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高校公民Blog

高校の公民科(現代社会・政治経済・倫理)教育に関連したBlogです

再論 専門軽視 5 産業資本主義社会から消費資本主義社会へ

2008-05-25 13:48:51 | 教育制度/行政
つまらないという感覚への敏感さ 気まぐれを価値とする発想への転換 多様な感性が客観化できるシステムの構築 日本社会はいずれも失敗しています。いまいる単位制高校の教員は、本当に学年一括が好きです。それしかない。多様な消費者への多様な効用の提示、これには、どうあっても専門性が必要だという感覚、これがなければ、中国やインドの一か月1万円で喜んで働く人たちと同じ価値に落ちていくのです。 . . . 本文を読む
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専門軽視

2008-05-22 22:49:19 | 教育制度/行政
■このエントリイが「専門軽視」の最初のバージョンです。日付は、2005-01-29、となっていました。■インテルメッツォではないですが、ここで挿入しておきます。■こんなことをずっと言い続けているのです。■このエントリイのなかでのハラナ・タカマサ氏のブログにおけるコメントも注目してもらえれば幸いです。よき、木村の解説者です。 . . . 本文を読む
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再論 専門軽視 4 なぜ裸の王様がいるのか?

2008-05-21 23:22:04 | 教育制度/行政
ラーメン屋がおれの作ったラーメンはうまい っていっていたらどうです? バ--カ! でしょ? この馬鹿がどうして学校にはこうもあふれかえっているのでしょうか? こともあろうに客に おれのラーメンは食えねえのか、と豪語してなぜ、疑わずにすむのでしょうか? 考えてみてほしいのです。この深刻な倒錯が、なぜ、倒錯として映じないで済んでいるのか? ここにまさに 裸の王様 がいるのです! . . . 本文を読む
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再論 専門軽視 3 生徒不在

2008-05-19 23:38:12 | 教育制度/行政
伊丹十三監督の『タンポポ』という映画はラーメンを描いています。いいラーメン屋を描いているのです。いいラーメン屋の店主は、まず、客が食べ終わったラーメンの皿をじっと見つめるのです。何をたべ、何を食べなかったのか? なぜ、客は、つゆを残したのか? なぜ、麺を残したのか? なぜ、うちのラーメンを食べにこないのか? なぜ、あそこのラーメン屋は繁盛するのか?  そこには、客をひたすら見つめる目があります。自分の作ったラーメンをひたすら見つめる目があります。そこから、ラーメンの専門性は芽生えるのです。今、廃墟となっている商店街の商売はそこが脱落していたのです。隣近所の買い物は、客を、排除するものでした。義理の買い物だけがあったのです。  私がいま学校でひたすら求めているのは、客の目です。ひたすら、生徒を客として、セッティングしていくのです。必要以上の接触はしない。絶対評価を徹底する。授業評価を本当は、管理職に直接だしてもらう。これができれば、完成でしょう。 . . . 本文を読む
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再論 専門軽視 2 不可能な授業準備

2008-05-18 15:04:02 | 教育制度/行政
■2単位の世界史Aというのは、週2時間の授業で世界史を扱うわけです。そのなかで、フランス革命という事件を扱うとします。一体、この説明を何時間の授業で行うのでしょうか?せいぜい、3時間くらいでしょ?長くても4時間でしょうか?つまり、2週間ですね。年に一度世界史Aでフランス革命という事件を扱います。そのときに、フランス革命はせいぜい2週間のなかで過ぎ去っていきます。すると、もう次の説明がはじまるわけです。こうして、次々に、早いものは週1時間で説明を過ぎ去っていくのです。この当たり前の事実の重さを考えなければいけません。授業準備に、専門書を読みます。あるいは、画像を集めるかもしれません。教材の組み立てをし、授業という形に整理するのです。映画もみるかもしれません。その編集をします。こうして、世界史の史実を少しでも生徒のみなさんにおもしろく提供しようとすれば、膨大な時間がかかります。世界史ひとつでもです。そして、史実は一度通り過ぎたら、一年後でなければまたであいません。もちろん、夏休みという長期の休業で補足の勉強は可能です。冬にも、春にも若干あります。しかし、私たちが学ばなければいけないのは、フランス革命だけではありません。中国史、ヨーロッパ史、ヨーロッパ史といったって古典古代から現代まであります。膨大なのです。到底、一人の教員が、教材の準備を可能とする範囲ではないのです。■ところが、これに加えて、日本史を平気で持っている方がいるのです。それも、日本史Aは現代で、江戸幕末から始まる授業を展開し、さらに日本史Bも・・・・さらに、現代社会も・・・■そうです。この不可能性を可能性に変えているのが、「勉強になるから」なのです。この不可能性をあたかも可能性に変え、しかも、なお、なんだ、おまえ、専門だと!そんなことは大学の教員にでもなってから言え!というお説教付きの言説に変える錬金術がいま学校には呪術として存在しているのです。 . . . 本文を読む
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再論 専門軽視 1 教科の専門に関する意識 補足

