本当に、頭が悪いとしかいいようがない。問題は、選択的夫婦別姓をしたいという人がいて、そのひとの権利をみとめるか、どうかなのだよ(笑)「同姓維持し旧姓の通称使用拡大を」けっこう!そう選択的夫婦別姓を主張する人は言うと思うのだ。そうではなくて、選択的に夫婦別姓をしたい、という人がいて、困っていて、その人が選択的に夫婦別姓にしたい、といっているのだが、それを君は認めないの?っていう問題なんだよ。 . . . 本文を読む
自民党の保守派と呼ばれる人と参政党、保守党という方たちが「選択的」夫婦別姓に反対している、という。私は素朴に、そこがわからない。なぜ、「選択的」に反対するのか?「いやなら、別姓にしなくていいんだよ」「あんたがしたくないのなら同姓でいいんだよ」に反対する、ということは。 . . . 本文を読む
ヘーゲルという哲学者が「すべて」というのは「ない」ということと同じだ、というわかったようなわからないようなトリックを私たちに提示している。これから書いていくことは明らかにそれとは違うのだが、しかし、外見上似ている不思議な現象だ。部活動は仕事ではないのだ、という現実をみえなくさせていくものの正体がここに現れる。訴訟で教員のブラック労働を問題にすることは極めて重要なのだが、いくら学校の外部でそれが問題視されても、いっこうにその成果が制度化されないヌエのような構造が、学校には存在する。 . . . 本文を読む
みなさんは、命令が実はお願いにすぎない、という錯覚に気づいた経験がおありだろうか。私は教員生活をしていて、二度ほど目の当たりにしたことがある。それはもう、感動としか言いようがないのだ。今まで命令していた人間が突然、お願いしだすのだ。感動と呼ばずに何と呼ぼうか。本日は、しかし、お願いが、お願いに見えず、命令にしか見えないというトリックに挑むのだ。この謎が解けない限り、部活動は仕事のままなのだ。永遠に、お願いにならない。 . . . 本文を読む
■これはフィクションです。そして、原案は1994年に作られました。もう、なんと28年!が過ぎているのです。そして、事態は一向に変わっていません。いま、春の選抜がまっさかりです。しかし、この問題は封印されて表に出ることはないのです。■以前の書き込みもそのまま収録しています。よろしければ、ご意見、ご感想をお願いします。 . . . 本文を読む
「お情け教頭」は私の造語である。
私は静岡県で教職に就いてきたが、静岡県では管理職の名称を最初は第一教頭と第二教頭、その次に副校長と教頭というように、校長の下に二人の管理職を設置してきた。
しかし、どちらの呼称でもよいのだが、二人目の教頭については、当初から私には〈哀れ〉としかいいようのない悲哀の感情を抱いたものだった。 . . . 本文を読む
実は山田太一はけっこう不倫を題材にしている。一方で、「ありきたり」な生活を描きながら、その生活を否定的にとらえ、その向こうを志向する物語を書いているが、その一つの物語の形式として不倫という男女の営みを描いている。何故私たちはありきたりな生活の向こうとして、不倫を望むのだろうか。どうして私たちは不倫感情に、「潤い」を感じ、「なんか詩のようなものを、恋とかそういったものがとても必要」だと考え、「恋ができる自分を喜んで」しまうのだろうか。 . . . 本文を読む
山田太一『早春スケッチブック』はありきたりを嫌悪する沢田竜彦というキャラクターをとおして物語が展開してゆくのだが、その沢田竜彦の生き様を一貫して貫いているのが、「死の受容」という姿勢だ。しかし、沢田竜彦は決して堂々と死を受け入れることができるわけではない。見苦しくもオロオロしながら、あるときは、死に怯えて失禁し、あるときは、家の片隅で泣きながら死を恐怖に打ち震えるのだ。死は怖いのだ。それにしても、ありきたりな生き様への嫌悪と死を受け入れるという極端とはどのようにつながるのだろうか。「バカは死ななきゃ治らない」という言葉を私たちは知っているが、死ぬのは嫌ではないか?この連環はまたのちに考えてみたいと思う。 . . . 本文を読む
