれば修得したとするこの「出席点」という修得観は何を意味するのか。私の見解は後で述べるとして、まず問いたい。ただ出席しただけで、なぜ、それが点数として加算されるのだろうか。<br /><br />5分の１欠席規定という不可解　<br /><br />もっと不可解なのが、実技科目と英語が行っている5分の１の欠席で未修得という評価方法である。これはもはや論理を形成できない。「でたらめ」といわれてもしかたがない。その「でたらめ」さは二つほどの問いを発してみれば判明する。<br />　その質問を発する前に次の前提を確認しておこう。私たちは「3分の２以上の出席をもって履修条件をみたした」としている。つまり、「３分の１＋１」の欠席がなされた時点で即座に、年間の出席は「零出席」とみなされる、修得はおろか、履修さえ一時間もなさなかったとみなされるのである。　それに対して、3分の２以上の出席をすれば、1年間の出席条件は満たしたとみなされるのである。これが大前提である。つまり、原則は「3分の2以上の出席があれば、修得「１」から修得「１０」の可能性がある」というのが、この原則の趣旨である。この原則をまず確認しておこう。<br />　さて、ところが、「5分の1規定」を実施している教科・科目は5分の1以上3分の１以内の欠席数で「１」、つまり無条件で「未修得」だとしているのである。<br /><br />　では、まず、こう問うとしようか。<br /><br />「5分の１以上の出席をしても「１」つまり未修得ということはありえないのか？」<br /><br />　ありえないなどといえるわけが通常〈無い〉だろう。では、「5分の１以上の出席をしても「１」つまり未修得」であった人間が満たした「5分の1以上の出席＝履修」の修得に関する意味は何だろうか。<br />　じつは、この事実こそが「履修が修得とは関係無い」ということを物語っているのである。ところが現実には、3分の１以上の欠席はしていない＝履修条件は内規上満たしているのにもかかわらず、該当生徒は、修得条件を「無条件」に奪われている（履修と修得を無条件で等号で結ばれている！）のだ。なぜ、5分の1以上3分の１以内の欠席だけが修得と無条件で連結されるのだろうか。論理は破綻している。<br /><br />　通常未修得者はこう説明される。<br />「君は、履修条件は満たしているが、修得していない」<br />　ところが、この5分の1規定では「君は、履修条件を満たしているが、履修条件を満たしていないから無条件で未修得だ」といわれているのである。「履修条件を満たしているのに履修条件を満たしていないから未修得」、この論理破綻した論理は裏返しとして「修得条件のための履修に達すれば即絶対的に修得」といっているのと同じである。しかし、それも（上記のように）許さない、というとしたら、一体これが何を意味するか。ふつうならば、ただの「ダダっ子」でしかない。つまり、5分の1以上3分の１以内は何が何でも一切の修得を認められない、というのと同じである。<br />「うるせえ、四の五のいうねえ、だめなものはだめ」これしかいっていない。どう考えてもこれは論理ではない。<br /><br />　なぜ、「5分の１以上の欠席」が修得にいたらないのか。この「5分の１以上の欠席」が絶対的未修得であるという絶対性を各教科は示さなければならない。これが教科の挙証責任・説明責任である。言い換えれば、この「5分の１以上の欠席」の到達度としての「未修得」を絶対的に示さなければいけない（通常不可能である！）。<br />　今一つの問いはこの「絶対評価」の「絶対性」と関連する。この「5分の１欠席＝未修得規定」は５分の１以内の欠席者には履修条件を適用しない。つまり、論理上は「１０」の可能性が「5分の１マイナス１の欠席」から存在する。つまり、論理の可能性として「5分の１」と「5分の１マイナス１」の欠席の一回の欠席の違いで「１」と「１０」の違いの可能性が出てしまうということだ（実際、「７」と「８」の可能性をほのめかした事例が前期の成績会議で体育の教員からあった）。これを論理と呼べるのだろうか。<br /><br />道徳と学力の未分離という後進性<br /><br />　では、一体「5分の１欠席＝未修得規定」とは何なのか。これだけの履修不足が絶対的未修得となるという、つまり「履修」と「修得」を無条件で結びつけてしまう構造は何か。<br />　それは追認の中身を見れば一目瞭然である。<br />　私はかつて杜撰な追認試験をいやというほど見てきた。<br />　多くは「写せ」とか「何回繰り返せ」、ひどいものは作業である。<br />　日本の社会は学力になど何の関心も無いのだ。あるのは一言〈恭順せよ〉〈いうことを聞け〉〈素直に従え〉。道徳と学力の区別がつかないのである。多くは履修すら満足にさせられない教授者の、その教授能力を外部者に査定されないことをいいことにした「はらいせ」「江戸の敵を長崎でうつ」程度のものなのである。こんなことをくりかえしていたのではこの国はもたない。<br /><br /><a href="http://education.blogmura.com/"><img src="http://education.blogmura.com/img/education88_31_1.gif" width="84" height="29" /></a><a href="http://blog.with2.net/link.php?182807"><img src="http://blog.with2.net/img/banner2.gif" width="88" height="36" /></a><br />↑　↑　↑　↑　↑　↑　↑　　　<br />よろしかったら、上の二つをクリックをしてください。ブログランキングにポイントが加算されます　</p>
