森の中の一本の木

想いを過去に飛ばしながら、今を見つめて明日を探しています。とりあえず今日はスマイル
  

秋の風を感じたから、ガーデニング

2011-10-10 16:35:36 | 梢は歌う(日記)

今日は取り留めのないおしゃべりをしたい気分です。

今日は「カーネーション」の初週の感想を書こうかどうか迷いましたが、「カーネーション」で感想を書くと「パンドラ」から何からみんな感想を書いてしまいそうなので止めました。新ドラマが出揃った所で、叉ドラマのお話が出来たら良いなと思いますが、」:「@+6}_*
って、ここを通るなと突然猫と格闘中。上の意味なしの文字配列は猫が歩いた後。でも何、これ素晴らしくない?

 

ねーこ猫。毎日が猫中心で回っているような我が家ですが、朝目覚めた時に、夫と私の真ん中でももが伸び切った体を横たえて、川の字になっているのを見ると、なんだか至福の喜びを感じます。

子育てを終えて犬や猫を飼うのって、今までと全く違うのですよ。本当にかけがえのない存在になっていくのです。これってある意味危険なんじゃないかなと思います。私たちが寿命を全うできるとしたら、どんなにももが長生きしてくれても、先に死んでいくのですよ。その時私たちは立派な老人です。その悲しみに耐えられるかしら。特に私の数倍可愛がっている夫は、かなり心配です。

そう言うことが引き金でボケ始めると言う事もあり得る訳で、数年立ったら多頭飼いしたいなと思ったりもしますが、マンションでは難しいかも知れませんね。

夫が帰ってきた時に、
「あっ、パパだ。」って玄関に飛んでいくのって、もうウチではももしかいないし、小さい子供みたいで可愛いですよね・・って、親ばかな私でした。

 

猫ブログ、もっと書きたいなって思ってるんだけど、どうも写真が目を瞑っている写真ばかりで・・・。

 

ところで昨日、クロッカスやらムスカリやらの球根を植えたりベランダのお掃除をしたりしました。風も空気もちょっと冷たくて、やっぱり秋なんですよね。そう言うことをやるのも楽しい季節です。春の準備を着々としていますが、夏の花は既に盛りを過ぎてしまったので、今ベランダは花の色に乏しいのです。ちょっと追加したい気分です。少しベランダに色が戻ってきたら、大したベランダガーデンではありませんが、見てくださいね。なんと言っても、緑・緑の写真ではね。

 

だけど花を買い足すと、必要になってくるのが新しい鉢とか。でも正直な気持ち、買い足したくありません。まだ空いているのもあるけれど、上手く使えるか大きさにも寄りますよね。先日、NHKのあさイチで牛乳パックを使ってのベランダガーデンを紹介していました。それも良いなと思います。使い終わったら捨ててしまえば良いのですものね。

後、今ちょっと考えているのがペットボトルを使っての、ミニプランター作り。

何かいろいろ工夫するのって楽しいですよね。

 

16日過ぎには水仙の球根も届くと思うので、その準備もしていかなくてはと思います。この水仙は、被災地の水仙プロジェクトの5for5の球根なんです。球根を買うと、私の家に5つ、被災地に5つ球根が届くのです。これは締切日にその事を知ってギリギリで買ったのですが、もっと早くに知っていれば、皆さんにも発信できたのにと残念に思います。

日頃から、ツイッターって情報早いよって、なんとなく偉そうな事を言っていたのに目に止まらなかったのですよ。たぶん流れてきたツイートの意味が分からなかったのですね、きっと。でも友達のブログで知りました。

メディアミックスと言う言葉もあるけれど、やっぱり情報ってそう言うものなんだなと思うのですよね。

 

ところで「カーネーション」を見ていると、何か手縫いでシクシク縫うか、ミシンでカタカタと作りたくなりませんか。

秋ってそう言う季節なのかも。

何かを始めたくなるそんな季節・・・・・

 

