学校には市場感覚の根幹が存在しません。そこには、共同態が剥き出しで存在しているに過ぎません。日本の公教育は公共という論理で動いているのではありません。家に帰属し、家に忠誠を尽くす、隷属民としての恭順関係を基盤とする家産制共同体が存在するだけなのです。したがって、能力は市場の論理でも、教育の論理でもなく、隷属という姿勢を基準とする、主人の恣意こそがその測定基準なのです。考え違いをしてはいけません、封建制以前の形式と市場は同居します。そこに市場の柔軟性が存在します。とりわけ、公務員という市場とは一応切れたシステムで運営される空間は基本的には近代以前のシステム原理で運営されていると考えたほうが悩まずにすみます。もう一度私たちは近代とは何かを問わねばならないのです。 . . . 本文を読む
部活動は〈勤務〉である〈非勤務〉である、と書くよりないのですが、実はこれも不正確なのです。正確には〈勤務〉でも〈非勤務〉でもないたんなる惰性、とでもいうのでしょうね。これは、外部の視点にたてば、しなくてよい仕事なのだとなります。部活動問題は学校の一級のタブーです。それは、こうした錯覚を実態とみなして、そのうえに実態を載せているからなのです。ここをさわることで、本当の意味での改革がはじまるといってもよいと私は思っています。しかし、同時にそれが教員が200万円代の年収に落とされる〈合理化〉のはじまりでもあるのです。 . . . 本文を読む
2006年春、駒大苫小牧高校野球部でまた不祥事(三年生が卒業式後飲食店で飲酒の上大騒ぎ)がおこり、甲子園大会出場断念ということなりました。駒大野球部は、2005年の夏の甲子園大会で全国制覇をなしとげた直後に、監督による部員への体罰問題が発覚し、その事実認定と処分をめぐって学校側が二転三転し、マスコミは大騒ぎをしました。それにしても、体罰がいじめ同様、刑事罰にも民事罰にもなかなか発展しないと言う問題をどう考えたらよいのでしょうか?この駒大のケースをもう一度きっちり検証してみる必要があります。 . . . 本文を読む
時間的な差異をとおして授業は作り変えなければならなくなります。そして、来年の保証は基本的にはないのです。ましてや、ニーチェの場合、私の読みの深まりとともに、そして、生徒の状況の変化と共に授業は万華鏡のように変貌するのです。毎年同じことはありえません。大体、一人の人で一つの科目を発散することがすでに時代とズレてしまっているのです。そして、授業評価をたえず回収し、専門分化を懸命に行う。そこから、反復しながらたえず、差異を情報として発散するという消費社会の展開が学校として担保されるのです。
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アメリカなどでは教員の夏休みはまったく支払いがないといいますね、授業がないから。しかし、研修という意味での、支払いをもらっている日本の学校の教員はそれをいかしているか、というと私はかなりの危機感をもっています。この権利を剥奪されても、まったく痛くも痒くもないだろうな、と。夏休みは、生徒と同様、たんなる休養と考えられている。大体、研修を必要とするようなレベルが採用されていません。授業に関心をもつというモティベーションをこのシステムは与えません。よほどの変わり者でもなければしたがって、教材の準備や、事後の研究や、他人の授業研究をし、盗むなどということはありません。私たちはここでこういう声を今から聴かねばなりません。
「夏休みの給料を剥奪」
これに対して、僕は何もいえないのです。
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キェルケゴールが重視するのは躓きである。知るには人は躓かねばならぬ。躓きをたえず経由し、無知なるものに対面しつづける人間にのみ知は授かるのだ。無知という河を泳がずには人は知には至れない、こういう風景を彼は執拗に描くのである。 . . . 本文を読む
さて、このなかで、私たちはその愛が本物なのか?それとも、たんなる上辺のものなのか?単なる性欲なのか?見極めることができるのでしょうか?キルケゴールなら、それはできない、とも答えるし、できないから、あるいは、できない結果、できるのだ、とも答えるのでしょう。そうです。私たちはキルケゴールにならい、このように考えるよりないのだろう。私たちはしょせん、その関係のはじめにおいては、不安とともに愛とも性欲とも、物欲ともつかない関係に入っていくよりないのだ。と。 . . . 本文を読む
通常、いじめる側が行っている行為はかなりの確率で人権侵害をしています。ためしに、いくつかいじめる側が行っていることを挙げてみるといいと思います。たしかに、「しかと」や「無視」は厳密に見れば人権侵害ではありません。しかし、そこから一歩すすめれば、「人前で悪口をいったり、恥をかかせ」られたり「殴る・蹴る」や「パシリ」等々、ほとんどが人権侵害はおろか、犯罪を構成しかねない行為でみちみちているわけです。
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どうも授業で聞いていると生徒さんは否定的なのですが、僕はケータイ電話の相手なんていつも会える人間だろう、とみています。いつも会える人間、いつも「いま」「ここ」にいる人間が「いま」「ここ」にいない。そこでメールし、電話するんだ、って見ているんです。会話の中味はほぼ「今ヒマ?」「今何してる?」「私の時間つぶしにつきあって?」これだけです。メールの内容などは〈無いよう〉ですよ。内容などどうでもいいのです。いえ、どうでもいいことについて、自分と同じ重さで相手が受け止めてくれるか、「同じだよね」という確認をさせる、これがメールのめくるめき展開する意味だと考えていいのではないでしょうか。 . . . 本文を読む
制服違反には〈制服〉があるのです。そして、彼らはきわめてまじめに「制服違反の制服違反」をしません。〈制服違反〉という制服があるのです。そして、そこには、学校の先生の服装検査をはるかにしのぐ服装検査が暗黙のうちに実行されているのです。それも検査をしているという外見を脱色して、〈友だち〉という装いでこのようなことが発生しているのです。
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現場に残された痕跡から犯人を割り出す、というのは捜査の基本でしょう。
さて、現場には、「なまいき」なので「むかついた」という声が残されています。これがいじめた人間がいじめられた人間に対し、理由としてあげていたものです。これは毎年のアンケートでも大体、多数を占めるのです。
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