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   <category>成績・評価</category>
   <dc:date>2025-08-13T20:47:08+09:00</dc:date>
   <guid isPermaLink="true">https://blog.goo.ne.jp/kmasaji/e/9f987d636e3f4441bba0809f22568b0a</guid>
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   <title>選択・責任・連帯の教育改革　１　無学区制・高検</title>
   <link>https://blog.goo.ne.jp/kmasaji/e/9b8f81f4479f12f50509e2ccddc50797?fm=rss</link>
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<![CDATA[
<p><a href="http://www.amazon.co.jp/%E9%81%B8%E6%8A%9E%E3%83%BB%E8%B2%AC%E4%BB%BB%E3%83%BB%E9%80%A3%E5%B8%AF%E3%81%AE%E6%95%99%E8%82%B2%E6%94%B9%E9%9D%A9-%E5%AE%8C%E5%85%A8%E7%89%88%E2%80%95%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E3%81%AE%E6%A9%9F%E8%83%BD%E5%9B%9E%E5%BE%A9%E3%82%92%E3%82%81%E3%81%96%E3%81%97%E3%81%A6-%E5%A0%A4-%E6%B8%85%E4%BA%8C/dp/4326298650%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dkimuramasajiw-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4326298650" target="_blank" rel="noopener"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/41PHQFZ5MTL._SL160_.jpg" alt="選択・責任・連帯の教育改革 完全版―学校の機能回復をめざして" /></a><br /><br />本書は、財団法人・社会経済生産性本部が1999年7月に公表した、教育改革に関する報告書である。大変刺激的な提案をしている。教育改革はおそらくまだ一つとして緒についていない。が、大きな方向性はこの論文が示していると私は思う。こころある若い人はこの本を読み、自分なりにどのような準備をすべきかを考える必要がある。<br />このエントリイでは私なりの解説を施してみたいと思う。</p>
<p>産業資本主義から消費資本主義社会へ</p>
<p>そのうえで、まず押さえておかなければいけないのは、1980年代に入って、私たちの経済システムが変わったということである。学校は、いまだに高度成長システムを前提としたシステムを一つも変えていない。<br />物作りを基本とするシステム、工場労働、規格大量生産システムにおいて適合的な人材育成システムを変えずにきている。それは、消費資本主義というシステム変換に対応していない。</p>
<p>「忠犬ハチ公」を育成すること。<br />「金太郎飴を切ったような横並びの学年制・クラス一斉授業」</p>
<p>ここから、多様な消費者ニーズを基本とした教育へ、いわば生産者主権から消費者主権への移行こそが現在求められている必須の条件なのだ。</p>
<p>個別性・多様性・選択制</p>
<p>私が所属する単位制高校はまさにその要請の申し子として誕生したシステムである。しかし、愚痴るわけではないが（笑）、まったくそのような時代のニーズを現場は感性として感じとっていない。</p>
<p>「学年制と違う！学年制と違う！」</p>