でも私はその前に、初めての腸の検査に挑戦しなくてはなりません。なんかちょっと憂鬱。
やだわ、後からおならさんがたくさん出るのかしらってちょっとだけ思ってしまいました。でもそう言うのとはまた違うみたいなのです。
体験記、書くべきものがあったら書きますね。

 

オマケで載せていたコスモス画像、今回でラストです。
以下にも少々載せておきました。

 

 

上のはこういう形の新種と言うわけではないのは分かっていますが、ピークの時ばかりが美しいわけじゃないと言うわけで。何故だか花は女性と意識がダブってしまう部分がありますよね。

 

   

これは前にも使った画像ですが小さく使ったので、最アップです。
やっぱりコスモスって好きなお花です。

 

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もの考える秋

2011-10-08 17:40:46 | 家族スナップ

お母さんとかおばさんとか、同じ話を繰り返す。

だから許してと言うわけじゃないが、前に書いた事を、叉ちょっと繰り返し書かせてね。いや、本当は前に書いたところがサクッと見付かれば書かないんだけれど、之だけ記事が増えたんじゃ、簡単には見付からないので。

ルート君の小学校4年の時に出た宿題。帰り道を観察して思った事を書いてきましょうと言うもの。
それで何を思ったのと私が聞くと、彼は真面目な顔で
「人は何のために生まれてくるのだろうって思った。」と言うお話。

私は親だけど、親じゃなくてもこのエピソードはきっと好きだ。10歳の子供は、高い空を見て微かに色づき始めた森の木々を見て、そして自分の事を考えたのよね。

確かに宿題の主旨とは違う展開。だけどね、こういう展開こそが教育の醍醐味のはず。しかしながら、受け止める先生側に幅広い思考のふり幅があるかどうかは時々疑問に思う。

 

ルート君は言葉のスタートも遅く、自分の気持ちの表現力に乏しいが、彼がふと感じたことを、いろいろ展開させて話したりする事が好きだ。言葉巧みなラッタ君と違って、それは滅多にはないのだけれど。

 

ルート君の哲学の秋のエピソードを思い出すと、必ずセットで思い出すのが工藤直子の「哲学のライオン」。

これも子供の中学の教科書で知った詩。

 

てつがくのライオン (フォア文庫)
工藤 直子,佐野 洋子
理論社

読めば読むほどその世界に引きずり込まれる。

ちょっとさわりだけ

「ライオンはてつがくが気に入っている

かたつむりが、

ライオンというのは、獣の王で哲学的な様子をしているものだ

と教えてくれたからだ。

きょうライオンは「てつがくてき」になろうと思った

哲学というのは坐りかたから工夫した方がよいと思われるので、

・・・・・・」

(続きはネットで検索すると出て来ます。ちょ、ちょ、ムニャムニャ)

草原で鬣が風に吹かれているライオン。

ライオンはじっとしずかにてつがくをしているのだ。

この詩を美しいと思う。

だけど面白いと思う人もいるだろう。可愛いと思う人もいるだろう。人はみんなそれぞれ。

中には、ライオン馬鹿だなぁとか、カタツムリは知ったかぶりの愚か者なんて思う少数派もいるかも。
それも良いんじゃないかなと思う。

ただこの詩を知っていると、立ったまま居眠りしている猫を見ても「瞑想する猫」って思うよ。

 

ところで昨日衣替えをしていた時にルート君が、私が何をしているのか覗きにきた。折りしもテレビではモンゴルの何かの映像。

その時ルート君はふと思った。

「チンギス・ハーンって国では英雄でも、日本から見たら単なる侵略者じゃない?」

もちろん責めてきたのは彼ではないが、ルート君の捕らえ方は蒙古と言う集団の象徴と言う意味って言う事は勝手に分かる。

蒼き狼、チンギス・ハーンは私にとってやはり英雄だ。

彼が何故英雄たるゆえんかと言うお話から、徳川家康に話が飛び、彼が知略と武力と言う暴力に暴力を重ね結果的には天下を平定した話に流れていった。

300年に及ぶ平和な時代の礎を作り、国として機能していたゆえに、次の外敵侵略に踏ん張る事が出来たのだと私は思う。そうすると、戦国の世に多くの血が流れたのは、歴史を顧みれば必要悪だったのだろうか。

