高校公民Blog

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コンテスト 4 教員の権力の相対化

2007-10-24 09:32:17 | 授業・教科指導

民主主義の原則のるつぼ

 実は、コンテストは民主主義のすべてを学べるものです。民主主義を知りたければコンテストをやればいいのです。

「国民主権」
「選挙制度」
「マスコミの問題」

 こうした教科書の問題はなまなましくこのコンテストが体現しています。いくら空砲をうち続けてもいみはありません。実際に、それらの問題を自らの手で体験すること、ここがいま問われていることです。

なにより、このコンテストは実施してみて痛感したのですが、貧富の差が歴然とします。平等とは何か、という現在もっとも深刻な問題として問われている問題をこのコンテストは受講生一人一人に突きつけるのです。おわかりでしょうか?まさに

「総合学習」

の名にふさわしい(と自画自賛!)。

推薦というひいき

 
さて、そのなかで私がもっとも自慢したい制度上の売りは、教員の権力が極小化するということです。それは、国民主権を体現すると言ってもいいでしょう。もちろん、そのかわり、国民のレベルをどう考えるかという究極の問題をこのコンテストは私たちに突きつけます。
 制度をもう一度確認しましょう。
 木村は実はこのコンテストに参加しています。教員自らが自薦しなかった文章の中から、これは、というもの、それも

「これはウケる!」

というものを選び、ノミネートできるのです。これは、木村の価値観の押しつけ!ですよ。だって、

「これはいいぞ!」

っていっているのだから。しかも、教育者らしくこういいましょうか。自分の価値に気付かない受講生に対して、君の文章はなかなかだよ、と公然とひいきしてあげているのです。しかし、いまのところ、この「ひいき」の現実に気付いている受講生はいません。

  なぜなのか?おわかりでしょうか?

 ここに実は、このコンテストのすごさ(笑)(自分で言ってる!)があります!
 それは、ひいきと推薦の違いなのです。ひいきという推薦があることを私たちは考えましょう。おわかりでしょうか?まず、私の推薦では、いくら1位でも実利はありません。点数にならないのです。その意味で、推薦は推薦された当人にメリットはありません。そして、その上で、受講生がこのノミネートした文章の価値を最終的に決定するのです。それも、お互いの意志を疎通させることが構造上出来ない人たちが決定するのです。
 厳密に言いましょうか。単位制高校の受講生は、授業時間ごとに集まるメンバーが異なります。何時間やっても名前すらお互いに固定しない関係が続くのです。

前の時間、この人はどこにいたのか?

把握できません。教科担任は調べようと思えば調べられます。しかし、そんなの調べて何になるのです(笑)。大体、そのバラバラな人に、連絡を取る手段がありません。
 こうして、受講生がコンテストに集うのです。そして、そこで配られたプリントを見るのです。そして、彼らが決定するのです。そこには、あらかじめ、総体としての意志は存在しません。私には計りようがない!そうです。教員すらが、権力として、相対化させられるのです。制度はこういっています。

先生がノミネートするのは自由です、しかし、その価値を決定するのは私たち受講生です

権力の相対化、極小化

 さて、申し遅れましたが、コンテストの投票は、当然ですが、制約上1クラス単位で行います。しかし、コンテストにノミネートする文章は複数クラスから公募します。したがって、さらに、上の条件にプラスして、まさに〈見ず知らずの他人〉も評価を下すことになるのです。ということは、見ず知らずの他人へ向けて支持を取りつけることになるのです(次回のこの連載の最終回で、この〈見ず知らずの他人〉をスミスが〈公平無私の傍観人〉と呼んでいることを確認するでしょう)。
 さて、さらに権力を相対化してみましょう。たとえば、このコンテストを複数の教員で実施してみるのです。さらに、この権力の相対化がはっきりすると思いますね。それは、何がそうさせるのか?何度もくりかえしましたが、

予測できない各人の主権の行使

という構造なのです。私はこれを9人という少人数でも実施しました。有効です。たった9人でさえ、見知らぬ他人は有効に機能するのです。その9人の前では、担任は無力です。その無力さは、たとえるとこんな感じでしょうか。コンビニで買い物に来る人たちは突然現れますね。そして、購買していくのです。購買していったという事実だけが残るのです。

なぜ、買っていったのか?
どこに住んでいるのか?
どういう趣味なのか?

