「バカ」
って問題がありますね。
学校は「バカ」に場所を提供していません。バカは勉強しないでしょ?
なんでか?
勉強をしないではない、できない、させない、と考えたとき、不平等の問題が浮上しますね。ルソー的な水準です。運動音痴、ホンモノの音痴、おちこぼれ、こういう人間たちにとって、それらの行為をすることの意味は何なのか?私はまだ、それを問題にしきれていませんね。
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「一つだって大変なのだ。一つだけをもつシステムをもつのだ。そして、顧客満足度を高めるのだ。置き換え不能な自分になるのだ。」
私はもう、理屈でこれを言っても無駄だと考えている。未熟練工、それも未熟練を威張るバカものを消すための教員評価を支持する!そうでもしなければ、まちがいなく、この職場は年収200万円に落とされる。
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授業で本当にメッセージを送ろうとして授業をつくったらノイローゼになる。私はたえず教材と向かい合い最大のメッセージを送りたいと思う。しかし、現実はほとんどないのだ。何を伝えたいのか。本当に心のそこから伝えたいと思い、そうならば絶対生徒は聞くはずだという構成を探求するとき、そのためには、生徒を観察し、失敗し、何が失敗の原因なのかを極めなければいけないという帰結にたどり着くはずだ。それは野球選手がいかにして相手投手のボールを打つかという問いと格闘するのと同じだ。けっして容易な作業ではないはずではないか。演劇や落語の世界の労苦と異ならないはずだ。しかし、現実にはこの問いは現場にはないのだ。だが、そんなに簡単に授業はできるのだろうか?そんなに簡単にきかねえ生徒が悪いとなぜ言い切れるのか?なぜ、授業一つさえ大変だという立場に立てないのか? . . . 本文を読む
時間的な差異をとおして授業は作り変えなければならなくなります。そして、来年の保証は基本的にはないのです。ましてや、ニーチェの場合、私の読みの深まりとともに、そして、生徒の状況の変化と共に授業は万華鏡のように変貌するのです。毎年同じことはありえません。大体、一人の人で一つの科目を発散することがすでに時代とズレてしまっているのです。そして、授業評価をたえず回収し、専門分化を懸命に行う。そこから、反復しながらたえず、差異を情報として発散するという消費社会の展開が学校として担保されるのです。
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アメリカなどでは教員の夏休みはまったく支払いがないといいますね、授業がないから。しかし、研修という意味での、支払いをもらっている日本の学校の教員はそれをいかしているか、というと私はかなりの危機感をもっています。この権利を剥奪されても、まったく痛くも痒くもないだろうな、と。夏休みは、生徒と同様、たんなる休養と考えられている。大体、研修を必要とするようなレベルが採用されていません。授業に関心をもつというモティベーションをこのシステムは与えません。よほどの変わり者でもなければしたがって、教材の準備や、事後の研究や、他人の授業研究をし、盗むなどということはありません。私たちはここでこういう声を今から聴かねばなりません。
「夏休みの給料を剥奪」
これに対して、僕は何もいえないのです。
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3月の上旬から4月の中旬まで静岡中央高校では授業はありません。私は基本的にこの仕事についているあいだは自分の読書ができません。たえず、仕事、つまり、授業で要請される読書をすることになります。したがって、この一ヶ月も基本的には、授業の準備としての読書をすることになります。ただ、この月末に二つの補習を予定しています。今回はその準備の読書をすることなります。 . . . 本文を読む