 

「そう思うと、人間の歴史はおぞましきかな、悲しきかなだよね。」

「人間って言うのは牙も持たず鋭い爪も持たず薄っぺらな皮しか持っていないんだけれど、それでも食物連鎖の頂点に立ち・・・」

「その代わり知恵を持っていたんでしょ。知恵から武器を作り出したんだ。」

「そう。そしてそれでいろんな生き物を殺して食べて生きていくおぞましき生き物なんだよね。」

「それを言ったら、生き物はほとんどがそうだろう。」

なんでそう言うシステムなんだろう。思わず歴史的雑談から生物的雑談に変わっていく。

「そうよ。この世界でおぞましくないものって言ったら、思い浮かぶのは川辺で風にそよいでいる葦なんかかもね。」

「だけど『人間は考える葦』って言うんでしょ。」

「『人間は殺しむさぼり続ける葦である』、なんかこの方が、今の気分ではピンと来るね。」

「確かに。」

と言うわけでルート君との楽しい会話時間は終わったのでした。

※      ※      ※

だけど知恵を持っている人間がこの地球の上でトップに立っているというのなら、その責任は父のようなもの母のようなものなのではないのか。この地球を生きている生き物の為に守る使命があるのでは。でもやっている事はどうなんだろう・・・・って思うよ。

 


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空は快晴、だから衣替え

2011-10-07 14:33:51 | 梢は歌う(日記)

 

 

今体力ないので、ちょっと動いてもフウフウゼイゼイ言っていますが、そんな私でもやるべき事はやっているのです。

今日は衣替え。

やるべき事はやっているなんて偉そうな事を言っていても、既に衣替えは自分の分だけをやれば良い時代になってしまいました。夫の服は衣替えしなくても良いようになっているのですが、私の分はまだ夫と同じようにはなっていないのです。近いうちにしたいなとは思っているのですが、なかなかね。やっぱり普段着といっても枚数が多いし、みんな入る引き出しを手に入れるには、狭い家の工夫がさらに必要なわけなのです。こうなってくると息子たち早く出てお行きとか言いたくもなるけれど、まだ当分先になりそうです。

この数年、衣替えのたびに服を結構捨ててきました。だから今年はもうないかなと思ったけれど、シーズンの初めに少々買い足したので、その分だけでも処分しようと思ったら、結構ありました。

13枚。まあ、 買い足した分よりは多かったので、その分空間も空いたはずです。

今のこの先の計画では、お勤めに行くなんて事はもうないと思うので、お堅めのスカートは皆処分の対象になりました。服は着るシーンを思い巡らして、生活が変わったら、そこで処分していく必要があるなと思いました。

 

今、流行っているものの捨て方の基準は、いるか要らないかじゃなくて、手にとってそれでときめくかときめかないかなんですってね。

でもこれって、その時の気分に結構左右されるような気がしました。

衣替えって、結構好きな行事です。

だって、こんな服もあったのかとか、トキメク気持ち一杯になれる事が多いからです。でもまずい事に、今年全くときめきません。
なんだってこんなにハイネックの色違いのTシャツばっかりあるのとか、あんなチュニックこんなチュニックと入れ替えていて疲れてしまいました。凝り性で同じパターンが好きなのかも。それともこの「ときめき」と言うのは、生活充実と連動しているんじゃないかしら。

今、なんとなく元気がないから、いろいろなシーンを思い浮かべる事ができなくて、服一枚を手にとっても、全くもって感慨もなし。このときめき基準でいったら、タンスの中は偉くスッキリするけれど、明日から困る事間違いなしです。