<p>と学年制へと戻そうとするのだ。<br />画一のクラス運営。教科指導のなかみでなくあくまで画一的な履修態度を外から押しつけること。これしかできない。ここまでは愚痴だ（笑）。<br />さて、本書においてまず強調されているのは、</p>
<p>「選択制」</p>
<p>である。その象徴は「無学区制」である。学区を取り払えば通える学校は自然に増える。そのことによって、選択の自由が増えることになる。まさに、多様を学校選択にもたらすこと、これがまず強調されている。</p>
<p>無定員制</p>
<p>しかも、希望者をすべて入学させる。おもしろい発想だ。</p>
<p>「えっ？それじゃあ、一つの学校に集中しちゃうじゃないの？」<br />「たとえば、地域の進学校へ集中することが考えられるじゃないか？」</p>
<p>　しかし、この少子化のご時世である。ある特定の学校に集中したら、どこかの需要が絞られることになるはずだ。二つの学校を一つにして、集中したニーズを満たせばよい、というのが、本書の回答である。<br />　学校は、そこを卒業したというレッテルとしての機能がある。それは、座席が希少である、ということでなお増幅される。その意味のない競争を緩和する、というのがこの希望校への全入という制度の提案と私は理解した。<br />　実は、このようになれば、無意味な受験競争はなくなる、と私は思っている。さらに、これに、次の高検という制度を導入すると、さらに、この競争が無くなるという保証を私たちに与える。</p>
<p>高検による高等学校卒業資格の獲得</p>
<p>　現在、旧大検を改組した高等学校卒業程度認定試験、略して高認検が文部科学省主催で実施されている。高認検を通過すれば、高等学校卒業資格を得ることができる。大学受験も国家試験も受けられる。だから、ここだけの話、もう学校は外堀を埋められて、内堀もほぼ埋め尽くされているといっていいのだけどね。<br />　さて、提案は、この高認検を文字通り高校卒業資格の条件とする、というものだ。<br />　外部試験による絶対評価がここに完成する。<br />　高認検をとおらなければ学力を認めない。<br />　といって、高認検はむずかしいものではない。平易な標準的な試験を実施する。<br />必履修科目については、ほぼ教科書準拠の問題である。<br />　この制度が走ったとき、生徒と教員の関係は逆転する。つまり、この検定に合格させる学校がいい学校であり、いい先生だということになる。教師は、みずからの指導力をここで試されることになる。だから、学力指導をするのは、高等学校でなくてもよいのだ。塾でもよい。予備校でも良いのだ。<br />　そして、この検定試験合格にくわえさらに学校の授業を選択する。ここに選択の自由の広がりをみるのだ。だから、何もひとつの学校に限定する必要はないのだ。複数の学校へ通うこともできる。高検を受けて合格したら勉強しなくなる、とお考えのあなた。そうではないのだ。だから、選択されるように学校は科目を設定し、工夫しなければならなくなるのだ。<br />　そうしたら、もっと専門学校に近い高等学校が、職業に密着した現在の職業高校のような限定された科目ではない学校が設立されることになるだろう。<br />民主党がいうように高等学校を無償にし、バウチャー制度をいれてみよう。<br />まさに消費者主権の学校ができあがる。<br />そのとき、授業を片手間に手抜きし、</p>
<p>「こんなのもわからねえのか」</p>
<p>という殿様ガエルが消滅する。部活をやり、授業の準備などほとんどやっつけという姿勢がはじめて問われることになる。</p>
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]]></description>
   <category>ブックレビュー</category>
   <dc:date>2025-07-08T10:05:12+09:00</dc:date>
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  </item>
  <item>
   <title>選択的夫婦別姓「同姓維持し旧姓の通称使用拡大を」が最多の44・8％</title>
   <link>https://blog.goo.ne.jp/kmasaji/e/889da8280c05bbb09dafff9c03168872?fm=rss</link>
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<![CDATA[
