高校公民Blog

高校の公民科(現代社会・政治経済・倫理)教育に関連したBlogです

無学年、無学級制の構造 【補足】時間割は一つ

2023-04-20 22:07:22 | 単位制システム革命



交差点の信号の絶対性

 突然ですが、交差点を、それもかなり交通量の多い交差点を、想像してみてください。そこに、信号がないとしたら?
 私は何度か、暴走族的なバイクが、交差点の信号を無視して通過しようとしたのを見たことがあります。でも、よくみると、交通量が少ないことを(注意深く(笑))確認して、無視しているのです。つまり、

「ぶつからない」

って確認して、安全運転で信号無視(笑)していたんです。
 本物の交通量バリバリの交差点では、

信号機は絶対!

なのです。というのも、信号無視は、即死を意味するのからなのです。

信号機の規則性

 しかも、信号機は基本的には、ルール=規則的な形式を要求されるのです。
 困るのは、信号機が恣意的であることです。
 下の、写真は点滅信号です。交差点ではあるけれど、信号機を置くほどの交通量はない、というところには、この点滅信号があります。点滅信号は、あくまでどちらが優先であるか、を示すに過ぎません。ずっと、赤がついているから、といってそのとおりにしていたらいつまでたっても通過できないのです。
 最後は、交差点でぶつかる車がそれぞれ「あ・うんの呼吸」で「アイコンタクト」をとりながら、どちらが交差点を突っ切るかを決めるのです。これ、大変むずかしいんですね。その難しさの原因は?というと、点滅信号には、定まった規則性がない、ということなのです。規則性がない、ということは、きわめてコミュニケーションを難しくするのです。
  

変わった設置・灯器 点滅信号編

自由の逆転の弁証法

 交通量の多い交差点では、点滅信号の交差点のような〈交渉〉はいっさいできません。つまり、互いがコミュニケーション不能な関係に立つのです。それは、言い換えると、全員「自分勝手」である状態で相対するのです。これが、交差点の信号の社会なのです。ホッブズが『リヴァイアサン』で政治制度としての絶対王権の出現を、マルクスが『資本論』で貨幣制度の必然性を論じているくだりがありますが、彼らはそろって、まったき自由が〈独裁者〉を誕生させる必然性を論証しているのです。
 交差点は、4方向の、交通が自分勝手に、それぞれのコミュニケーションを全く不能にしながら、相対し、あくまで自分の交通を貫こうとしているのです。すると、不思議なことに、その交通空間では、〈信号機=→・・・〉の規則的な記号性が絶対の力を持って、各人に現れるのです。ここが規則的であること、この規則性が絶対のものであること、これは、自由においては不可欠なものなのです。各人が自由であることは、まったくの自由を意味しないのです。そこには、明瞭に各人に、その自由を交通整理する規則性が要求されることになるのです。勝手知ったる仲間だけの村社会にはありえないこれが自由の逆転の弁証法なのです。

リヴァイアサン〈1〉 (岩波文庫)資本論 1 (岩波文庫 白 125-1)

時間割は一枚

 単位制高校は、時間を単位にそれぞれが勝手に自由に振舞うことを前提に集まっている学校です。そのためには、この交通を整理する、信号機が絶対の記号性をもって存在することを要求されるのです。突然恣意的に、時間割が変更になったり、変則的な時間割になっては、一年間、いえ、3年間、いえ、半年、いえ・・・・私たちには把握できない個々人の自由な生活設計を、自由に立ててもらうためには、絶対の規則性を持った、時間割が一枚、必要になるのです。
 私の職場の人間たちに全く理解できていないのは、ここです。
 恣意的に突然集会をとりたい、とか、変則の時間割を敷いて、時間を浮かして集会を開くとか、いう発想をいくらいってもやめないのです。
 これは、私が適正規模と考える3000人の単位制高校になれば、鮮明になります。あるいは、いろいろ議論があるでしょうけれど、生涯学習ということで学校の外部の方たちの履修も大々的に認めたとき鮮明になります。そうやって、需要の総量と生活スタイルが多様になった時、この逆転の弁証法としての時間割が一枚という信号機の要請が明確になるのです。


↑ ↑ ↑ ↑ ↑ ↑ ↑   
よろしかったら、上の二つをクリックをしてください。ブログランキングにポイントが加算されます


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。