現在、高校卒業程度認定試験という制度を懸命に高等学校は、制度として学校の内部に入れないように努力しています。
この高校卒業程度認定試験とは、文部科学省が作成する高校卒業程度の学力を認定するという文部科学省じきじきに運営している制度です。高校卒業資格は、この試験に通ればよいのです、と文部科学省が認定しようとしているのに、全国の高等学校は、この制度を前向きにうけとめていないのが一般的状況なのです。
この制度が走ったとき、おそらく教育改革でなく教育革命に近いものが起きます。そうです。この高校卒業程度認定試験を基礎学力の認定として認定したとしましょう。もうひとつ、学校設立基準の規制緩和を文部科学省は、推進しています。何も既存の高等学校へいかなくてもよいのです。塾や、予備校、フリースクールでもよいのです。この試験に通るべく援助してくれると、それも生徒たちのために努力していると考える学校を生徒保護者は選択すればいいのです。
到達させる力があるのか?
学校は、生徒保護者の選択のもと、この能力を問われるのです。そこに学校の選択肢が存在することを前提にしたとき、本気で学力を身につけさせることを保障させることを、公言し、しかも、達成させられなかった時には、もっと可能性があると思われる学校へと生徒保護者が逃げて行ってしまうのです。
ここに到達度絶対評価の真の意味が現れるのです。
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■ドイツの哲学者カント(1724~1804)は、主著『純粋理性批判』で、総合判断は可能か、という問いを立て、不可能という結論を出しています。
このカントが不可能と断じた結論に背を向けるかのように、いまだに学校の先生は、こう豪語しているのです。
■私は、一つ一つの基準を明示して、それらを足し算をして、自分で計算できるようにしています。もちろん、出席も授業態度も評価基準を示せないし、客観的な根拠を示せないので、成績からは、修得からは除外しています。■ここから、こういうことがいえますね。学校は、身に付くということについての客観性にはまったく興味がないのだ。学校は、身に付くということを生徒に客観的に理解させるという努力もしていないし、気付かせないようにしているのだ
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■意欲・関心など評価はできない。私がここで書くのは、この自明な事実ではない。この自明な事実を、自明でなくさせるシステムを書こうと思うのだ。■どうして、勉強するのが楽しくなくてはいけないのだ。なんで、デキの悪い人間は苦しまねば、勉強に入っていけないときめつけるのだ。 . . . 本文を読む
ある生徒がほとんど全授業を履修しているのに「1」が数科目に付いたという報告を成績会議で担任がしていた。この事実は私たちに重大な指摘をしている。それは、
「履修すれば修得するというものではない」という指摘である。単純にこう問おうではないか。
「履修すれば即修得なのか?」
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本書は、財団法人・社会経済生産性本部が1999年7月に公表した、教育改革に関する報告書である。大変刺激的な提案をしている。教育改革はおそらくまだ一つとして緒についていない。が、大きな方向性はこの論文が示していると私は思う。こころある若い人はこの本を読み、自分なりにどのような準備をすべきかを考える必要がある。
このエントリイでは私なりの解説を施してみたいと思う。
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本当に、頭が悪いとしかいいようがない。問題は、選択的夫婦別姓をしたいという人がいて、そのひとの権利をみとめるか、どうかなのだよ(笑)「同姓維持し旧姓の通称使用拡大を」けっこう!そう選択的夫婦別姓を主張する人は言うと思うのだ。そうではなくて、選択的に夫婦別姓をしたい、という人がいて、困っていて、その人が選択的に夫婦別姓にしたい、といっているのだが、それを君は認めないの?っていう問題なんだよ。 . . . 本文を読む
