女王の教室
2年ほど前にオンエアされたこの作品を、私はつい先日再放送で見終えました。なかなか意味深長な作品であり、また別途に論じてみたいと思っています。
さて、毎回このドラマの冒頭では、この物語は、天海祐希扮する阿久津真矢教諭に対して6年3組の児童たちが繰り広げた壮絶なる闘いの記録なのだ、というナレーションが児童によってなされます。で、そのあまりの天海祐希のイメージの悪さのために、わざわざ1回1回の物語のエンディングに、これは天海本人とは関係ないですよ、とばかりの演出をしているくらいなのです。
この物語は、パワハラの限りをつくす鬼教師にたいして、児童が闘うという形式をとっています。体罰、ことばの暴力、と、ことばを並べれば、話にならない圧力を児童にかけるこの教師が、最後には教壇を追われます。
ところが、この物語の出色な点は、まさにこの追われるところにこそあるのです。私たちはここをみなければいけません。この物語は、はじめから、私たちに、この教師の反人権的態度を、「反人権的」なのだ、と、断定するところから始めています。児童も断定し、教育行政も断定していきます。正確には、教育委員会が断定し、校長が追認するのです。
ところが、そのまさに断定のなかで、そして、追放が完遂されていくまさにその過程で、児童たちが、あることに気付いていくのです。そのあることとは、
「愛」
なんです。そう、「愛」なんですね。愛を実感していくのです。
そして、教育行政は、その愛を児童が実感していることを、確認しながらも、阿久津教諭を追放していくのです。このドラマは、教育行政の批判というのが、陳腐なメッセージなのですが、その皮肉を描いています。教育行政は、反人権的な教員の行為を容易に認定もできず、また、教師の教育愛も認定できないのだ、と。
ともあれ、このドラマは、体罰も、反人権的行為も、最後は、児童が自立し、自律でき、そして、愛がそこに存在するということはあり得ないのか、というメッセージを私たちに送るのです。
もう一点、このドラマの皮肉は体罰教師にこういうメッセージを送ります。
「君たちは、処分される、という程度のことで、体罰をやめていないか?」
「上司が処分をちらつかせ、上司がじっさい処分する程度のことでひるんでいないか?」
そんなものは、体罰ではない。信念ある体罰ではない。どうして、世の体罰教師どもはこうも、腰抜けなのだ。阿久津教諭は、泉谷しげるが扮する(泉谷が校長ってのも皮肉でいいねえ)校長が、教育委員会の意を伝え、処分されることを阿久津教諭に伝えるとき、もう、これからは、体罰はしない、極端に世の中の暗い側面を強調して指導しない、といってくれれば、なんとか、教育委員会と折り合いをつけたい、とほのめかすのです。自分は、あなたの指導で児童が変わったことも知っている、卒業式に児童といっしょにでれなくなるではないか、と。阿久津教諭はその促しを、断固として断り、教壇を後にします。
愛の体罰
愛の体罰が存在する。なぜ、世の、体罰教師どもはそれを示せないのか?
「オレは体罰を行っている。そして、生徒はそれを受け容れている。
なぜなら、オレの体罰には愛があるからだ。
処分!けっこう!オレはよろこんでそれを受け容れよう。」
こうして、堂々と処分された教諭のあとを、生徒が、つづくのだ。
署名の山が集まる。
助命嘆願!
ってやつだね。もちろん、現実はそうではありません。命まで取られるのではない。たかだか首になるくらいのことだ。せいぜいね。減給程度で済むかもしれないのだ。ところが、世の体罰教師どもは、それを恐れるのです。
汲々
とするのです。
ちんけな減給に
恋々
とするのです。
コソコソと隠れて体罰を行い、ばれて、泣いてるのだ!反省などをしているのだ!
恥を知れ!
これがこのドラマのメッセージなのです。
そこには、愛もねえ、ちんけなしみったれた損得勘定だけがあるだけなのだ!
【参考】
・愛の体罰
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体罰をする教師は、ダメ教師だ。
ダメ教師には現場から退場してもらいたい。
だから、懲戒免職処分になるぐらい派手に暴れてもらいたい。もちろん、未練がましく謝罪などせず、潔く
引き際を心得てもらいたい。
そんなメッセ-ジが木村先生から聞こえてくるようです。
頭でっかちで当事者能力のない人間に限って、体罰教師を批判したがる。私は、そう思っています。
それが「木村先生」であるかどうかは別問題ですよ。
暴力が支配する学校の中で、対教師暴力と闘ってみた人間でないとわからないことってありますよね。
私たちは、評論家ではないのだから、具体的状況になってみないとわかりませんね。
それから、体罰の是非なんてのは、言葉のお遊びなんですよ。
なぜって、体罰は禁止されているんですから。
しかし、体罰反対ってほざきながら、セコイのがいますよ。
学校が荒れてきて、身の危険を感じるようになると、
「あいつらを、押さえ込んでしまうようなマッチョはいねえかなぁ」なんてね(笑)
そこには阿久津教諭が、鬼教師へと変貌を遂げていく過程がある。
なぜか5~6回笑ってしまった。痛快活劇だ。
推察するに背景には「体罰待望論」がある。
視聴率を稼ぐために、市場を読んだ結果だろう。
評価するとしたら一点のみ。
変貌を遂げる過程でそぎ落とされていくモノがある。
それは「表情」だ。柔な表情から鬼の表情に変わっていく。
ここをみなければならない。
教師は、生徒に心を読まれてはいけない。つねに秘密のベ-ルに包まれた存在でなくてはならない。
すべてをみせてしまったとき、力関係が逆転して教師は生徒の奴隷になってしまう。
なかなか意味深なメッセ-ジだと思った。