森の中の一本の木

想いを過去に飛ばしながら、今を見つめて明日を探しています。とりあえず今日はスマイル
  

「おひさま」最終回

2011-10-02 01:37:29 | テレビ・ラジオ

 「おひさま」は凄く不思議な雰囲気を持ったドラマだったと思います。この半年の纏め感想なので少々長いですよ。でも今日は最終回だったので、その感想から。

日向子の入学式に人々は集って、そこに向かう和成と陽子、そして日向子の後姿に思わず徳子が
「幸せそうだね~。」と呟くのでした。

その時、土曜日だけ一緒に見る夫が
「戦争から帰ってくる事が出来て、本当に良かったね。」と言いました。

この物語は、子供の入学式と言う、余りどうって事のない、そんなシーンで終わりを向かえるのが相応しいのかも知れないと、私は思いました。

なぜなら、子供が小学校に上がるころ、親は節目を迎えます。その時、その姿が幸せそうに見えると言う事は、第1章の終わりが幸せなラストで向かえる事が出来たと言う事です。

現代に戻って、陽子が房子に
「ツヅク」と言いました。

そう。

この先も本当に大変な事は幾つもやってくるのです。だけど敢えてそれを描かない。なぜなら、その人生の終わりのときまで人生と言う道は果てしなく続くからです。

陽子の語ったみんなの後日談。

日向子は結婚して東京で暮らしている。
真知子は夫と会社を興す。
育子はテレビの世界で世界中を飛び回る仕事をしている。

茂は日向子が大学生に入る年に受かり、・・・・

えええーっ!

18浪したってことー!?

その後須藤医院を開業し育子と結婚した・・・・・

いやいやいや、ここだけどうも納得できません。

こんなお医者様に、私は見てもらいたくないですよ。頑張ったね、茂兄と言う気持ちになれません。どうも物語が紙の上で踊っているという感じがします。

 

でもこの物語は、時々どこかそういった現実味のない世界観で溢れているなと思っていました。

私が初回に、思わず感じてしまったのはそのラスト。

途中で、それはないかと悟りましたが、自分の閃きをなかなか諦め切れませんでした。それは陽子はこの世の人ではないと言う大胆仮説。なぜなら現代の陽子はなぜかふわふわしていて、しっかりとした存在感を感じる事が出来なかった事。それ以上に房子との出会い方が奇妙だったからです。

 

房子は家族の中の自分の存在感なく、家族がばらばらな事に嫌気が指し、ある日気まぐれに買い物を終えた近所のスーパーから車を走らせて、安曇野にやってきます。畑の道で脱輪し、それで仕方がなく、陽子のお店にやってくるのです。

お店はお休み。でもそこで陽子の昔話が始まるのでしたが・・・・

 

日も暮れて、じゃあ、今日はここまでって・・・・

もうここから私たちは不思議ワールドに迷い込んでしまいました。

誰も脱輪なんか助けてくれてもいないのに、日が暮れてから房子は家に帰って行きます。

そして頻繁に来ます。

近所のように。

でも房子の家は東京にあるのですよ。片道、運がよければ2時間半、往復5時間。もしくは6時間ぐらい掛かるわけです。
はっきり言って、現実味がありません。

これは私が思って止まない事なので敢えて書かせていただきますが、房子の往復はいらなかったように思います。たった一日の出来事。

なぜなら、おばあさんに昔話をせがんで御覧なさい。

そのドラマチックな人生を2時間ぐらいで話してくれますよ。

それでも房子には大きな出来事で、再びここを尋ねてみると、この家は既に廃墟となっていたと言う展開・・・・・、NHKでそれはないですね。だけどその妄想バージョンを続けて語るならば、その廃墟になってしまった家からでも、耳を澄ますと、しっかり戦前戦後を生きた人々のざわめきが聞こえてきたと言うラスト・・・と言う妄想ラストだったのですよ。

 