<p><a title="選択的夫婦別姓「同姓維持し旧姓の通称使用拡大を」が最多の44・8％" href="https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%E9%81%B8%E6%8A%9E%E7%9A%84%E5%A4%AB%E5%A9%A6%E5%88%A5%E5%A7%93-%E5%90%8C%E5%A7%93%E7%B6%AD%E6%8C%81%E3%81%97%E6%97%A7%E5%A7%93%E3%81%AE%E9%80%9A%E7%A7%B0%E4%BD%BF%E7%94%A8%E6%8B%A1%E5%A4%A7%E3%82%92-%E3%81%8C%E6%9C%80%E5%A4%9A%E3%81%AE44-8-%E7%94%A3%E7%B5%8C-fnn%E5%90%88%E5%90%8C%E4%B8%96%E8%AB%96%E8%AA%BF%E6%9F%BB/ar-AA1Bw654?ocid=msedgntp&pc=NMTS&cvid=02a874198fbf4d04b4d561f9efae8b6b&ei=11">選択的夫婦別姓「同姓維持し旧姓の通称使用拡大を」が最多の44・8％   産経・FNN合同世論調査</a></p>
<p>　これは、産経新聞の調査だそうだ。</p>
<p> 　多様性、という言葉がある。それは、いろんな人がいます、ということを認めるかどうか、という問題だ。</p>
<p>　選択的夫婦別姓にかんして、「同姓維持し旧姓の通称使用拡大を」が最多の44・8％だった、と報道をしている。その事実を選択的夫婦別姓問題に引き付けて言うと、こういうことだ。わたしは「同姓維持し旧姓の通称使用拡大を」希望します、という人が約45％いた、ということだ。この問題は、そこから先の問題なのだ。では、その人たちにこう尋ねなければいけないのだ。</p>
<p>「今、夫婦別姓を選択したい、という人、選択しないと困るんですという人がいて、その人たちにその選択の自由を認めてあげますか？（しつこく言うとね（笑）あなた方が同姓を維持して通称使用をしたいということを別姓を選択したいという人たちは否定してません！だって選択的だから！（笑））」</p>
<p>これの反応を調査しなければいけないんだよ。この類の報道をする機関はその調査をしないんだよ。</p>
<p>多様性を認めるか否か、それが選択的夫婦別姓の命です。</p>
<p>選択したいという人がいる。その選択による不都合は乗り越えたい、といっている。そういう人の権利が現在認められていない。あなたは、認めてあげられますか？</p>
<p>なぜ、この質問をしないのだろうね。</p>
<p>繰り返します。夫婦別姓をしたくない人、その人たちは、どうぞ、同姓を選択してください。私たちは、それを認めます。なので、私たちの別姓という選択を認めてください。</p>
<p>さあ、この声にどう、答えるのか？</p>
<p>「あなたなら、どうする？あなたなら」</p>
<p> </p>
]]></description>
   <category>政治時事</category>
   <dc:date>2025-03-24T17:14:40+09:00</dc:date>
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  </item>
  <item>
   <title>選択的夫婦別姓反対論の謎</title>
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   <description>
<![CDATA[
<p>なぜ、「選択的」に反対するのか？</p>
<p>   自民党の保守派と呼ばれる方たちと参政党、保守党という方たちが「選択的」夫婦別姓に反対している、という。</p>
<p>　　私は素朴に、そこがわからない。なぜ、「選択的」に反対するのか？</p>
<p>「いやなら、別姓にしなくていいんだよ」</p>
<p>「あんたがしたくないのなら同姓でいいんだよ」</p>
<p>に反対する、ということは何なんだろうか。</p>
<p>　同姓じゃ都合が悪い、という人がいる。少数ではない。国会では過半数どころじゃないでしょ。その人たちが姓を選択できるようにしたい、と言っている。</p>
<p>この人たちは何も、姓を同じにしたいという人たちに夫婦で姓を異なるようにすることを強制していない。なのに、同じ姓にしなければいけない、異なる姓にするのはダメと強制されているわけだ。そこがわからないのだ。</p>
<p>「だって、別姓にはいろいろ問題があるからね」</p>
<p>と選択的夫婦別姓の人たちにいうわけだ。</p>
<p>だから（笑）</p>
<p>「不幸になる、問題になるという人は同姓でいいんだよ」</p>
<p>といっているわけだ。それがこの法律の立て付けですよね。</p>
<p>「別姓で問題はあるかもしれない。それは引き受けます」</p>
<p>という人たちには余計なお世話でしょ？何も違法薬物を選択させてほしい（笑）といっているわけじゃないんだから。</p>
<p>　世の中にはこうしたことはいくらでもあるじゃないですか。それぞれの不幸とそれぞれの幸せがある、ということが。そのそれぞれがそれぞれの不幸と幸福を選択する、その多様性を認めないというのだ。</p>
<p>「それはその人たちの、つまり別姓にしたいという人たちの勝手でしょ？」</p>
<p>「いやなら、同姓でいればいいのだよ」</p>