これ別に、その発想への批判じゃないですよ。今の私の現実を書いただけ。

大切なのは、心がちゃんと動く生活をすることなんだと思います。

 

だいたい普通、家中を片付けようと思っている人は、ちゃんと心の動く人なのだよね。

 

だけどあの震災後には、多くの人が物との付き合い方を考えたのではないかしら。

終わってしまったドラマ、「おひさま」の中でも迫ってくる火事から逃れる為に、夫の和さんが
「本当に必要なものだけもって逃げるんだ。」と言うシーンがあって、凄く考えさせられました。ちょっとだけは時間がある。その時人は何を持ち出すんだろうかと。

財産的なものの確保はともかく、その後何を袋に詰めるのかしら。

ドラマでは陽子が棚に飾ってあった写真楯をさっと仕舞っている印象的なシーンだったのです。

 

服も日頃から自分にとって必要なものを自覚していることが大切で、いざとなって持ち出すものが最低限の大事な服なのかもと思ったりもしてしまうのです。だからと言って何でも二枚ずつあれば良いんだという極論ではないですが、やっぱり徐々に枚数はこれからも減らしていこうと思った今日この頃なのでした。

 

そうそう、これからの私の生活シーンは家で仕事と言う事もあるけれど、しばらくは本当に家でのんびりしたいので、おウチファッションに気合を入れようかなと思います。

家にいてもダラリンファッションはナシにして、白いブラウスなんかで決めちゃおうかななんて思ってみたり・・・

あっ、今ちょっと、あのブラウスにトキメイタ♪

 


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RATTARと秘密の塵

2011-10-06 11:01:51 | 家族スナップ

オマケのコスモス画像。編集し直しが面倒なので大きいまま。オマケには思えないが一応オマケ。

 

昨日は数ヶ月ぶりに美容院に行きパーマなんかをかけてきました。だけど私が美容院に行ってパーマをかけた日は雨の確率高し。

帰りに買い物がしたかったので自転車で行ってしまいましたが、その時は一応セーフ。帰りまで持たないかなと甘い考えもありましたが天気予報どおりで午後からはかなりの雨。フウフウ言いながらマイ愛車の自転車を押して帰ってきました。

私が出掛ける前から、ラッタ君がひとつの区切りが付いたと言う理由で、何やらゴミステを始めた雰囲気。何の区切りかは私のブログなので書けない所ですが、かなりのゴミが出そうな予感がしました。

 

フウフウ言いながら帰ってきた私が目にしたものは、山のような本、山のような服、不燃ごみに燃えるゴミの袋の山でした。

ヤッパシ

天気予報などを見ていなかったら、
「お前がこんな事をするから、雨が降るんだ。」と言うところ。

雨を降らせる男って言うのもカッコ良いが、ゴミステやって雨を降らせるって言うのはどうなんだ!

折りしも木曜日は不燃ゴミの日で資源ゴミもその時うちのマンションでは出せるのです。そしてそれらのゴミは前日の水曜日にもゴミ捨て場に出しても良いのです。この辺がマンションの良いところですね。

本などは片っ端から括ってあげました。

もちろんこっそり私の方の資源ゴミもチャッカシ混ぜ込んでですが。

プラゴミと燃やせないゴミの分別もチェック。

箱根の検め婆の如く・・・・

凄く、私(ゼイゼイ)、働いたなあと思ったら、綺麗になったのは子供部屋ばかりでした。でも彼の部屋の机周辺は魔窟だったのでスッキリしたのは嬉しい感じ。

ラッタ君は、途中でフラフラしていましたが、
「ここで倒れてしまったら、せっかくの片付け熱が冷める。」と頑張っていました。

ラッタ君の断捨離、徹底的です。思い出を余り大切にしていないので、学生時代の作品集なんかも捨ててしまうのですものね。ちょっと難色を示したら、

「それであなたの部屋は、ゴミステがはかどらないのか。」などとの給う。

そうかも知れない。思わず沈黙。

 

