「お情け教頭」は私の造語である。
私は静岡県で教職に就いてきたが、静岡県では管理職の名称を最初は第一教頭と第二教頭、その次に副校長と教頭というように、校長の下に二人の管理職を設置してきた。
しかし、どちらの呼称でもよいのだが、二人目の教頭については、当初から私には〈哀れ〉としかいいようのない悲哀の感情を抱いたものだった。 . . . 本文を読む
PTAについて書く。がPTAそのものを書くのが目的ではない。学校という組織はさまざまなほころびを見せている。そのほころびのなかで私がもっとも問題だと思い、しかし、どこから手をつけたらよいのか、わからない問題が部活動である。部活動は学校教育の機能を根底で蝕んでいる。いま、高校野球が甲子園で行われている。現在のシステムを変えることなど、この空気ではできない。甲子園大会に出場するチームは文字通り氷山の一角である(このくそ暑い夏にいう言い方としてはイマイチだが)。裾野には一回戦で敗退する野球部がある。そこにも、顧問が貼り付いており、多くは教員が顧問となっている。一年中野球漬けである。その彼らを支える組織としてPTAは存在する。そのPTAである。 . . . 本文を読む
◆PTAは親と教員からなる組織だ、と最初に定義を加えた。しかし、教員といっても、そこには、校長もいれば、教頭もいれば主任もいれば、平の教員もいる。そのそれぞれの関係はどうなっているのだろうか?◆「聞くなよ!そんなこと!うるせえ!」◆だれですか?今発言した人は?◆「うるさいよ、聞くなよ!そんなこと!そういってんだよ!」◆誰ですか?あなたは?誰なんです?誰ですか?・・・・・・・・・・・・ . . . 本文を読む
静岡県では管理職任用試験は非公開です。任命権者に呼び出され、何を試験されるかわからない。しかも、日程も明確にしていません、それは何を意味するのでしょうか?管理職になるにあたって努力し、試験してもらう能力には、それも客観的能力には、興味もなく、示そうという意欲もない、ただ、お呼びを待っている人、でも、管理職にはなりたい、でも、それも自分から示すぶしつけはしない、これが管理職の資質のモンタージュです。 . . . 本文を読む
私がいう学校の内部というのは、こういうことです。 ここまでの文章の問いは、あくまで私が問いとしてこの文章で立てたものです。しかし、この問いは学校の現実の内部には存在しません。内部に入るとこの問いは一切ないのです。精神分析で言う〈無意識〉と考えていい。つまり、〈抑圧された無意識〉です。人事評価というのは、無意識だということです。意識して行うものではない、ということです。人事評価が無意識的行為だと言うこと、これをここでは確認しておきましょう。学校には外部がありません。外部がないので、無意識となるのです。 では、何のどのような意識が――そうは言っても、教員評価はしょせん人為ですから――人事評価制度を行っているのか?ここからが社会科学らしい問答になっていきますね。この問いにはもう少し記述を重ねてお答えしたいと思います。そうです。学校には、体系だった明確な人事考課システムはありません。明示できない人事考課システムが作動していると言うことです。だれもそれについては触れてはいけません。明るみにだしてはいけないのです。無意識(?)、DNA(?)、・・・・お好みの個人の意志を越えた意志を考えてみてください。校長や教育委員会の事務局の人間の個人としての意志ではないのです。それを、こうも言い換えていいでしょう。個人の「意志」による明確な基準による評価という行為が不能になるシステム、それが、現在のシステムだと言うことです。 . . . 本文を読む
学校はじつは生徒を中心に考えれば授業なのだ。そして、その授業が本当に社会へとつながる力になるのか、なにより、現在の生徒が本当の意味で積極的にとりくめる生きた力になりうるのか、それは、より生徒が肥えた舌をもつことで、つまり、消費社会らしく皮肉をこめて言えば、ゴミの山を築いて、判明することになる。現在私の勤務校では授業評価を、生徒による授業評価を実行している。非公開であり、やっているかどうかもわからない、中には自分の名前を書いて授業の評価をせよ、という信じられない教員もいるやに生徒から聞いている。確実に学校はゆで蛙なのだ。 . . . 本文を読む
