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本田由紀を読む 4 ハイパーメリトクラシー化

2008-08-27 23:29:32 | ブックレビュー
コンテストの能力

  私はこのところ、授業でコンテストという企画を挿入し、その結果を成績に反映させています(詳細はこちらで コンテスト1)。
 つまり、これを簡単に言うとこういうゲームです。
 いま、あなたにこういうお題を投げましょう。

「なぜ、友達が喫煙しているのを、体に悪いのに、止めないのか?」

  この質問に答えるのです。しかも、その質問を学年のみなさんの投票に当てます。そして、一位に選ばれた人にテストの点数にして30点分を進呈しましょう。

 さて、これは、大変な能力です。ただ書けばよいのではありません。支持されなければいけません。それも、特定の誰に支持をえる、というのではありません。不特定の支持を取り付けるのです。そのための文章能力が必要になります。陳腐なみんなと同じような文章では支持は得られないでしょう。
 さて、そのときに、みなさんは、

これを一年後に、実施します。その結果で東京大学の入学を許可します、

としてみたらどうでしょうか?県民投票で応募のうちで、5名迄に入ったひとには無試験で東京大学の入学を許可します。

 どう努力するのです?
 これが、今、一年後という想定でしたが、三日後としたらどうでしょう。

 どちらでもいいのですが、

 いかにして努力するかです。
 何の努力をどう行うか?

 これに比べたら、チャート式で、数学Ⅰで良い点数を取るという努力は、きわめて努力の方法や仕方が明確で、限定され、努力のし甲斐があるとは思いませんか?

ハイパーメリトクラシー化

 本田由紀は、『多元化する「能力」と日本社会』のなかで、

ハイパーメリトクラシー

 
という概念をひっさげて、この問題を論じています。日本社会は、消費社会化のなかでどんどん旧来の「学校経由の就職」が前提とした学力から多元化した能力を要請するようになってきている、と本田はいいます。



 本田は、これをさまざまな言い換えで表現していますが、これまでのいわゆる受験勉強的な「業績主義=メリトクラシー」を「近代型」と呼び、それに対して、「ポスト近代型」のそれを「ハイパーメリトクラシー」と呼んでいるのです。参考までに、また別所では、本田は、「閉じた努力」と「開かれた努力」というようにも呼んでいます。

 本田の整理によれば、これまでの受験勉強が要請する能力は、基礎学力を重視し、標準型の努力を要請し、共通尺度で比較可能な学力を重視してきた。どちらかいえば順応型の人間類型を前提とし、協調性や同質性を重視してきた。

 しかし、ポストモダン的な諸費社会的な能力とは、「生きる力」を重視し、多様性、新奇性を重視する。したがって、創造的であること、個別的で、順応というより能動的に積極的な資質を重視し、交渉したりネットワークを形成できる能力を前提としている。こうして、たんなるガリ勉型の能力が貶められていくことになる、というのです。

専門高校化

 本田は「学校経由の就職」を前提としている現状の学力を問題視しています。上の『「ニート」って言うな!』で本田は強調していますが、あまりに高等学校で発散している知識が生きる次元と乖離していることが問題なのだ、という主張です。
 片一方でハイパーメリトクラシー化すすんでいるなかで、学校は、まったく職業社会への対応のできない基礎学力だの、順応重視の教育しか果たしていない。それがますます、若者の不適応を拡大している、という主張です。学校は、ハイパーメリトクラシー化にも、そこから脱落してしまう層にも対応できないシステムとなっている、というのです。
 本田が提案しているのは、専門教育を、それも職業社会へと適応できるような専門高校の設置を提案しています。正規雇用と非正規雇用のギャップを埋め、非正規と正規の壁をなくすというのが提案なのです。
 高等学校の現状を知る一人として、もちろん、正当な議論であることを認めるとしても、その端緒の端緒さえ見えない現状に、沈黙せざるをえないのです。



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