とにかく畳二畳分ぐらいのゴミが出た彼の部屋でした。

戦いすんでお茶です。

「だいたいね、やらなすぎなんだよ。前回やったのね、数年前の1月2日だよ。はっきり覚えているしブログにも書いたんだから。」

彼がどれって言うので開いて見せてあげました。

「『筑波山が崩壊したぞ』とか言ってるよ。」と私が言うと

「今回はもっと頑張ったんだ。何しろ机の下の巣窟と言うか数年手付かずの所も掘り起こしたんだから。なんたって20世紀に買った携帯の箱まで出てきたんだぞ。うーむ、せっかくだから今回の掃除にタイトルをつけよう。」

「さようか。何気に自慢してるな。」
魔窟発掘・・・・インディジョーンズっぽいなと言おうとしたら、

「『ポッターと秘密のゴミ』だな。」と彼は満足して行ってしまいました。

確かに秘密のゴミがたくさんあったような彼の部屋だったわねと思いました。

 

でも『ポッター』じゃないわよね。

と言うわけで、『ラッターと秘密のゴミ』なのです。

ちなみに今日の彼は少々の鼻炎。秘密のゴミの呪いです。

前回の彼の断捨離記事は→ 「夢でござる」

 

あの時は必要だった、確かに。だけどいつか別れはつきもの・・・・
って、私もやらなきゃなあ。


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「藤原竜也×劇団☆新感線」初コラボのニュース♪

2011-10-04 07:35:09 | 観劇・コンサート日記

 

画像のコスモスは、オマケです。しばらくオマケのコスモス画像付きです。

今朝も、新聞代わりに最初にツイッターを開く私。そこに流れてきたのが、「藤原竜也×劇団☆新感線」初コラボの情報です。

前々から劇団☆新感線の舞台に出ないかなあと切望していました。

新感線の舞台に行くと、アンケートで「今後、劇団☆新感線の舞台に出て欲しい俳優は?」と言うのがあるのですが、前に鈴木杏ちゃんが自分の名前を書いてきたと呟いていた事があって微笑ましく思っていたものです。そのアンケートに竜也君の名前は、上がっていないのか、数が少ないのかといつも気になっていました。

でもそれはタイミングが合わなかっただけらしいのです。ホッ!

ご一緒するのは、永作博美さん。ダブル主演だそうです。暗殺一族エースのお話でいかにも新感線らしいお話になりそうですね。永作さんも大好き。今からとっても楽しみです♪

ああ、問題はチケットですね。

 

「下谷万年町物語」のチケットは取れました。

新感線のチケットは大変そうだけれど、頑張るしか在りませんね。

4月24日から大阪・梅田芸術劇場、5月24日から東京・青山劇場。

 

詳しくは→デイリースポーツオンライン

他にもあったけれど、此処が一番詳しかったかな(今のところ)

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あけぼの山のコスモス

2011-10-03 11:25:06 | お出掛け日記

最近、私がせっせと通っているのは・・・・・病院。

整形外科に歯医者に皮膚科に内科・・・・・・。
ああ、高校の時に死んだお婆ちゃんみたいになってきたな。

でも人は時には自分もしっかりメンテナンスしなくちゃいけないと思うの。

でもこれは私の考えでなくて、友人からの影響。

彼女が腰痛が酷くなってしまって、手術を受け、2ヶ月仕事を休んだ時に、それを機会に長年苦しんでいた痔の手術を続けてしたり、その他の検査も全部して、メンテナンス期間と言っていたのは、結構衝撃的な発想だった。

だいたいこの歳になると、あっちこっち気になるところが。だけど結構我慢もできちゃうから、こんなには病院に行く事が普通は重ならないと思う。でも・・・・・って、そんな話題はもうどうでも良いや。

とにかく、仕事して病院に行って、フウフウ言いながら家事をやって、時々友達と電話でおしゃべりして、テレビを見てまたツイッターでおしゃべりをする。

なんか可哀想じゃない?