<p>この理屈がわからない、という理屈がわからないのだ。</p>
<p>保守派って何者？</p>
<p>　もうひとつある</p>
<p>今からたった300年前には、武士以外で苗字をもっている人はどのくらいいたんだろうか。</p>
<p><img src="https://www.nhk.or.jp/das/image/D0005311/D0005311356_00000_S_001.jpg" alt="江戸時代の身分制度―中学 | NHK for School" /></p>
<p>逆に苗字がなかった人はどのくらいいたんだろうか。</p>
<p>一応、日本史の常識は上の図で示されている。</p>
<p>なんと、苗字を持たない百姓が全人口の約８５％を占めている。</p>
<p>「保守派＝家制度の伝統を守りたい」</p>
<p>の人っていったい、何者なの？</p>
<p>　たかだか苗字を許された歴史は200年もたってないんだよ、その苗字をもった家制度の伝統ってだれの伝統なの？</p>
<p>「保守派」</p>
<p>君たちはどういう身分なの？</p>
<p>私にはこれらが素朴にわからない。</p>
<p>夫婦別姓にすると、「伝統的な家族」が壊れる、正確には、家が壊れるというのだ。だから「保守」しなきゃあって、いうのだ。</p>
<p>それは、日本史においては、ながらくお武家様の「伝統」だ。</p>
<p>しかし、日本社会はその８５％が百姓だった。明治の前は苗字なんぞなかったんだから。</p>
<p>その８５％の人たちの伝統って、たかだか何年の伝統で、それって伝統と呼ぶに値するんだろうか？</p>
<p>もう一度繰り返そう。</p>
<p>「保守派」</p>
<p>ってどういう身分の方でどのような家の伝統を守りたいのか？</p>
<p>私にはわからんのだ。</p>
<p>先生、教えてください！</p>
]]></description>
   <category>政治時事</category>
   <dc:date>2025-02-03T11:59:47+09:00</dc:date>
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  </item>
  <item>
   <title>部活動は仕事ではない　3　全員管理職</title>
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<![CDATA[
<p>これから書いていくことは半ばフィクションである。</p>
<p> </p>
<p>生徒のことを考えなよ、周りの迷惑を考えなよ！</p>
<p> </p>
<p>３月25日　ＭＫは職員会議で挙手をし、自分は部活の顧問をしない旨を発言した。</p>
<p>会議はその間、ミュートであった。</p>
<p>そして、あと、淡々と進んだ。</p>
<p>会議が終了し、一人の教員がMKに歩み寄ってきた。</p>
<p>「ねえ、あなたさあ、生徒のこと考えたことあるの？一生懸命部活をやっている生徒のことだよ。それから、あなたがやらなければ誰かがやるんだよ、その迷惑をどう考えているの？」</p>
<p>突然、MKはこう返した。</p>
<p>「あなたと私の関係は何です？」</p>
<p>「えっ！」突然こう言い返されて、相手は言葉に詰まった。何ていってよいのか、だいたい、こんな返事を予想していなかった。</p>
<p>「いいですか！もう一度いう。あなたと私の関係はなんだ！法的関係だ！」</p>
<p>この男の欠点は、多少人を馬鹿にしたような言い方をするところなのだが、このときも、薄笑いを浮かべてこう言った。</p>
<p>困って、黙っていると、さらに続けた。</p>
<p>「民法的には、私人と私人だよ。ということは、この会話はお互いの同意で成立するわけだ。」</p>
<p>「・・・・・・」（遅れたが、MKは30代前半、相手は50代）</p>
<p>「雇用関係でいえば、同僚だな。あなたは私の上司ではない。そうだよな」</p>
<p>「だから、なんです?」</p>
<p>「上司でもないあなたに、職務についての口出しをされる筋合いはない。」</p>
<p>「・・・」</p>
<p>「つまりだ、この会話を私的な会話としてしたいなら、お断りだ。で、職務についての命令を出したければ、上司を通せ！」（笑）</p>
<p> </p>
<p>「・・・」</p>
<p> </p>
<p>「ここから先の会話は録音しますよ、どいてください」</p>
<p>Mkはくるりと彼に背中を向け、彼を後にしたのです。</p>
<p> </p>
<p>全員管理職というまなざし地獄</p>
<p> </p>
<p>　みなさんに間抜けなお尋ねをします（笑）。この人、いったい何しに来たんでしょうか？</p>
<p>もちろん、「職務命令」ですよね。</p>
<p>「つべこべ言わないで部活の顧問をやれ！」</p>
<p>です、もちろん。</p>
<p>しかしですよ、彼は最後に黙りましたね、なぜだと思いますか？ふつう黙ります。</p>
