死刑制度は極めて難解な教材です。その難解さは、私たちが死刑の現場から遠いところにいるところにあります。死刑を廃止する、という課題がむずかしいのは、ここにあります。廃止の必要がなければ何も考える必要はありません。今回は、映画「休暇」を教材として紹介し、あわせてそのほか、授業を考える上での題材を提示してみました。 . . . 本文を読む
「優先座席付近では携帯電話の電源をお切りください。それ以外の場所ではマナーモードに設定のうえ、通話はご遠慮いただくようお願いします。Please turn off your mobile phone near “Priority Seat”.」
これは電車のなかでの携帯電話の電源の切断のお願いの文章です。ここで注意をしなければいけないのは、
携帯電話の電源を切ることを要請するさいには、最後に
「ご遠慮いただくようお願いします」
「Please turn off 」
とお願いしなければいけないということです。
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私が申し上げているのは、「完全犯罪」においては、よい悪いというのではなく、法は沈黙するものだということ、しかし、道徳の世界として、道徳の論理というものがたとえそうであっても存在する。したがって私たちは、法的な規制とは別に、道徳の論理で道徳の運動をとおして、学校での未成年の喫煙は解決していかなければいけないということなのです。
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学校でタバコを吸ってはいけない。これはふつう疑う余地のない命題です。当然発覚すると生徒には家庭謹慎をさせたり、反省文を書かせたりと、処罰が下るのが、普通です。それでは、なぜ、そのような処罰をくらうのかというと、法律で禁止されるているからです。私たちは、生徒が学校で喫煙し、発覚した場合に生徒を罰する、生徒も自分たちが罰せられると考えています。しかし、本当にそうなのでしょうか。
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■空気を読めない人間を非難する人間は、実際にその場でいっているのか?
こういうところでぐじゅぐじゅいっているんだったら、じかに言えばいいじゃないか?
そういうところでいえない、しかも許せないという器の小さい奴が空気を読めない人間を非難するのだ!■さて、この反論をどのように受け止めるのでしょうか?
もちろん、空気を読めない人間を擁護するこの意見に挑発された時、そこには、モロに権力と権力が衝突することになることは目に見えています。そこで、じつは、迷惑だと考えている側が、その主張を自己規制しているのです。
さて、この反論に応えて、空気を読めない側に、迷惑だと考えている側が、規制を求めたとき、そこに、何が想定されているから、通常、迷惑だと考えている側が自己規制してしまっているのでしょうか?そのときに、空気を読めない側がどのような権力行使を行うと、想定されているのでしょうか?そこにおける権力闘争の現実、予想される権力闘争の現実、これはなんなのでしょうか?
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みなさんがこれまで、生きてきたなかで、それも学校生活のなかで、権力者がいたと思います。その権力者が権力者であることができるためには、ある種の〈実力〉(変な表現ですが)が必要となりますよね。力がなければ、権力はふるえない。その〈実力〉って何なのでしょうねえ? . . . 本文を読む
■暴力的強者の圧倒的な暴力差を暴力的弱者は、受け入れるよりない。空気を読めず、状況を読めず、暴力的強者に逆らったとき、とんでもない暴力による粛清がまっている。この潜在的圧力が私たちの学校にも実は存在しているのです。■体罰教師と暴力的弱者いじめは、その構造が、きわめて似ています。それは、暴力が双方ともに犯罪として意識化されないということです。暴力が、犯罪としての規制力を持たないという問題を私たちは考えなければいけません。■なぜ、発言できないのか?なぜ、発言を禁じられてしまうのか?■この規制要因として暴力をどの程度にみることができるのか?恥ずかしいからなどというカモフラージュではなく、本当のところはどうなのか?そして、どうすれば、私たちは暴力という権力から自由になっていけるのか?これから考えていきたいと思います。 . . . 本文を読む
私たちはバカということで何を恐れているのでしょうか?
一体、どのような差別がそこに存在すると考えているのでしょうか?