2008-05-17 23:36:28 | 教育制度/行政
これから学校の規制緩和が進みます。学校は、実は1955年にできたシステムを一度も変えていません。これは、このエントリイの趣旨ではないので簡単に書きますが、現在の教育システムはもうほとんど外堀は完全に埋められています。教員資格の規制緩和は起きます。つまり、こういうことです。塾や予備校も、学校法人としての資格をかんたんにもてるようになります。つまり、これまでのほほん茶をのんでいた公立(非「効率」)高校の先生の横に、塾の先生がき、予備校の教師がき、競争することになります。これは、時間の問題です。いま、文部科学省が制度として、ほとんどそれができる手前まで制度を作成しています。共済年金を厚生年金にくっつけ、公務員資格を教員からはく奪する。同一労働同一賃金を制度化する。こうなったとき、専門的能力がない、いわば市場力を持たない、ナルシズム教師たちは、いっせいに給料がなくなる(笑)。世界史を持つ、日本史ももつ、現代社会ももつ、などというトンマがどういう末路になるかといことです。主に財政上の理由からですが、これから、一気に教育の規制緩和が起きます。そのときに、いま民間を襲っている二極化が学校の教師にも到来します。何年やってもろくな授業力のない教員という無能力が無能力として、むき出しになるのです。いまの教育システムを担っている管理的な層はまったくそのことに無関心です。 . . . 本文を読む
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再論 専門軽視 1 教科の専門に関する意識

2008-05-16 23:42:38 | 教育制度/行政
■それでは、どうして教員評価が制度としてはじまっても、なお、教科の専門を軽視するのでしょうか?評価されるのであったならば、ぜひ、専門を、私の専門に特化して授業をもてるようにしてほしい、となぜ、要求が教員集団からでてこないのでしょうか?皆さんはどのように、この事態を解釈されるのでしょうか?■平気で日本史を持ち、世界史ももつ、などという自殺行為がなぜやまないのか?■平気で、現代社会と世界史と倫理をもつなどという教師が存在してしまえるのでしょうか?■その事態をどうして苦情としてあげ、制度を是正しようと努力しないのでしょうか? . . . 本文を読む
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暴力という権力

2008-05-10 23:59:34 | 政治分野の授業
■暴力的強者の圧倒的な暴力差を暴力的弱者は、受け入れるよりない。空気を読めず、状況を読めず、暴力的強者に逆らったとき、とんでもない暴力による粛清がまっている。この潜在的圧力が私たちの学校にも実は存在しているのです。■体罰教師と暴力的弱者いじめは、その構造が、きわめて似ています。それは、暴力が双方ともに犯罪として意識化されないということです。暴力が、犯罪としての規制力を持たないという問題を私たちは考えなければいけません。■なぜ、発言できないのか?なぜ、発言を禁じられてしまうのか?■この規制要因として暴力をどの程度にみることができるのか?恥ずかしいからなどというカモフラージュではなく、本当のところはどうなのか?そして、どうすれば、私たちは暴力という権力から自由になっていけるのか?これから考えていきたいと思います。 . . . 本文を読む
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単位制高校を考える 2 中抜けというパラドックス

2008-05-06 13:59:05 | 単位制革命
■単位制は授業の学校です。だから、こういうことが可能なのです。同じ、英語の授業で、同一の時間に複数の担当者がそれぞれの個性の下に、こまやかな生徒の需要にこたえようとしている。そのなかで、競争があります。その競争は品質が同じならば、異ならなければなりません。異なるメッセージを、多様に向けて発散する。それが単位制高校の売りなのです。しかし、その多様が、あらかじめ売れるなどという証明はだれもできません。そこに、賭けが発生するのです。■したがって、中抜けは、重要な、需要を測る指標なのです。自由に中抜けしてもらう。そして、できるならば、クーリングオフをしてもらう。そのなかから、細やかな、多様な需要を私たちは事後として獲得できるのです。  中抜けがなければ、私たちは本当の需要を獲得できない。しかし、中抜けはあってはならない。これが単位制高校のパラドクスなのです。 . . . 本文を読む
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世界史を授業する 3 ヨーロッパ史の論点

2008-05-03 23:51:49 | 歴史社会学
■ヨーロッパって何だといわれたら、やはり、ギリシアとローマをまずみることです。私は、たとえば、ブラッド・ピットが主演した「トロイ」をみるだけで、西洋世界はまず何なのかが見ることができると思いますね。■異文明との暴力的接触です。ここを問題にしたいと思いますね。異文明との接触をどう描くかです。■私たち日本人は異質な人間を排除します。しかし、それは、異質だから排除するのでしょうか?私は、微妙に違うように思っているのです。同質性の中で、自分たちの結束をたかめるために、そのために絶対的に、異質者を必要とする。その同質者の中の異質者こそが、結束のための重要な要素になるのではないか、と思っているのです。それは、西洋世界とは似ているようで、まったく異なるのではないだろうか? つまり日本の場合は、いっけん異質者のようにみえるけど、じつは、本質は同質者であって、その同質者のささいな差異を、ささいな差異の存在をどうしてもひつようとするのではないだろうか、つまり、同質者であるから、排除される。そして、排除される人間は、本質的に同質者ゆえに、排除をただ受け入れるよりないのではないか? それと、西洋のそれは同じだろうか?私は異なるように思えるのです。西洋はたえず、異質者とま向かうのです。そのうえで、彼らの原理は成り立っている。日本社会は違いますね。本当の異質者はこわがって触れようとしない(笑)。そんな感じがしますがね。 . . . 本文を読む
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