■通常、いじめる側が行っている行為はかなりの確率で人権侵害をしています。ためしに、いくつかいじめる側が行っていることを挙げてみるといいと思います。たしかに、「しかと」や「無視」は厳密に見れば人権侵害ではありません。しかし、そこから一歩すすめれば、「人前で悪口をいったり、恥をかかせ」られたり「殴る・蹴る」や「パシリ」等々、ほとんどが人権侵害はおろか、犯罪を構成しかねない行為でみちみちているわけです。
しかし、いじめられる側はどうでしょうか。確かに、彼らは同調圧力に鈍感で、上下関係の感覚が落ちていたり、「なまいき」だったり「むかつく」ことをするのかもしれません。しかし、彼らが一般的に人権侵害をしているのでしょうか。
私は、少し極論的にこう結論づけます。人権侵害という観点から見るならば、いじめる側対いじめられる側=100:0でいじめる側が悪いのだ、と。
■しかし、なぜか、いじめる側:いじめられる側=100:0でいじめる側が人権侵害しているのにいじめの現場ではいじめる側:いじめられる側=100:0でいじめる側が正しくなるのです。
「てめえむかつくんだよ」といわれ、ののしられ、挙句に身体的な虐待を受けても、悪いのは、いじめられるほうなのです。それがいじめの「現場感覚」というものなのです。
学校の先生のお得意のせりふが、「いじめる側も悪いがいじめられる側も悪い」なのです。
■違います。いじめは100:0でいじめる側が不正なのです。しかし、ここで問わねばなりません。現状はなぜか、人権侵害をしている方がのうのうと学校へいき、先生は、そちらを法的な処分にのせることもせず、いじめられる方が損害を被り、結局、逆転し、100:0で自分が悪いことになるのです。
なぜ、この逆転が発生するのかを解かねばなりません。なぜ、100:0で悪い方が、堂々とし、正しいほうが小さくなり、人権の侵害を弾劾することもなく、泣き寝入ることになるのでしょうか。あたかも、自分が100:0で悪いかのように。事実、いじめの現場の声を集めるとこぞって、いじめられる側は自分が悪いとしているのです。傍観者もかならずいいます。「いじめるほうも悪いがいじめられる方もねえ」
違うのです。しかし、なぜこの逆転は起きるのでしょうか。
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ぼくは今年静岡中央高校を受験する中学三年生です。
このいじめと人権侵害というブログをみて考えた事を書きます。いじめられる側は集団においてスケープゴートの役割をやらされていると思います。というのも、人間が集団を作ると必ず問題が発生します。そのような問題が生じたとき責任を負わせられたり、集団のメンバーのストレス解消の役をやらされていると思います。これは集団を問題なく運営するために人間が無意識に行うものではないかと思います。特に日本の場合集団を重んじるので、集団の和を乱すのを嫌います。なので、生意気だったり上下関係に関していい加減な、集団の和を乱す者が標的になります。そして書いたように和を乱す者が悪いということで傍観者も教師でさえもいじめられる側が悪いとするのではないでしょうか?この国の個人より集団というものが原因ではないでしょうか?逆転というより最初から和を乱す、集団の規律を乱す者は集団において一番の悪人という奇妙な形になってしまっているとおもいます。
かつていじめに反対の意見を言った子が翌日からいじめの標的になってしまったことがあります。これもやはり集団の総意に反対意見を言ったが故のことだと思います。社会の様子を見てもそうです。内部告発者も集団の裏切り者として陰湿ないじめを受けます。
このようなことから社会全体の意識が変わらないかぎり、いじめというものは無くならないとおもいます。
僕がいいたかったのは、あなたのことばでいう
「最初から和を乱す、集団の規律を乱す者は集団において一番の悪人という奇妙な形になってしまっているとおもいます」
という記述のまんなかで問うことです。
だから、どうしてそうなってしまっているのか、ということです。
いじめの現場にはじつは
「いじめがない」
これが問題の中心です。「いじめ」という意識そのものが消えているのです。正確に言うと「いじめ」と「人権侵害」という意識そのものが消えているわけです。この意識を描くことは僕にはできません。しかし、その意識に入り込むことです。どうなっているのか。そして、その上でこの消している物の正体を突きとめなければなりません(それは「モノ」なのか、何なのかはともかくとして)。僕が引いたあなたの説明文はそのとおりです。ではなぜそのような事態が存在し、存続し続けていくのか、そのからくりをつきとめることです。
「いじめの首謀者の動向をさぐり、もっともすきのある時間をねらい、刺し殺すことは可能ではないか」
「仕事人のように、暴力団に頼んで、仕返しの一発を見舞ってもらうことだってできるではないか」
しかし、この発想がまったくなく、ただ堪え忍ぶ人間が片方で存在し、みずからの行為を人権などというレベルにのせる必要さえなく、人権侵害にあたることを行える人がいるということです。
僕はこれはもう、身分と考えるよりない、と結論づけています。
