■私は、とりあえず、公民科でユニオニズムを作ることを目指している。閉じながら開く、そういう組織をつくる■必履修という規制がなければ、きかせることができない人間の授業。3分の1という欠課時間の規制のうえに4分の1だの、5分の1だの、という、欠課の制約をつけ、生徒を縛りつけなければ授業が成り立たない授業。こうした規制型でしか聞かせられない授業担当者の授業など、規制をはずされたら一気に失業を迎えると考えなければならなくなるだろう。とくに、40代以降の年齢になってもこの程度の授業しか展開できないとき、私たちはそこに真の賃金奴隷としての待遇が待っていることを覚悟すべきである。組織から離れたら生きていけない、一般科目の教員はすべからくそうだ。 . . . 本文を読む
「倫理」が好例であるが、きわめて専門性が高く、一つの学校で単独で担当教員を置けない科目がある。芸術科目などもそうだ。こうした科目を、片手間に教員にいくつもの教科指導の負担を負わせる非合理をこれまで非合理として認識してこなかった。〈顧客への配慮〉のかけらもしてこなかったのである。
本気で一つの科目だけを教え、生徒のニーズを研究するという制度からしか、消費社会に対応できる多様なスタッフを学校に配置することはできない。
この
「授業専属教員の学校横断的存在」
を考えてみよう。いま夜の定時制には日本史も教え、世界史も教え、現代社会も教えるという愚劣が何の疑いもなく進行している。しかし、この制度を考えてみよう。定時制だろうが、複数の単独の専門家を配置することができる。全日制を考えてみよう。公民科目だけでも複数の教員によるメニューが存在しえる。「政治経済」ひとつとってもアプローチは複数存在し得る。それをできるかぎり、シラバスに開示する。そして、生徒の選択制をひく。ここから、魅力ある複数の選択肢という現実が実現可能となる。
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つい先日、同僚の若い人から、生徒が携帯電話をやっていて、教科書も持ってきていないので、退場させたいと思う旨の相談を受けました。また、じっくり論ずるつもりでいますが、僕にはこういう気持ちがよくわからないのです。というか、わかるが、ご時世を考えたらあまりに時代錯誤じゃないか、と思えてならなかったのです。
僕は、いったん、そういう発想には興味がないが、やりたかったらしたら、というような . . . 本文を読む
私たちの「社会科準備室」に、おもしろい世界地図が貼ってあります。通常の世界地図を逆さまにした世界地図です。まるでモンゴルが世界征服するための地図のような地図です。「そうか、朝鮮半島から見るとこうみえるのだ!」という地図です。教員世界もそうです。生徒の側から見てはいけません。職員室の「教頭席」からみるのです。そこには、授業に出かけていく教員が目に入り、授業から終わってかえってきた教員が目に入るのです。給湯室からお茶を入れて出てくる教員。そこで展開される茶飲み話。雑談。「しょうがないよ。あの生徒」じつは、こうしたレベルの堆積が人事異動のデータの末端なのです。 . . . 本文を読む
僕にはあるんですね。
平気で、社会科などと、とぼけたことをいい、歴史科目と公民科目を平気でもち、現代社会など息抜き科目でだれでももてる、などという人間をこの職場から追放してしまう、
「生きていけないようにしてしまう」(笑)
そういう物騒な感情に襲われてこまっているのです(笑)。
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「倫理」
など、ふつう商売になりません。商売にならないようにしてきてしまったのです。
このネーミングと教科書で、高校生が講座を購入する気持ちになりますか?だから、ネーミングから初めて、宣伝を含めて、買ってもらえる講座にリメイクする必要があるのです。いわゆる、思想や哲学は、お笑いをふくめて、きわめて魅力的であり、絶対必要な科目です。なぜなら、現在の価値は、〈差異〉を生み出す力だからです。
ここをコマーシャルするのです。そこをメッセージ化するのです。この科目の先に、お笑いもある、コマーシャルの世界もある、映画もある、文学もある、アニメもある、・・・・・
そういう講座を作り、売るのです。買ってもらうのです。単価をつけてもらうのです。店頭においてもらうのです。
