■これはフィクションです。そして、原案は1994年に作られました。もう、なんと28年!が過ぎているのです。そして、事態は一向に変わっていません。いま、春の選抜がまっさかりです。しかし、この問題は封印されて表に出ることはないのです。■以前の書き込みもそのまま収録しています。よろしければ、ご意見、ご感想をお願いします。 . . . 本文を読む
定時制の実験 定時制には、服装の規定はない。何でもいいのである。いっておくが定時制には学力に問題がある生徒も、全日を中途退学した生徒もくる。そのなか、バイクもよし、アルバイトはもちろんよし、服装・頭髪は自由である。しかし、服装が自由になると、あるいは頭髪が自由になると何か困ることが起きるかというと、多分、普通の学校であれば、服装違反をするような生徒も一般性の範囲内の服装を着用してくるの . . . 本文を読む
学校は、生徒がやめようが、不登校になろうが、給料は同じである。別段、良質な商品をださなくてもそのことでのチェックを受けないのだから、まったく自分の提供している商品に反省などしない。大体、校長という管理職は客の評価をみないで、自分にとってどんな味か、ということで現在は授業評価を実施している。ひどい場合は、君はぼくと同じ「**大学出身」だから、味はどうでもいいよ、と評価して管理職にしている。自分は食品を専門にするが、靴を売っているその商品を客の評価も関係なく評価している。・・・(書きだしたらきりがない!(笑))
これが現実だ。
これを市場がない、とも、社会主義計画経済ともいえばよい。
学校のきわめつけは年功序列と終身雇用という年寄り既得権優遇制度があることだ。
年をとれば給料はあがる。一生雇用は安定。頭髪検査はこうした制度の上にはじめて成立しているのだ。
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(上の写真と文章は関係がありません) 通常、学校で部活動について公式に審議する審議機関は存在しません。したがって、学校で部活動の責任を持つ中間管理職は存在しません。責任を持つのはだれなのか?明確な法的な根拠はないのです。 この新しい教職員の人事評価制度においても部活動はありません。私たちの就業規則に当たる法令集をみても、どこにも部活動の文言はありません。学習指導要領にも一言も部活動はないのです。だから、「職務ではない」というK先生の発言は正しいのです。正しくは、趣味!なのです。 したがって、部活動については管理職はタッチできないのです。命令できないのです。しかし、学校という不思議な空間では、「部活動が職務でない」ということもいってはいけないのです。 . . . 本文を読む
◆最近、この記事に書き込みをいただいています。貴重な情報をいただいています。この場を借りてお礼を申し上げます。◆センター試験が進行中でもあり、再掲しました。◆通常、私たちは、「大学に」はいるのであって、「学部」や「教授」を目当てに入るわけではありません。これは、高度成長システムが築いたシステムでもあります。◆高度成長システムは、産業資本主義、ま、ものづくりです。工場です。これが繁栄の原理なのです。工場システムの基本は、その企業に所属することです。「いい大学」に所属することが「いい企業=家」に所属するという原理が成功モデルだったのです。したがって、知的な効用などどうでもいい、であったのです。普通に、大学生は勉強しないものでした。これが、このエントリイの基本の認識なのです。とにかく「東大」「早慶」だったんです。 . . . 本文を読む
進路指導というのは、現在の学校ではほとんどしていないと考えていいと思いますね。正確に言うと、進路指導は現在の仕組みではほとんどできないんです。能力がないってことです。やっていることは、たんに受験の刺激を前提にしたものです。職業高校では資格をとることですね。 だいたい、学校の先生は学校にずっといるだけです。世間のみなさんがうすうす気ずいており、近年、とみに叫ばれるようになったとおり、学校の先生は基本が世間知らずです。学校以外知らないんです。その学校の先生にできる進路指導は、基本的に自分たちがやってきたことを反復することです。ほとんど、現在、進路指導は丸投げです。これは、例外がありません。 . . . 本文を読む
ところが相対評価を加味させていくと、いくらでもさじ加減できるのです。基準が明確ではないから。現在は、先ほどの教科の露骨な相対評価を除けば、絶対評価化しつつはあります。しかし、成績のなかでかならず、相対評価の時代にもっていた相対性を残すのです。いくらでもさじ加減ができる打ち出の小槌をふるえるようにするのです。それが、
授業態度
