教員のノミネートは得点にならない
このシステムでは、教員である私も、私が
推薦する
という形でノミネートし、参加することができます。しかし、それは、あたりまえですが、受講生自身の自薦のものではありません。したがって、たとえ私の推薦したものが1位になったところで、本人の得点にはなりません。ただ、皿を出して待っている精神はこのゲームでは無意味です。自分の手で、自分の意志で出ることを決意しなければいけません。
しかし、木村が推薦できるということの意味を考えてください。実質上、木村は、このゲームに参加しているのです。それも、生徒の利益にはならず、生徒を推薦できるのです。堂々とえこひいきができるのです(笑)。事実、自薦をせずに、木村がノミネートした文章が何度か1位になり、2位になりました。でも、彼らは喜んでいない(笑)。
「あーあ、自分で出ておけばよかった」
と後悔しているのです。ひいきされて後悔(笑)!
これは、本人にしかわかりませんが、一人、絶対に自分から立候補せず、木村がいくつかの文章を推薦した生徒がいます。彼、まともに全部自薦していたら30点!近くなったでしょう。
「粋(いき)ですねえ!」
と私は一応クラスで紹介しましたけど。
そうです。そう簡単には点数はとらせないぞ!と教科担任もまるで『巨人の星』(古すぎるか!)の星一徹のように(笑)立ちはだかることができるんです。
出なければ当選しない、しかし、出ればいいというものではない
生徒のみなさんはこのジレンマと闘うのです。何回でも挑戦してもいいのです。そして、何回失敗してもいいのです。失敗したら、研究すればいいのです。すごいのは───とニーチェのように自分で言ってしまいますが──、この企画は匿名性が担保されています。だから、恥などというものを公開の場でかく必要はありません。失敗してもわからないのです。だれもそのことに関心はありません。もちろん、
「こいつ何回もでてるよ」
と言うかもしれません。大体、それって誰に言ってるわけ?で、気にする必要があるわけ?なんならハンドルネームを変えればいいんです。
「出るのか、出ないのか、自分で決めなさい」
「自分の意志ででなければ意味はないのだ」
「出せばいいというものではない。しかし、出さなければいいというものでもない」
そうです。この企画は、自己原因という促しをたえず受講生にしています。
選ぶ側の責任
コンテストに自分から参加できない人にも責任があります。もっともっと、選ぶ側の責任を制度化したいと考えていますが、現状においても、1位を当選させることが自分の利益にもなります。そして、変な話だと思いますが、日本人が大嫌いな自分から出たヤツを応援していることになるのです。
「こいつ、いいじゃないか!」
と文章の中味だけをみて、決めることができます。
ひょっとすると、本人を見たらイヤなやつかもしれないんですよ。ケンカしてるヤツかもしれないんですよ(笑)。それでも、
「いいものは、いい!」
こういう関係をつくることができるのです。
こんなことはありえるでしょうか?
教室でいきなり立ち上がって
「私にいれてください」
それに対して、こっちも立ち上がって
「入れてやるぞ!」
実は、こういうコミュニケーションを、お互いがお互いの欲をつっぱらかりながらしているのです。いいんです。自分のことばかり考えているくらいで。その上で人のことが思えれば、これが、アダム・スミスが近代社会の経済道徳として紡ぎだしたエトスなのです。
まず、てめえの欲の皮をつっぱれ!そして、結果として人が幸せになる!このぐらいがちょうどいいのだ、とスミスはいうのです。
↑ ↑ ↑ ↑ ↑ ↑ ↑
よろしかったら、上の二つをクリックをしてください。ブログランキングにポイントが加算されます
パソコン教室など、もう少し利便性が増すと、より効率的にできますね。
読者としては、ぜひ、さらに実践論として定式化し公開して欲しいと思います。
・・・無料でいいんですか(笑)
この授業に参加した生徒は、倫理と政治経済、両分野において、深い学習の契機を得ることができると思います。
この方式で提起されるさまざまなテーマにおいて、生徒たちがどのように論じ、どのような意見に支持が集まるのか、今後の展開が大変に興味深いです。
エゴむきだしで、自分の商品(レポ-ト)を高く売りつけて見せろ!(点数をできるだけ多く稼げ)
繰り返しのなかで、戦略的方法論を自分であみだせ。
木村先生は、そう挑発している。
この予測不可能なコンテストは、いったいなんなんだ。(笑)