力が弱いから反撃しない、こう生徒は必ず言います。僕はね、それだったら、チェチェンをみろや、ビンラディンをみろや、パレスチナをみろや、みんな力ではとうていかなわなくても、許せないものにはたとえ反撃があろうがたたかっているではないか、と。
そうではないのです。世の中には一切の人権を与えられない人間がいます。それを奴隷とか、えた、とかいいました。そういう階層がいまだに私たちの社会には存在していると言うことではないだろうか。
「そうだよ、奴隷に人権などあるのか?奴隷に虐待するのは当たり前ではないか」
私はいじめ問題をいまだに残る身分制の解消の問題と解きます。
はじめまして。団体でも教育機関でもなんでもない1個人です。この世からひとつでもいじめが減る世の中を作りたいと思っています。
そもそも、優しさが集まればきっと何かが出来るとの信念で立ち上げたブログがあります。
優しさ集めの輪を広げるのに是非ご協力下さい。
よろしくお願いいたします。
http://blogs.yahoo.co.jp/what_we_can00
学校はまったくこの通りなんです。http://blog.livedoor.jp/yutatakayama/?blog_id=1455763
学年末試験、入試、とたてつづけにノルマに追われていました。何かまぬけなお返事になりますが、どうぞ拙文でよければブログに転載してください。まだ、ブログをゆっくり拝見しておりませんが、じっくりみさせていただきます。
当ブログへおこしいただきありがとうございました。本当に間抜けなお返事になってしまいますが、じっくりブログを拝見いたしたいと存じます。
私は、すごく傷つきました。 「今まで一度もこんなこと言われたことないのに・・・」 これだけなら私だって我慢できます。
しかし、それから「泥棒」と言われ、「ごきりん」や他にも様々なことを言われながら、ずっと耐えて来ました。
でも、さらに不幸なことが・・・
いじめはエスカレートしてゆくばかりです。
私は先生に相談しました。「あなたにいじめられる原因があるんじゃないの?」と言われ、この時から先生を信じることが出来なくなりました。「原因?」私に? 何もしていないのだから、有りゆるはずがない・・・
「どうすればいい?」 相談する人もいなく、信じられる人もいない。「誰か、助けて」
「誰も助けないよ」こんな声がいつも私の心の奥深くから聞こえてくるのでした。
私は、決心しました。「助けは、来ない。なら 死んでしまおう。」 でも死ねなかった。 「なぜ?」 怖かった。すごく怖かった。 死ぬなら あいつらのほうだ。
「闘おう。闘って勝つんだ。」
いつもこの言葉が支えだった。
いじめは、暴力まで及んだ。
ホッチキスを顔や首に向けて飛ばして、「これスゲー」などと言ったり、足を引っ掛けて「惜しい」などと言ったりして、私はこれを3ヶ月もの間を耐え向いた。
たまに、苦しくなってお母さんに相談したりして「頑張れ」と励ましてもらった。
男子のいじめは、少なくなった。 でも完璧に終わった訳じゃない、油断するな!!
朝、学校へ来てみると、机が倒されて、中身を回りにばらまかれていた。私は、泣かなかった。
自分で「頑張れ。頑張れ!」と言いながら・・・
他にもいろいろなことをされた。
これ以上は書き込みたくない。塞がった傷が開いてしまう。
でも勇気を振り絞ってぶちまけよう。そうすれば、すっきりする。
私は、2年になってクラス替えをした。 最初は、ちょっと不安だったけど、私にいじめをしていた人とは誰とも一緒にならなかった。ちょっと嬉しい・・・
でも2年の最初は、まだ少し、「きもい」とか言われていたけど、最近は何も言われなくなった。
影で何か言われているかもしれないけど、これだけはいえる。
「私は闘いに勝った。やっと、勝った。」
でも、私がここまで強くなれたのは、あいつらのお陰だという事。
多分、自分たちでは、気づいていないと思うが、人をいじめているつもりが逆に強くしてしまっているということを・・・
あなたはたしかにそのいじめに耐えてこられたかもしれない。
しかし、あなたは全く悪くないのだから、自分が強くなったことを” あいつらのおかげ ”と言って気持ちを合理化するのはどうかとおもいます。意地悪をする人が悪いんだから本来は公の場でそういう人は何らかの制裁を加えられるべきだと思います。
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■違います。いじめは100:0でいじめる側が不正なのです。しかし、ここで問わねばなりません。現状はなぜか、人権侵害をしている方がのうのうと学校へいき、先生は、そちらを法的な処分にのせることもせず、いじめられる方が損害を被り、結局、逆転し、100:0で自分が悪いことになるのです。
なぜ、この逆転が発生するのかを解かねばなりません。なぜ、100:0で悪い方が、堂々とし、正しいほうが小さくなり、人権の侵害を弾劾することもなく、泣き寝入ることになるのでしょうか。あたかも、自分が100:0で悪いかのように。事実、いじめの現場の声を集めるとこぞって、いじめられる側は自分が悪いとしているのです。傍観者もかならずいいます。「いじめるほうも悪いがいじめられる方もねえ」
違うのです。しかし、なぜこの逆転は起きるのでしょうか。