です。これ、まったく基準がありません。適当なんです。気にくわないとか、というレベルでいくらでも操作できます。先ほど言いましたが、相対評価では評価の全部の平均点がそろいます。したがって、指導力の差異がまったく表に出ないシステムです。ということはどういうことだ、というと、教師の多様な能力差など成績の上では表面化しないということです。それに決定的な追い打ちをかけるのが
「授業態度」
です。成績が相対化されることで、教員の能力差は一切表面化しません。そうです、そのとき教員は神になるのです。温情をたれ、はらいせにいくらでも成績操作できるのです。教員の恨みの復讐がはじまるのです。評価基準が不明であるとき、被評価者は一切の表現の自由を喪失します。多様な価値を表現する場を喪失するのです。 . . . 本文を読む
この先生は、一人として聴講生の名前を知らなかったと思いますね。そして、成績の基準もわからない、みんな疑心暗鬼だったのです。疑心暗鬼ってこういうことか、と身にしみた(笑)と思いますね。そして、確実に私は、学んだのです。 成績の基準が全く不明であると、あらゆる表現の自由が剥奪される。 そんな世界に価値の多様が現れるわけもない!と。 . . . 本文を読む
「君はどこに住んでいるの?」
「三島市の**町です」
「あ、そう。で、何を買いたいんだっけ?」
「鮭のおにぎりです」
「あ、それじゃあ、コンビニだね。じゃあ、君セブンイレブンの**で買い物をすること」
っていわれたら、どうですか。
「よかった。セブンイレブンで!」
って思いますか(笑)。
この感想に違和感がない人は、そうとうイカれてるって(笑)思った方がいいですよ。
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将棋ファンなら、私のタイトルをおかしいと思うはずです。「だって、二手で詰むことはないじゃん!」
その通りです。本当は私は三手詰めと書きたかったのです。でも、私が問題にしようとしている学校の教員の絶望は、二手さえ読めないのではなく、読まないのです。読まないということが平然と行われる世界の構造こそが、多様な価値を教員の世界へと出現させない根源なのです。 . . . 本文を読む
――生徒による授業評価についてはどうですか?最近よくいわれてますよね? 先生「ああいう甘やかしをするからいけないのです。生徒はつけあがるんです。私はこう生徒にいっています。いいか、評価用紙には自分の名前をちゃんと書け。そして、裏に自分の中間テストと期末テストの点数をきっちり書け。その上で自分をきっちり評価した上で、自分が何がいえるかを考えて教員の授業評価をしろ、ってね」 . . . 本文を読む
〈教科指導〉も〈教科外活動〉も〈分掌〉もどれ一つとして〈職務〉ではありません。これまで、そして現在も、教員の世界は〈職務評価〉をしてきていません。大体、どれが職務なのかという分轄の線がまったく見えないのです。何を評価しているのか、がわからない評価ってありますか?だから、多様な価値など存在しないのです。だって、評価対象が大体存在しないからです。評価できないのは、評価が多様で難しいからではないのです。評価対象がないからなのです。ないものは、評価できないでしょ?あるいは、それを、評価は自分で決められるからだ、といってもよいのです。いえ、正確には、自分できめても「それをだれもおかしいとはいわないから」だといった方がいいでしょう。したがって、多様な教員の価値という存在など現れようもないということです。 . . . 本文を読む
この業界にいると、こういう局面によく直面します。生徒が言うのです。「**先生の教え方がいいね」この「**先生」は若い講師の方です。残念ながら採用試験には合格していませんでした。この厳しい採用事情で、採用試験は難関です。 若くて、いっしょうけんめい、その上生徒との精神的な距離が近いので、生徒目線の話題は生徒には大変受け入れやすいようなのです。何より勉強しています。ちなみにこの先生の専門は「世界史」です。 . . . 本文を読む
さて、「いい先生」というのは、どうやってわかるのでしょうか。 単純な事実を並べましょう。まず、評価されるものが本人の外にあること。野球の選手は、打った結果、投げた結果が数値化されますね。そもそも、「投げる」「打つ」という行為が外に刻み出されます。その結果を評価する外部者がいる、ということです。 お店で売っている商品はいかがでしょう。「商品」は外に刻み出されたものです。それが顧客によって評価されるのです。その「結果」が多様であること、そして、その評価が多様であること、と、その人物が一人であること、不可分離な一人の人格であること、様々な価値の統合体であることとは別段矛盾はしません。大体、その結果にたいする外部の評価が存在することは自明です。さらにいうならば、その評価者こそが、価値を付与し、選択する、その評価に値する対価を支払うことなどが自明なこととしてあるのです。 . . . 本文を読む