<p>それは、当たり前ですが、</p>
<p> </p>
<p>「職務命令じゃない」</p>
<p> </p>
<p>からです。</p>
<p>多くの人たちはこの職務命令ではない職務命令に怯え、仕事ではない部活の顧問を、仕事として、引き受けるのです。</p>
<p>しかし、これは職務命令ではないのです。</p>
<p>じゃあ、この人は何のためにMKに迫ったのか？</p>
<p>おわかりでしょうか？</p>
<p>生徒のためでも、迷惑をかけるということでもありません。</p>
<p><br /><a href="http://education.blogmura.com/"><img src="http://education.blogmura.com/img/education88_31_1.gif" alt="" width="84" height="29" /><img src="http://blog.with2.net/img/banner2.gif" /></a><br />↑　↑　↑　↑　↑　　　　<br />よろしかったら、上のバナーをクリックをしてください。ブログランキングにポイントが加算されます</p>
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   <category>部活動</category>
   <dc:date>2025-01-25T10:58:49+09:00</dc:date>
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  </item>
  <item>
   <title>部活動は仕事ではない　２　命令／お願い</title>
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   <description>
<![CDATA[
<p>部活動顧問の任命</p>
<p>新年度の校内人事だが、３月２５日とか２６日に確定する。</p>
<p>部活動の顧問はその時点で、ペーパーとして確認される。</p>
<p>もちろん、その前から希望をとる。希望だ。あくまで希望だ。</p>
<p>それと同時に打診が行われる。ここがポイントだ。</p>
<p>「やってくれない？」</p>
<p>というニュアンスがとてもその感度を表現してくれる。</p>
<p>もっと丁寧に言え！（笑）といわれれば（通常言わないが、いやここが大事！「言わせないが！」）こう答えるのだ。</p>
<p>「やっていただけませんか？」</p>
<p>しかし、ここで見事なすり替えが、それもごくごく自然に進行する。そう！</p>
<p>「やれ！」</p>
<p>多くの人は、よほどの理由がない限りここで、その声を「命令」と理解する。勝手に。</p>
<p>あとはヤクザまがいの押しで、寄り切りだ。</p>
<p>命令された人間は一人、悶々と悩んだりする。</p>
<p>ある人間は、仕事と錯覚し、上司の覚えを良くしようとする。</p>
<p>ある人間は、進んで仕事と考える。</p>
<p>ここで、ある前提が消去される。それは、私が再三指摘していること</p>
<p>「好きでやっている」</p>
<p>という事態だ。</p>
<p>仕事でないことを好きでやっている、つまり、趣味なのだ。部活動は趣味だという前提。</p>
<p>この事態が消されるのだ。</p>
<p>勤務時間の消滅</p>
<p>そして、もう一つ大事な消去事項がある。</p>
<p>それは、勤務時間だ。</p>
<p>８時15分から16時45分</p>
<p>これが消える。ちょっとましな思考の持ち主には、ここから</p>
<p>「残業」</p>
<p>という概念が浮上する。</p>
<p>私はこの時点でダメだな、と観念してしまう。ダメなんだ。ここが崩れる限り部活動の問題は問題として成立しない。</p>
<p>私はこの時点で敗北を認め、以後、個人レベルでうごくことしかできなかった。</p>
<p>部活動が仕事ではないという時点で踏ん張れない！すると、もうあとは、ズルズルべったりなのだ。</p>
<p>勤務時間も消える。</p>
<p>仮に、まあ、部活動が勤務時間内で仕事だとするか。</p>
<p>だったら、管理職に言うんだよ。</p>
<p>「16時45分以降は帰ります。あんたやれや」</p>
<p>これで終われるのだ。残業はね、法で決められているんだよ。そのなかに部活動ははいっていないんだ！と。</p>
<p>しかし、現実は、この線が消失している。何モノかによって消失させられている。</p>
<p>だから、いくら外野で部活動は残業だと、訴訟しようが、騒ごうが現場はそんな理屈で動いていない。</p>
<p>そんな理屈は消失させられている。</p>
<p>次はその消失させるモノの正体をお見せできれば（笑）と思う。</p>
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   <category>部活動</category>