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■高校公民空間──私が最終的に目指しているのは、このネーミングの集合です。「現代社会」では広すぎるんです。「政治分野」「経済分野」「環境」といったジャンルの研究会が公民の教員で形成される。これは独立組織です。労働組合と考えていいのです。教科だけを教える教員の労働組合です。派遣業といってもいいでしょう。ここでの稼ぎ頭はいくつかのパターンがありますが、「大学での教員養成の講座をもつ教師」「予備校講師」「チームとして、教養を売りとする教師」■ここは、売れることを前提にしている。そのときに、情報こそが付加価値の源泉である消費社会であるからこそ、こうした情報のある意味閉鎖的な管理が必要となるのです。私の頭には、落語家の研究会や、囲碁や将棋のプロの研究会がイメージとしてあります。そこでは、基金があり、大学院への入学に対する資金貸与も可能となる。そして、若い大学生が、下働きとして、こうした、情報の収集・編集を、売れていることを前提とした付加価値のある教師といっしょになって勉強することが可能なのです。 . . . 本文を読む
私は正直なところ、現在の教員には何の期待もない。期待すると腹が立つだけである。これからおそらく教育の世界も規制緩和の方向へと急速に向かうだろう。そこを睨むよりない。若い人たち、とりわけ教育そのもの本位でとりくむ人たちはそうでもしなければこの「年寄り天国」に潰され、身動きがとれないだろうというのが私の見方である。現在私が考えているのは、現職のまま現役の大学生を私の塾へと招き、勉強させるという道である。具体的にはないが、とりあえずインターネットという手段を考えている。やがて、教育の規制緩和がなされ、教育界にもベンチャーとしての道が開かれたとき、「秀行塾」は十分可能である。
私はここ十年、「木村塾」を閉じてしまい開いていない。ほぼ私の独学に追い詰められてしまったといっていいかもしれない。現在、私は、個人的にホームページをかかげ、授業実践を中心に私の教科の活動を公開し、個人的に、授業録を文章化し、公開を目指している。本ブログにも、授業のコーナーがあるが、それが、いわば、草稿である。
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柳家喬太郎がいいとは聞いていた。先日、初めて共演した際、この目と耳で確認したが、やっぱりいいのである。入門が遅かったため34歳の今も二つ目だが、センス、テクニックともにその辺の真打ちのはるか上を行き、新作落語がまたいいのである。喬太郎は旧態依然とした落語協会に籍を置くが、どんな環境からも出るヤツは出てくるといういい見本なのである。
一門の談生が江戸を背景とした新作落語にチャレンジしていると聞き、「お江戸日本橋亭」へ出かけた。客席は満員の100 人、それも通常の寄席と違う、新しい流れに敏感な客層である。楽屋をのぞき、さらに驚いた。スタッフが約20人いたのだ。聞けば放送作家をはじめとする業界周辺の人たちで、それぞれ仕事の合間を縫い、談生のために集結しているという。今の、そしてこれからの落語家に一番大事なブレーンを、談生は早くも獲得しているわけだ。
談生は「火事女房」(古屋啓子・作)を演じた。座付き作家は今回の古屋のほかに平野宗彰、そして談生本人といるわけだが、初めて聞く新作の出来は悪くなかった。ちゃんと江戸のにおいと落語的味付けがなされていたのだ。
その20人が繰り出した打ち上げはにぎやかで、談生の落語について盛り上がった。はたからこれを眺め、芸人としてつくづくうらやましく思った。 . . . 本文を読む
私は学校で労働する側から、私たちの労働条件を守りながら、同時に、公共サービスを向上させていく運動をともに手をたずさえて行う人を募っています。それを労働運動と考えていただいていいし、労働組合をつくることだ、と考えていただいていい。私のイメージにあるのは、クラフトユニオン(熟練工組合)なんですが、いずれにしても、独立を志向する団体をつくりたいのです。最後は独立なのです。 . . . 本文を読む
顧客満足度 高校公民空間の第一原理は「顧客満足度」である。私たちは「顧客満足度」をもって教員評価の第一原理とする。 したがって、私たちは「生徒による教員の授業評価」を第一義と考えている。私たちは大学人ではない。したがって、業務を「研究」とは考えない。あくまで、生徒による授業満足度をもって、「業績」とする。これまで、あまりに〈顧客〉という角度を生徒に適用してこなかった。価格競争は目的ではないこれが大 . . . 本文を読む