一切が不明な状況、こういう状況の中で各人が決定を「開かれた個室」で行うわけです。
 この状況こそが国民主権の重要な構造です。この構造をいかにして学校に取り入れていくのか?ここから、表現の自由の大切さも、その実感も、生徒に学習させることが可能なのです。それは、教員自身があるいみ生徒の投票行動にさらされることをも意味します。
 一見平凡なこのコンテストにはこういう意味があったのです。僕はいうんですよ。

「選挙ぐらいおもしろいものはない!」


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2 コメント

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続きは有料ですか? (ザ・中学教師)
2007-02-10 11:17:48
木村先生へ
>「先生がノミネートするのは自由です、しかし、その価値を決定するのは私たち受講生です」

このコンテストを実施するにあたっての私の雑感。

①繰り返しの中で競争原理が働きつづけるのか。
格差の拡大・再生産にならないか。つまり、ベスト5の常連組とその周辺の集団だけが、さらに市場を読み質に磨きをかけトップ争いを展開していく。その他の者は、最低限単位数を獲得すればよいといった諦観におちいり、価値を決定づける、選ぶ側の責任としての自覚が希薄にならないか。(所詮獲得しても1点どまりという意味においても)
②その結果としての価値が問われる。
決定された価値のレベルの問題。
コンテストの名に値する優秀なレベルのレポ-トが、上位に  ランクインされるとは限らないといった、質の低下がおこらな  いか。
もちろん「質の低下とは何か」という微妙な問題はのこる。
明らかに論理が破綻していたり、表層的・短絡的、快楽的、独善的、でも、おもしろいといった類。
そこで、次回を楽しみにしている「見ず知らずの他人」の存在が非常に意味深なのだが。
続きがない.....(トホホ)

少し話は変わるが、
ハンドルネ-ムopen-windowさんに絞って、アマゾンのブックレビュ-を読んでみた。
高い支持率で、「このレビューが参考になった」と、読者は投票している。
「イイものはイイ」と評価している。 まさに「 見ず知らずの他人」達がである。

少し驚いてしまったのは、
教師批判を、鋭くえぐるように浮き彫りにする「ブログの文章」と「レビュ-の文章」の書き方の落差だ。
空気を読み、高い支持率を獲得するための実験としかいいようがない。(笑)

そういったことができるのは、 木村先生、あなたのような優秀な能力を持った数少ない頭脳集団に限られるのではないでしょうか。(笑)
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一部のみ回答します (Kimura Masaji)
2007-02-18 23:40:57
ザ・中学教師様

■問題提起されている問題はこの企画の生命線といえるものです。そう簡単にお答えできないものです。一つ一つのコンテストの実施の中で問い続けるよりないのです。■お尋ねの①については、日本社会をよく考えていかないと、最終的なことをのべることはできません。この国は読売巨人軍が好きだったりするわけです。「常勝」チームを愛でるなどということが大いにありうるわけです。東京一極集中。自民党一党支配等々。■こういうことはいえまいか。たしかに、私たちは、一部のエリートがノミネートするという危険と隣り合わせにある。しかし、消費社会は、消費する側の豊かさを前提としている。イチローや松井だけではない、新庄もいい、とその層が広がりつつ、細やかな幾多のスーパーヒーローがでてくる。巨人だけではない。阪神もいい、ロッテもいい。こうした多様性をいかに私たちが発生させることが出来るか。かつて、大塚久雄という経済学者が見いだした局地的市場圏という概念がありますが、地方に小さな無数の市場が発生するという状況をいかにつくるか、この問いはそこにかかっているように思えます。答えになっていませんが。
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