みなさん、古畑です。みなさんは、コンビニで買い物をしたときに、義務で買い物をしているとお感じになったことがありますか?ところがです。私の母が幼いころ、となりの肉屋さんで買い物をするのがイヤなんですけど、しなくてはならなくて、スーパーへこっそり買い物に行く姿を何度もみていたんです。この風景が今回の主人公です。 . . . 本文を読む
「いいですか、権利は義務があるから発生します。ところが、学校には権利者がいないんです。ということは、義務さえないんです。ふふふ、わかりますか?学校は権利と義務という関係以前の社会だってことです、だから、授業料じゃなくて「年貢」(笑)なんです」 . . . 本文を読む
現在、高等学校では必履修科目という科目があります。これは、読んで字のごとく、必ず履修しなければいけない科目です。ちなみに、学習指導要領上では、次のようになっています。「すべての生徒に履修させる各教科・科目(以下「必履修教科・科目」という。)は次のとおりとし,その単位数は,第2款の2に標準単位数として示された単位数を下らないものとする。」上の文章をみて、おかしい?!と感じたこと、あるいは、おや?と感じたことがありますか? . . . 本文を読む
さて、トップダウンはこれからある程度社会に導入すべきシステムである。たとえば私はもっと職場を選びたいのである。ひとつの理念を校長が立ち上げる、その趣旨に賛同する教員が集まって学校を形成する。その際に校長はその応募してきた教員の職能を見る。みずからの理念と照らし合わせて採否を決定する。そして、
「こういう売りの教員がいます。来て下さい」
と生徒を募集する。これで生徒が来なければ退場である。あるいは、校長が自己責任において、採用した教員の授業に対する生徒・保護者の授業評価が悪い、成果としてうたった成果がでなければ、これまた退場、こうした自己責任の世界こそをトップダウンという仕組みは明確に示すことになるのだ。
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私たちはこういう基本に立ち返る必要がある。つまり、社会というものの存在、それも生徒にとって切実となる=「リスク・リターン」の鮮明な形態を学校へとどのようにしていれてゆくのか。総合学習という文部科学省の試みはこの延長で考えてみる必要があるのではないだろうか。既存の科目の死のむこうを私たちはどうやって再生させるのだろうか。 . . . 本文を読む
現在、学校ではだれの何の授業がいい授業なのか?わからないということだ。自分も分からない。そして、経営管理している人間もわからない。
こんなことはあるだろうか?靴屋が自分の店で売っている靴がいい靴なのか、悪い靴なのかわからない。なのに、大切なのはいい授業だという。 . . . 本文を読む
成績会議の内容は守秘義務もあり、公表出来ない部分が多い。個人の成績内容などはその最たるものだが、そういうこととは関係なく、成績会議の会議資料のデータらしきものからは公表したくても公表すべき何ものも見いだせないような空疎感を感ずる。データを見せられ、担当者たちが報告する。しかし、それを聞いて、何か言えといわれたときに、「あ、そうなの」程度のことしかいえないのだ。これは、私の実感である。 . . . 本文を読む
講師たちが安全弁である、という、事実を消し去るもの。
講師たちは、正規職員とは別の年金制度に所属しているという事実を忘却させる力。
彼らの生活の不安定を、不安定として見つめることなく、拍手で送るという関係を支えるもの。
それが
「家産制」
というシステムなのです。日本の公共機関は近代社会の雇用関係で成り立ってなどいません。地縁、血縁を中心とした支配層が厳然と存在し、そこにありつけず、隷属民として存在する人間たちがいるのです。そうだ。それは、
「身分としての隷属民」
の存在なのです。
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ラーメン屋の小僧が修行になるからというのでまずいラーメンを作り、店に出させるという主人はいるか?
「おぉ、勉強になるから作ってみな」といいながら客に向かって
「ちょっとまずいんですけど、ま、こいつ一生懸命やりますんで、食べてください」
ならまだしも
「まずい、でてけ、おぉい、その前にカネをおいていけ。また、明日来い」
と付言するのだ。
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