
竜彦「無理に無茶をいっているさ。むりにでもいわなきゃ、こびりついた殻はとれやしない。まず主婦であることを忘れる。子供のいることを忘れる。亭主を忘れる。そして、耳を澄ます。自分 が何をしたいか?本当には、何を求めているか?やはり子供の成長か?家庭円満か?亭主の優しさか?金か?健康か?それとも若さか?ひとりになることか?恋か?若い男の肌か?外国旅行か?いまとはまったく違う人生、別の男との別の人生か」
山田太一の『早春スケッチブック』はありきたりな生きざまに対する嫌悪という情念が巻き起こすドラマだ。作中の人物たちは沢田竜彦が突きつけるありきたりな生きざまに対する攻撃への対応を求められる。
そりゃあないでしょ、非常識だよと、人は攻撃されれば一応防御する。防御するが、小さな雨だれが大きな石に穴を穿つように、何かの変化を自身に引き起こすことを強いられる。いや、強いられるというのは正確ではない。迫られる、いやそれも正確ではない。自発的に、変化を起こさざるを得ないところに追いつめられる。うーん、どう表現しても正確ではない。要するに、外的強制ではないのだ。
しかし、その際に、この沢田竜彦のことばはとても重要なものであるように私には思えるのだ。このことばは、ご存じの方はご存じだと思うが、いってみればホッブズ、ロック、ルソーといういわゆる社会契約思想家たちが仮想実験として展開した「自然状態」の焼き直しだ。彼らはいうのだ。本来のあるべき社会ってなんだろうか、って。そのときに、目をつぶって考えてみよう。と、沢田と全く同じロジックを使うのだ。しかし、しかし、ちょっと大げさに言えば、ありきたりな生活からの脱却にはこの沢田の呪文は不可欠だ。そうなのだ。そうとは書いていないが、物語の進行で、各登場人物たちは、沢田にこの呪文を唱えることを強いられるのだ。そういう意味において、重要な呪文なのだ。この呪文を自身に突きつけることを「自然状態への回帰」とでも呼ぼうか。
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