そんな生活。

でも元気がないと何処も行きたくないの。今年の秋に計画していた事は、ほとんど来年回し。
だけど薬を飲んで少し良くなってきたので、友達が「あけぼの山」に連れて行ってくれました。←文体もいきなり変わったな・・・・

ここのコスモスは、他の所より育成が遅れていて、それでかえってこの前の台風の時には被害がなかったのだそうです。

昨日は薄曇。空気もひんやり。それが気持ち良くて、散歩日和でした。

 

まだ蕾が一杯で、目で見た分には綺麗なのですが、写真に撮るとちょっと寂しいかも知れませんね。

 

でもコスモスってやっぱり清楚で清々しくて、やっぱり大好きなお花です。

 

 

「あけぼの山」のコスモスはまだまだこれからです。

でも黄花の方はどうかな。

 

 

 

 

 

やっぱり咲き誇っていると綺麗ですね。

あけぼの山の公園の方には、金木犀もたくさんあって、今訪れるとその香に包まれていて空気全体が清々しいのです。

お近くの人は是非。


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「おひさま」最終回

2011-10-02 01:37:29 | テレビ・ラジオ

 「おひさま」は凄く不思議な雰囲気を持ったドラマだったと思います。この半年の纏め感想なので少々長いですよ。でも今日は最終回だったので、その感想から。

日向子の入学式に人々は集って、そこに向かう和成と陽子、そして日向子の後姿に思わず徳子が
「幸せそうだね~。」と呟くのでした。

その時、土曜日だけ一緒に見る夫が
「戦争から帰ってくる事が出来て、本当に良かったね。」と言いました。

この物語は、子供の入学式と言う、余りどうって事のない、そんなシーンで終わりを向かえるのが相応しいのかも知れないと、私は思いました。

なぜなら、子供が小学校に上がるころ、親は節目を迎えます。その時、その姿が幸せそうに見えると言う事は、第1章の終わりが幸せなラストで向かえる事が出来たと言う事です。

現代に戻って、陽子が房子に
「ツヅク」と言いました。

そう。

この先も本当に大変な事は幾つもやってくるのです。だけど敢えてそれを描かない。なぜなら、その人生の終わりのときまで人生と言う道は果てしなく続くからです。

陽子の語ったみんなの後日談。

日向子は結婚して東京で暮らしている。
真知子は夫と会社を興す。
育子はテレビの世界で世界中を飛び回る仕事をしている。

茂は日向子が大学生に入る年に受かり、・・・・

えええーっ!

18浪したってことー!?

その後須藤医院を開業し育子と結婚した・・・・・

いやいやいや、ここだけどうも納得できません。

こんなお医者様に、私は見てもらいたくないですよ。頑張ったね、茂兄と言う気持ちになれません。どうも物語が紙の上で踊っているという感じがします。

 

でもこの物語は、時々どこかそういった現実味のない世界観で溢れているなと思っていました。

私が初回に、思わず感じてしまったのはそのラスト。

途中で、それはないかと悟りましたが、自分の閃きをなかなか諦め切れませんでした。それは陽子はこの世の人ではないと言う大胆仮説。なぜなら現代の陽子はなぜかふわふわしていて、しっかりとした存在感を感じる事が出来なかった事。それ以上に房子との出会い方が奇妙だったからです。

 

房子は家族の中の自分の存在感なく、家族がばらばらな事に嫌気が指し、ある日気まぐれに買い物を終えた近所のスーパーから車を走らせて、安曇野にやってきます。畑の道で脱輪し、それで仕方がなく、陽子のお店にやってくるのです。

お店はお休み。でもそこで陽子の昔話が始まるのでしたが・・・・

 