自民党の保守派と呼ばれる人と参政党、保守党という方たちが「選択的」夫婦別姓に反対している、という。私は素朴に、そこがわからない。なぜ、「選択的」に反対するのか?「いやなら、別姓にしなくていいんだよ」「あんたがしたくないのなら同姓でいいんだよ」に反対する、ということは。 . . . 本文を読む
ヘーゲルという哲学者が「すべて」というのは「ない」ということと同じだ、というわかったようなわからないようなトリックを私たちに提示している。これから書いていくことは明らかにそれとは違うのだが、しかし、外見上似ている不思議な現象だ。部活動は仕事ではないのだ、という現実をみえなくさせていくものの正体がここに現れる。訴訟で教員のブラック労働を問題にすることは極めて重要なのだが、いくら学校の外部でそれが問題視されても、いっこうにその成果が制度化されないヌエのような構造が、学校には存在する。 . . . 本文を読む
みなさんは、命令が実はお願いにすぎない、という錯覚に気づいた経験がおありだろうか。私は教員生活をしていて、二度ほど目の当たりにしたことがある。それはもう、感動としか言いようがないのだ。今まで命令していた人間が突然、お願いしだすのだ。感動と呼ばずに何と呼ぼうか。本日は、しかし、お願いが、お願いに見えず、命令にしか見えないというトリックに挑むのだ。この謎が解けない限り、部活動は仕事のままなのだ。永遠に、お願いにならない。 . . . 本文を読む
■これはフィクションです。そして、原案は1994年に作られました。もう、なんと28年!が過ぎているのです。そして、事態は一向に変わっていません。いま、春の選抜がまっさかりです。しかし、この問題は封印されて表に出ることはないのです。■以前の書き込みもそのまま収録しています。よろしければ、ご意見、ご感想をお願いします。 . . . 本文を読む
「お情け教頭」は私の造語である。
私は静岡県で教職に就いてきたが、静岡県では管理職の名称を最初は第一教頭と第二教頭、その次に副校長と教頭というように、校長の下に二人の管理職を設置してきた。
しかし、どちらの呼称でもよいのだが、二人目の教頭については、当初から私には〈哀れ〉としかいいようのない悲哀の感情を抱いたものだった。 . . . 本文を読む
実は山田太一はけっこう不倫を題材にしている。一方で、「ありきたり」な生活を描きながら、その生活を否定的にとらえ、その向こうを志向する物語を書いているが、その一つの物語の形式として不倫という男女の営みを描いている。何故私たちはありきたりな生活の向こうとして、不倫を望むのだろうか。どうして私たちは不倫感情に、「潤い」を感じ、「なんか詩のようなものを、恋とかそういったものがとても必要」だと考え、「恋ができる自分を喜んで」しまうのだろうか。 . . . 本文を読む
山田太一『早春スケッチブック』はありきたりを嫌悪する沢田竜彦というキャラクターをとおして物語が展開してゆくのだが、その沢田竜彦の生き様を一貫して貫いているのが、「死の受容」という姿勢だ。しかし、沢田竜彦は決して堂々と死を受け入れることができるわけではない。見苦しくもオロオロしながら、あるときは、死に怯えて失禁し、あるときは、家の片隅で泣きながら死を恐怖に打ち震えるのだ。死は怖いのだ。それにしても、ありきたりな生き様への嫌悪と死を受け入れるという極端とはどのようにつながるのだろうか。「バカは死ななきゃ治らない」という言葉を私たちは知っているが、死ぬのは嫌ではないか?この連環はまたのちに考えてみたいと思う。 . . . 本文を読む
山田太一の『早春スケッチブック』はありきたりな生きざまに対する嫌悪という情念が巻き起こすドラマだ。作中の人物たちは沢田竜彦が突きつけるありきたりな生きざまに対する攻撃への対応を求められる。
そりゃあないでしょ、非常識だよと、人は攻撃されれば一応防御する。防御するが、小さな雨だれが大きな石に穴を穿つように、何かの変化を自身に引き起こすことを強いられる。いや、強いられるというのは正確ではない。迫られる、いやそれも正確ではない。自発的に、変化を起こさざるを得ないところに追いつめられる。うーん、どう表現しても正確ではない。要するに、外的強制ではないのだ。 . . . 本文を読む