1位を決定したのは、だれか?
投票者ではない、ということは確かです。投票者は投票はしましたが、決定はしていません。しかし、決定の時間の推定時刻はわりだせます。投票と開票の終了の間です。この間に犯行はなされたのです。そこには、投票した人間と、木村以外にはいないことになっています。ま、読み上げた人と「正」の字を書いた人も元を正せば、投票者ですからね。彼らが投票をしたことはまちがいない。証拠は投票用紙です。では、いつ1位は決定されたのか?私たちは開票終了時に黒板に結果を示されました。さて、その結果を決定したのはだれなのか?
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■実は、コンテストは民主主義のすべてを学べるものです。民主主義を知りたければコンテストをやればいいのです。「国民主権」「選挙制度」「マスコミの問題」こうした教科書の問題はなまなましくこのコンテストが体現しています。まさに「総合学習」の名にふさわしい(と自画自賛!)。■さて、申し遅れましたが、コンテストの投票は、当然ですが、制約上1クラス単位で行います。しかし、コンテストにノミネートする文章は複数クラスから公募します。したがって、さらに、上の条件にプラスして、まさに〈見ず知らずの他人〉も評価を下すことになるのです。ということは、見ず知らずの他人へ向けて支持を取りつけることになるのです。■さて、さらに権力を相対化してみましょう。たとえば、このコンテストを複数の教員で実施してみるのです。さらに、この権力の相対化がはっきりすると思いますね。それは、何がそうさせるのか?何度もくりかえしましたが、予測できない各人の主権の行使という構造なのです。私はこれを9人という少人数でも実施しました。有効です。たった9人でさえ、見知らぬ他人は有効に機能するのです。その9人の前では、担任は無力です。その無力さは、たとえるとこんな感じでしょうか。コンビニで買い物に来る人たちは突然現れますね。そして、購買していくのです。購買していったという事実だけが残るのです。なぜ、買っていったのか?どこに住んでいるのか?どういう趣味なのか?一切が不明な状況、こういう状況の中で各人が決定を「開かれた個室」で行うわけです。
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■いじめが必要悪として存在しているという側面があまり指摘されてませんね。いじめって日本人が考え出した知恵でもあるのです。私たちの生活空間には「君のいっていることはつまらない」ということをはっきりと意思表示でき、しかもその意思表示が、いじめにはならない、という関係性が存在しません。私はそう断言します。もう少し、作為的な言い方をすれば、そういう関係性をつくることに学校は完全に失敗しているのです。■応募は自由です。誰にも、自分が応募したことを告げなければ、だれが応募したかは不明です。したがって、人間関係に煩うことなく応募するか、しないかの決断ができるのです。もちろん、投票されなければ決選投票に残れません。したがって、票数が明確に、周囲の人の不支持を本人に告知します。何より、応募した本人が、自分の文章の不支持という事実に直面するのです。そのさいに、だれが不支持なのかがわからないのです。ということは、不支持を表明した人も文章に不支持を出したのであって、それがだれなのか、わからないのです。こうして人間関係に煩うことなく、誰に気兼ねもなく、文章をただ見つめて、不支持を表明する側も率直に自分の意志を表明できるのです。「だれに不支持/支持を表明したのか?」「だれから不支持/支持を表明されたのか?」コンテストでは不明なのです。そうです。コンテストはこうして、〈開かれた個室〉を各人に提供するのです。 . . . 本文を読む
■このシステムでは、教員である私もノミネートすることができます。しかし、それは、あたりまえですが、自薦のものではありません。したがって、たとえ1位になったところで、本人の得点にはなりません。ただ、皿を出して待っている精神はこのゲームでは無意味です。■出なければ当選しない、しかし、出ればいいというものではない。生徒のみなさんはこのジレンマと闘うのです。何回でも挑戦してもいいのです。そして、何回失敗してもいいのです。失敗したら、研究すればいいのです。すごいのは───とニーチェのように自分で言ってしまいますが──、この企画は匿名性が担保されています。だから、恥などというものを公開の場でかく必要はありません。失敗してもわからないのです。だれもそのことに関心はありません。■コンテストに自分から参加できない人にも責任があります。もっともっと、選ぶ側の責任を制度化したいと考えていますが、現状においても、1位を当選させることが自分の利益にもなります。そして、変な話だと思いますが、日本人が大嫌いな自分から出たヤツを応援していることになるのです。 . . . 本文を読む
去年から、年来構想を練ってきた授業実践を実行しました。その名前は「コンテスト」。ことのほか受講生のみなさんには好評だった(?)とおもいます。この企画、われながら意味深なんですよ。革命的(笑)な教育実践なんです。
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体罰を行っています。私はときに脅迫をしています。おまえらと生徒を呼んでいます。 なぜ、そう公的に言えないのだろうか?コソコソ体罰を行い、発覚しては、うなだれる姿をみるとき、僕はいい知れない吐き気を覚えるのだ。そうだ。全部認める根性がなければね、全部ビデオ取りするんだよ。で、見せるのだ。図書館に閲覧室を置くのだよ。そして、 「オレは成績で脅す!」 って言えばいいんだよ。 愛の体罰 愛の体罰は可能だ。論理上存在しうる。だったら、堂々と公言してやりゃあいいのだ。結果、生徒はうれし涙でついていく。体罰の処分撤回の署名を集めるのだ。 . . . 本文を読む