日も暮れて、じゃあ、今日はここまでって・・・・

もうここから私たちは不思議ワールドに迷い込んでしまいました。

誰も脱輪なんか助けてくれてもいないのに、日が暮れてから房子は家に帰って行きます。

そして頻繁に来ます。

近所のように。

でも房子の家は東京にあるのですよ。片道、運がよければ2時間半、往復5時間。もしくは6時間ぐらい掛かるわけです。
はっきり言って、現実味がありません。

これは私が思って止まない事なので敢えて書かせていただきますが、房子の往復はいらなかったように思います。たった一日の出来事。

なぜなら、おばあさんに昔話をせがんで御覧なさい。

そのドラマチックな人生を2時間ぐらいで話してくれますよ。

それでも房子には大きな出来事で、再びここを尋ねてみると、この家は既に廃墟となっていたと言う展開・・・・・、NHKでそれはないですね。だけどその妄想バージョンを続けて語るならば、その廃墟になってしまった家からでも、耳を澄ますと、しっかり戦前戦後を生きた人々のざわめきが聞こえてきたと言うラスト・・・と言う妄想ラストだったのですよ。

 

それはともかく、次の話題です。

お話中、現代の陽子が自分の事を
「こんな平凡な人生で」と言う言い回しの言葉を使うのですが、房子が
「とんでもない」と否定します。

でも私、陽子の人生は平凡なのだと思いました。

たとえ小学生の時に母を失い、その後家事をやり続ける小学生であっても、叉家業などを手伝う事はあっても職業婦人のほとんどいない時代に、学校の先生を目指しなったとしても、戦争に行く人の前日に嫁入りしても、夜に無料の私塾を開こうとも、火事に遭い心機一転で新しいお店を開こうとも、やはり彼女の人生は平和な平凡な人生だったと思うのです。しかし平凡と言うのは、なんら波乱万丈な生き方に劣るものではないのです。

人は平凡を目指してその平凡すら得られない、と私の高校の時の国語の先生が言った言葉を、私は今でも覚えています。平和に平凡に生きるという事は、なかなか難しい事なのです。

この物語は普通の人の平凡な人生を描いているのだと思います。だからこそ、本来なら大変なのではと言う部分が語られていません。

私が好きなシーン。
まだ小学生の陽子が、朝早くから起きてみんなのお弁当を作ります。皆それぞれちょっとずつ詰め方も量も違います。お昼になると家族がそれぞれの場所で、皆誇らしげにそのお弁当を美味しそうに食べるのです。
太陽のような陽子。
そんなシーンでした。
子供が毎日いなくなった母の変わりに家事をやります。
それってハンパのないくらい大変な事だったと思います。でも現代陽子は、その辺はパスです。

女学校時代、白紙同盟で皆着飾って松本に行くシーン。ここも好きです。
陽子は可愛い着物を着ています。
誰がその着物を用意したんだろうかと、私は思います。
たぶん作者も衣装さんも意識していない部分だと思います。でも陽子と言う人物に感情移入して見ていると、そんな可愛いお正月らしい着物を着ているシーンでも、陽子が健気に感じてしまうのです。ひとりで頑張っているんだなあと思ってしまうのです。家事もやって学校に行って、受験勉強をする。凄い事なのです。でもそのシーンも軽い。

そうして入った先生になる為の学校でのお話は、全面カット。

そう、この物語は、「ああ、大変だった。」「もう、大変だった。」と言う部分は、語り手の陽子によって意図的に語られていないのだと思いました。

大変だったお話も、皆乗り越えられたお話ばかりです。

だから後日談には、母のような姑の死も、優しかった義父の死も父の事も、帝王の事も語られていません。

それがこのドラマの優しさだったのかも知れません。

 

