高校公民Blog

高校の公民科(現代社会・政治経済・倫理)教育に関連したBlogです

コンテスト 3 マーケッティング 

2007-10-23 23:45:05 | 授業・教科指導

空気が読めない

 いじめが必要悪として存在しているという側面があまり指摘されてませんね。いじめって日本人が考え出した知恵でもあるのです。私たちの生活空間には

君のいっていることはつまらない

ということをはっきりと意思表示でき、しかもその意思表示が、いじめにはならない、という関係性が存在しません。私はそう断言します。もう少し、作為的な言い方をすれば、そういう関係性をつくることに学校は完全に失敗しているのです。
 大体、先生の発言や、先生の授業や、先生の道徳のお説教が、全然空気を読めていないということが大いにあり得、しかも、先生自身が、その事実に気付かずにすんでいる、というより、済むことが出来る構造が存在するのです。そうとも知らないで、先生がいい気になって滔々と自分の言説をナルシスたっぷりに説いているなどと言うことは大いにあり得るわけです。そういう意味において、日本の学校には、明確に周囲の支持を取りつけないばかりか、周囲がウンザリしているということをさわやかに、表沙汰にするということがそうそう簡単には出来ないしくみになっているのです。グループ学習などという無神経を学校の先生は好みます。でもね、班って体のいい「5人組」の監視団体じゃないんですかねえ。で、実は、学校教育は積極的に空気を読んだうえで、積極的に自己アピールするという訓練を積めないようになっているというのが私の分析なのです。その空間で、空気の読めない人間が滔々とやりだし、容易にやめないという事態が発生するのです。周りはウンザリ、辟易、イライラ・・・・こうして、この事態の打開策、必要悪として誕生したのがいじめという解決策なのです。

開かれた個室

コンテストは、この空気の読めない人間に、ダイレクトに

「退場!」

を突きつけます。応募は自由です。誰にも、自分が応募したことを告げなければ、だれが応募したかは不明です。したがって、人間関係に煩うことなく応募するか、しないかの決断ができるのです。もちろん、投票されなければ決選投票に残れません。したがって、票数が明確に、周囲の人の不支持を本人に告知します。何より、応募した本人が、自分の文章の不支持という事実に直面するのです。そのさいに、だれが不支持なのかがわからないのです。ということは、不支持を表明した人も文章に不支持を出したのであって、それがだれなのか、わからないのです。こうして人間関係に煩うことなく、誰に気兼ねもなく、文章をただ見つめて、不支持を表明する側も率直に自分の意志を表明できるのです。

だれに不支持/支持を表明したのか?
だれから不支持/支持を表明されたのか?

コンテストでは不明なのです。
  そうです。コンテストはこうして、

開かれた個室

を各人に提供するのです。プライバシーは本人の自己責任において確保できます。いえ、それは今ひとつ正確ではありませんね。学校は、まず、どう努力しても、お互いのプラバシーが明確な空間を創造しなければこの企画はうまくいきません。単位制高校の教室は、じつは、その個室をいやでも創造してしまう空間なのです。そうです。

都市の見知らぬ他人の存在」(東京で知っている人に逢いますか?一度すれ違った人とまたすれ違うことがありますか?
ゲゼルシャフトの存在」(そのことだけのために集まった関係、あなたはコンサートに来た人の氏素性をいちいち詮索しますか?同じ買い物に来た客がどこのだれかいちいち気にしますか?

 これがコンテストの前提なのです。くだらない班などコンテストには不要です。見知らぬ人から成り立つとき、コンテストは最大の緊張をもって、しかも最大の気軽さをもって、しかも最大のプライバシーを各人に提供しながら、自身の文章の説得力を確認できるのです。ちなみに、過半数を支持した結果の共同体感覚こそ、狭義のナショナリズムの原型なのです。

積極的な空気の読解

 
自分の文章にだれも見向きもしない。これはあり得ます。そのときに、その人は考えるでしょう。

「どうして自分の文章はダメなのか?」

あるいは、一歩をすすめれば

「一体どういう文章がいまウケているのだろうか?」

そうです。こうして、過去のウケた文章を読み、市場を調査することを強いられるのです。こうして、コンテストは、ただ、空気を読み、汲々として縮こまって生きるのではなく、どうやったらうけるのか?大衆はやはり面白い文章を待っているのだ。それはどういう形式なのか?という思考を「人間関係に煩わない不支持」を通して、立候補者にむけて促すのです。

「ただ空気を読んで縮こまっていたのではダメなのだ。ただただ同調圧力に従順な人間の同じようなことしかいえない・つまらない文章には支持は集まらないのだ。さりとて、空気が読めなければ誰の支持も獲得できない」

マーケッティングの誕生

 実は、私が推薦した文章も、生徒が支持したか、どうかがはっきりと現れます。私の勝率はけっこう高い(笑)のですが、しかし、よく考えてください、これも、木村が決めたのではないのです!受講生が決めた!のです。さらに、決選投票を二票制にしたらどうでしょうか?仮にお義理で投票した1票があったにせよ、もう一票が存在したら?
 繰り返します。投票者は相手がこれで一位になって、得点しても良いとして、自分もご相伴にあずかりたいと投票するのです。それも、個室で。こうした気軽な拒否をとおして、気軽に拒否される自分を知る、自分の無力を知る、自分の足りなさを知る。安易なナルシズムを打ち砕く試みとしてもコンテストは注目すべきだと私は考えています。

空気を読め!読んで読んで読みまくれ!
他者と同じであるな!それはつまらない!他者と異なれ!

コンテストはこういうメッセージを送ってきます。そうです。もう、「空気を読む」という言葉はコンテストでは不適切ですね。コンテストで培われる能力は

マーケッティング

という能力です。これを〈積極的な空気を読む力〉の代わりに使いたいと思います。私は、だから、マーケッティングを共同で行うという可能性をこれからどうこの企画に入れてゆくかと考えています。それを「班」などとは呼びたくないですね。何て呼んだらいいんでしょうねえ?

「会社?」

ちがうかなあ。

「チーム?」

うーん???!!

「政党=パーティ?」

いずれにしても、匿名性を担保してつくるんです。班じゃない!


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