実は、私たちの歴史は差別を地下に潜らせ、しかも存在させ続けるという二層構造になっているということをここでは指摘しておきたいと思います。私たちは自分たちが差別をしたいと無意識の地平で考えているからこそ、自分がされるのではないか、と恐れるのです。いえ、それは逆かも知れませんね。自分がされたからこそ、自分も差別をしたい、その願望が、あるからこそ、また差別されるのではないか、と恐れるのです。
優越感も劣等感もない世界など考えられない、とみなさんはきっと深く深く骨身に沁みているんじゃないでしょうか? . . . 本文を読む
■自分がバカだという発覚、これを「バカの着地」って呼びたいと思います。自分がバカだったと世間様に白日の下にさらされ、知れてしまう事態、事実として露見してしまう事態、これを「バカの着地」と呼びたいのです。
とすると、私たちは、この「バカの着地」を極端に恐れ、宙ぶらりんでいたいと考えているのではないでしょうか?
■みなさんは、服を着ています。しかし、その服の下に実は、刺青(いれずみ)を入れているのです。それをひた隠しに隠して生活しています。友人にも、よほどのことがない限りその事実を告白できないのです。しかし、ある日、とうとうその刺青の存在が白日の下に晒される日、つまり、
「バカの着地」
が来るのです。
それにしても、私たちはなぜバカの着地を恐れるのでしょうか?
一体、バカの刺青が白日の下に晒されると何が起こると私たちは恐れているのでしょうか?
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空気を読めない発言を抑制せよ!
これがなしえないのであれば、大多数の人間がガマンすることになるのだ!
このルサンチマンの地獄が、閉塞した状況を形成するのです。
私は憲法の「精神の自由」で学校における表現の自由を問題にします。しかし、表現の自由を抑制するという側に立たなかったならば、この空気を読めない人間の表現の自由については、現状では、いかんともなしえないのです。
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■「自由に意見をいってごらん!」などとトロいことをぬかす教師がいますが、教室はさまざまな圧力が表現の自由を奪っているのです。■「先生に逆らったり、先生の覚えを悪くすることをいえば〈成績〉で制裁されるのではないか?」「先生からの体罰があるのではないか?」といった国家からの侵害の蓋然性。■「バカに表現の自由はあるのか?」「下手に暴力的な勢力の心情を逆なでするようなことをいったら、彼らからボコ(=ボコボコに)されるのではないか?」「そのまえに呼出しがあるのではないか?」「いじめにあうのではないか?」「先輩が・・」■
身体罰等による身体の自由の侵害のおそれ、侮蔑や嘲笑などの名誉毀損や侮辱を受けるおそれ、しかとや無視をはじめとした差別的排除のおそれ、先生による成績等による制裁のおそれ。これらの危険をかいくぐる表現の自由だけが現在学校では表現の自由として生徒たちに許されるものなのです。
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憲法には自由権と呼ばれる一群があります。そのうちの一群に身体の自由とか、人身の自由と呼ばれるものがあるのです。おそらく、もっとも基本的な人権と呼ぶべきものである、自分の身体をめぐる自由です。憲法は私たちの国民の国家への命令として、この身体の自由を守ることを命じているわけです。ところが、国家の一機関である学校ではたして身体の自由が守られているのか、というと、きわめてあやしいといわざるを得ないのです。 . . . 本文を読む
さて、静岡県の公立高校はここ二年ほど到達度による絶対評価へと移行するということでやってきました。到達度を明確に示し、絶対評価を成績の評価方法法として採用する、と。しかし、他方で、本校のシラバスには、評価の観点として、「出席状況」や「授業態度」「発表」といった項目が軒並みラインナップされているのです。
ところで、「授業態度」ってどうやって到達度を測定するのですか?
大体、「授業態度」をどうやって採点するのですか?
「授業態度」はほぼ主観でつけられます。大体、どのような基準で、何について、どのような配点がなされているか、ということが全く不明確です。典型的な「人の支配」なのです。
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「バカ」にとっての、資本主義社会日本における「夢=成功物語」とは?
僕にはこれが解けません。だから、僕の経済の授業はつまらないのです。なぜ、とけないのか?つまり、実は日本の社会は「出来レース」なんです。なのに、それをちゃんとしめさないからです。それなのに、みんなその事実をなんとなく知っているんです。〈バカの生殺し〉ですよ。これって。ひでえ話しです。
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