この物語、実は波乱万丈の人はたくさん出てきます。

華族に生まれたのに駆け落ちして、体が弱かったのに三人の子供を産んだお母さん。
小学生の時に奉公に出て、赤貧の中からお金を貯めて店を起こし、安曇野に凱旋してきたユキちゃん。
空襲で両親を失い、アメリカに行った妹とも別れ、ひとり小学校の時の恩師の家に引き取られ画家を目指した杏子ちゃん。
戦争で負傷し戻ってきていた恋人を広島で亡くし、その後の生涯を教育に捧げ、私学を創立させた夏子先生。
安曇野の帝王と呼ばれる男の娘として生まれ、才色兼備だった真知子は、戦争で婚約者も心から愛する人も失ってしまいます。その後は普通の結婚をし、父の家を出て、それでも自分の力だけで遣りたかった会社を作っていったのです。
育子は、東京大空襲に遭いそこで助けてくれた人と恋に落ち、そして失ってしまいます。出版社の仕事を経てテレビの仕事に付き、そしてかなり遅い結婚をしたと思います。その間に投獄経験あり、変わった恋人をもっています。

どの人の人生も、凄まじい人生だと思いませんか。誰が主人公になっても不思議ではないくらいです。

でもこのドラマの主人公は陽子。

ラストの亡くなった母と同じ年になったと言うナレーションと共に、空を見上げて終わるラストは本当に素敵でしたね。

「頑張っていますよ。」「生き続けますよ。」と言うメッセージのような気がしました。

 

このメッセージについてですが、私、ちょっと勘違いをしていました。
前に書いた、「『ピンチはチャンス!』、実はおひさまの感想です」の中で
>作者は震災後の元気のなくなってしまった私たちに、一所懸命にエールを送っている、そんなドラマだと思います。
>ドラマのシナリオは、一体いつまでに書き終わって撮影をしているのか良く分かりませんが、原作と違って、書き終わってスタートではないんだなと感じます。 特にこの「おひさま」は震災後に始まり、出来ていたベースにどれだけの手直しを入れていったのか、感じるものがありました。それゆえに励まされてきた方も 多いかと思います。

 

勘違いしていたのは「手直し」と言う部分です。最終回間近になると、いろいろな出演者の方が、様々なトーク番組に出ます。そこで俳優さんたちが言ったのには、ここに出てくるセリフが、余りにも今に合っていて不思議だったというもの。手直しはなく元々書かれていたのです。不思議な偶然だったのですね。

以前このブログでテーマにしていた事を、誰かふと思い出してくれた方もいらっしゃるかも知れないとは思いましたが、そこまで自己ピーアルすることもないので、まあスルーです。

「手直し」と言う点ですが、もうひとつ勘違い。でもこの勘違いは多くの人がしてるんじゃないかと思います。
房子の事です。
彼女は最初、騒々しくってガサツで、みんなが耳をふさぎたくなるくらい。だから人気がなかったのです。いらない、消えて、邪魔と言う言葉がツイッターのTLに並びました。
だけど途中から、信じられないくらい静かになりました。
そこで勘違いです。みんなの苦情が届いたのだと。

でもこれは演出だったのじゃないかと、最後の方でわかってきました。

特に最終週。出てきた房子はとっても綺麗でした。その房子の感想はツイッターに書いたので再掲させていただきます。

「もっと房子宅のドラマを見たかったけれど、家族が房子を安曇野に送ってきた事。ドタバタで見た目にもがさつな感じだったのに、落ち着いてそして綺麗になっ た事。それが房子の家のドラマの現れなんだと思う。平凡の中の嵐、それが房子の家にもあった事が伺われて良かったと思う 」

 

本当のラストは陽子のアップで清々しかったけれど、その一歩前、さながらサービスで現代の白紙同盟が出てきましたね。

「最初と最後にいなくなるのはイヤだ。」「じゃあ、ずっと生きていれば良いのね。」って、彼女たちは幽霊じゃなかったけれど妖怪にはなっていたなとしっかりと思ったのでした。オワリ。

 

・・・・・・、安曇野行きたいな。
車でビューン・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

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