   <dc:date>2025-01-25T10:56:18+09:00</dc:date>
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  </item>
  <item>
   <title>部活動は仕事ではない　１　やめちまえ</title>
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   <description>
<![CDATA[
<p>やめちまえ！</p>
<p> </p>
<p>その昔、「俺たちの旅」というドラマがあったのさ。</p>
<p>主演は中村雅俊で津村浩介っていうんだが、まあ、自由奔放に生きているんだよ。その日その日楽しければいい、と。</p>
<p>友だちの田中健はオメダって呼ばれているんだが、好きでもない不動産会社で毎日悩んでしごとしているのだ。</p>
<p>で、浩介（中村）はいうんだよ、</p>
<p>「やめちまえ、やめちまえ、好きでやってるんじゃないんだろ？だったら、やめちまえ」</p>
<p>オメダ（田中）は怒るのさ、そんなこといっていたら、定職に就けないだろ！って。がまんして、・・・</p>
<p>でも、刺さり続けるんだよ。浩介の言葉が、俺は好きでやっているんだろうか？って。</p>
<p>ここに、自己責任という言葉の重さがあるように思う。日本社会はそこが極めて希薄なのだ。</p>
<p>俺は自らの責任で選び取って、この仕事をしているのだろうか？</p>
<p>日本社会の自我は、自己責任を負うにはあまりに弱すぎるのだ。</p>
<p>みんな、だの、世間だの、職員室だのという世界の醸し出す空気！これに押しつぶされてゆくのだ。</p>
<p> </p>
<p></p>
<p>仕事じゃないんだ、やめちまえ！好きでやってるんじゃないんだろう？</p>
<p>部活動は仕事ではない。</p>
<p>学校の外の人間にはこの事態が見えない。</p>
<p>では、内部の人間には見えるか？</p>
<p>答えは簡単。</p>
<p>「見えない」</p>
<p>ここがポイントだ。</p>
<p>部活動が仕事でない、ということを見ることは大変なことなのだ。</p>
<p>ここを理解しないと部活動の謎は解けない。</p>
<p>内田良という学者が代表だが、ブラック部活などとこの問題に挑んでいる。</p>
<p>しかし、僕から見ると、内田がかえって事態を見にくくしてしまっているとさえ見える。</p>
<p>そのくらい、厄介なのだ。</p>
<p>もう一度問う。</p>
<p>部活動は仕事ではない。しかし、仕事なのだ。これは何なんだろうか。</p>
<p>まず、この謎の意味が分からないと思う。説明しよう。</p>
<p>まず、外見上からいく。</p>
<p>学校には、学年、教科、分掌（教務課とか、生徒課・・・）がある。それぞれ、法的にも規定されたお仕事だ。よって、会議もある。</p>
<p>しかし、部活動は一切ない。</p>
<p>部活動の公的会議など存在しない。</p>
<p>辞令もない。任命されないんだよ。</p>
<p>もう一つ。教員評価だ。教員は管理職に勤務評価されている。</p>
<p>それは、「分掌」「教科」「学年」だ。それだけだ。</p>
<p>部活動はない。</p>
<p>勤務評価の対象ではないんだよ。部活動は。</p>
<p>特記事項で自分はこんなことをやったと、書きたければ書いてみな、という欄がある。</p>
<p>そこに書くだけだ。</p>
<p>要は教員評価として全教員に対象として要求していることでは、部活動はないってことだ。</p>
<p>これだけでたくさんだろう。部活動は仕事ではないのだ。</p>
<p>いやなら、断ればいいじゃないか。</p>
<p>かんたんだ、イヤだっていえばいいんだ。</p>
<p>私は最後の教員生活１８年間、これに気づいて、管理職に名前を部活動の欄に入れさせなかった。</p>
<p>断ればいいのだよ。それだけ。</p>
<p>つまりだ！多くの人たちは好きでやっているのだよ。</p>
<p>断れば絶対に命令はできない！仕事じゃないから。</p>
<p>ところが、現実は、絶対に断れないのだ。ここに、部活動というものの謎のすべてがある。</p>
<p><img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/96/31d08a2ca94a341db73ca56e8e0386e1.jpg" width="477" height="358" /></p>
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]]></description>
   <category>部活動</category>
   <dc:date>2025-01-24T19:26:06+09:00</dc:date>
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