山田太一の『早春スケッチブック』はありきたりな生きざまに対する嫌悪という情念が巻き起こすドラマだ。作中の人物たちは沢田竜彦が突きつけるありきたりな生きざまに対する攻撃への対応を求められる。
そりゃあないでしょ、非常識だよと、人は攻撃されれば一応防御する。防御するが、小さな雨だれが大きな石に穴を穿つように、何かの変化を自身に引き起こすことを強いられる。いや、強いられるというのは正確ではない。迫られる、いやそれも正確ではない。自発的に、変化を起こさざるを得ないところに追いつめられる。うーん、どう表現しても正確ではない。要するに、外的強制ではないのだ。 . . . 本文を読む
通常しかし、だれもこの「ありきたり」に地獄の苦しみを感ずることなどないのではないだろうか。お前はありきたりだ、いや、端的に「お前はつまらない。言ってること、なしてること全部平凡でつまんねえ」といわれても、その言葉の不快感はあるかもしれないが、ありきたりな自分に苦しむことは通常ないのではないか。〈感動〉することは誰しもある。しかし、それが長続きしない。いろいろやり散らして一向にものにならない。根気がない。ちょっとした感動はある。よし、とやってみる。しかし、どれもこれもじきに飽きてしまう。〈感動しつづける〉ことはなかなかできることではない。そして、私たちはそのことのもつ意味になかなか気づかない。 . . . 本文を読む
私たちが異性に対し恋愛感情を抱き、さらにそれが愛情へと発展することはあることだ。しかし、いつのまにか、その感情が薄れ、枯れてしまうこともまたあることだ。努力しても、いかんともなしがたく関係が悪化し、破綻することもある。まさに、「長く一人の人間を愛し続けるということは放っといてできることでは」なく、能力の問題であり、人格の問題なのかもしれない。
しかし、こうは考えられないだろうか。人格がいかに高潔だろうが、能力がどれだけ高かろうと、それをあざ笑うように、何かの力が、私たちから愛情を奪い、そして、その自覚さえも奪うことがあるのではないか。 . . . 本文を読む
西洋の一つの形式として、ギリシア以来、自立する市民の形式として、武装する市民というものがあります。これは、ドイツの社会学者マックス・ウェーバーが強調する論点の一つです。武装し、闘争できない市民に市民権はないのです。こうした形式を背景にした映画のなんと多いことか!私は映画『ロッキー』もその潮流のなかの一つだと考えています。ロッキーは闘争する市民なのです。闘争することによって自立する市民という形式を生きているのです。しかし、その時に注目しなければいけないのは、彼は自分のためにたんに闘っているわけではないのです。恋人エイドリアンのために闘うのです。 . . . 本文を読む
この映画の主人公宮部久蔵(岡田准一、上写真中央)は最後は特攻隊に志願し、妻子(井上真央、上写真左)を残しこの世を去るのです。宮部は大変優れたパイロットでした。その技術が神業であることが、映像に示されます。その宮部は、ゼロ戦の整備に慎重であり、機能に熟知しているのです。そして、戦争で勝つこと、それも自分がゼロ戦に乗って勝つ技術については、だれよりも熟知していたのです。 その宮部は死についてきわめて〈警戒を怠らない〉人間なのです。簡単に死ぬことを極端に恐れ、どうすれば死なないか、死なないための訓練を日々、普通の人には信じられないくらいに自らに課していたのです。周囲はその宮部を「臆病者」と呼ぶのです。映像は、その孫である佐伯 健太郎(三浦春馬、上写真右)が祖父の宮部を調べていく中で、臆病者としての宮部しか見出すことができず失望する姿を私たちに示すのです。その宮部は、なぜか最後に特攻という戦法にみずから参加してゆくのでした。宮部は、こう口癖のようにいっていたのです。自分が死んだところで、日本の軍隊にはどうということはない。何の痛手でもない。しかし、自分が死ぬことは、自分の家族にとっては悲しく、取り返しのつかないことなのだ。だから、自分は死ぬわけにはいかないのだ、と。なぜ、宮部がその特攻に自ら参加したのか、については私は書きません。ご自分で確認してください。 . . . 本文を読む