それはともかく、次の話題です。

お話中、現代の陽子が自分の事を
「こんな平凡な人生で」と言う言い回しの言葉を使うのですが、房子が
「とんでもない」と否定します。

でも私、陽子の人生は平凡なのだと思いました。

たとえ小学生の時に母を失い、その後家事をやり続ける小学生であっても、叉家業などを手伝う事はあっても職業婦人のほとんどいない時代に、学校の先生を目指しなったとしても、戦争に行く人の前日に嫁入りしても、夜に無料の私塾を開こうとも、火事に遭い心機一転で新しいお店を開こうとも、やはり彼女の人生は平和な平凡な人生だったと思うのです。しかし平凡と言うのは、なんら波乱万丈な生き方に劣るものではないのです。

人は平凡を目指してその平凡すら得られない、と私の高校の時の国語の先生が言った言葉を、私は今でも覚えています。平和に平凡に生きるという事は、なかなか難しい事なのです。

この物語は普通の人の平凡な人生を描いているのだと思います。だからこそ、本来なら大変なのではと言う部分が語られていません。

私が好きなシーン。
まだ小学生の陽子が、朝早くから起きてみんなのお弁当を作ります。皆それぞれちょっとずつ詰め方も量も違います。お昼になると家族がそれぞれの場所で、皆誇らしげにそのお弁当を美味しそうに食べるのです。
太陽のような陽子。
そんなシーンでした。
子供が毎日いなくなった母の変わりに家事をやります。
それってハンパのないくらい大変な事だったと思います。でも現代陽子は、その辺はパスです。

女学校時代、白紙同盟で皆着飾って松本に行くシーン。ここも好きです。
陽子は可愛い着物を着ています。
誰がその着物を用意したんだろうかと、私は思います。
たぶん作者も衣装さんも意識していない部分だと思います。でも陽子と言う人物に感情移入して見ていると、そんな可愛いお正月らしい着物を着ているシーンでも、陽子が健気に感じてしまうのです。ひとりで頑張っているんだなあと思ってしまうのです。家事もやって学校に行って、受験勉強をする。凄い事なのです。でもそのシーンも軽い。

そうして入った先生になる為の学校でのお話は、全面カット。

そう、この物語は、「ああ、大変だった。」「もう、大変だった。」と言う部分は、語り手の陽子によって意図的に語られていないのだと思いました。

大変だったお話も、皆乗り越えられたお話ばかりです。

だから後日談には、母のような姑の死も、優しかった義父の死も父の事も、帝王の事も語られていません。

それがこのドラマの優しさだったのかも知れません。

 

この物語、実は波乱万丈の人はたくさん出てきます。

華族に生まれたのに駆け落ちして、体が弱かったのに三人の子供を産んだお母さん。
小学生の時に奉公に出て、赤貧の中からお金を貯めて店を起こし、安曇野に凱旋してきたユキちゃん。
空襲で両親を失い、アメリカに行った妹とも別れ、ひとり小学校の時の恩師の家に引き取られ画家を目指した杏子ちゃん。
戦争で負傷し戻ってきていた恋人を広島で亡くし、その後の生涯を教育に捧げ、私学を創立させた夏子先生。
安曇野の帝王と呼ばれる男の娘として生まれ、才色兼備だった真知子は、戦争で婚約者も心から愛する人も失ってしまいます。その後は普通の結婚をし、父の家を出て、それでも自分の力だけで遣りたかった会社を作っていったのです。
育子は、東京大空襲に遭いそこで助けてくれた人と恋に落ち、そして失ってしまいます。出版社の仕事を経てテレビの仕事に付き、そしてかなり遅い結婚をしたと思います。その間に投獄経験あり、変わった恋人をもっています。

どの人の人生も、凄まじい人生だと思いませんか。誰が主人公になっても不思議ではないくらいです。

でもこのドラマの主人公は陽子。

ラストの亡くなった母と同じ年になったと言うナレーションと共に、空を見上げて終わるラストは本当に素敵でしたね。

「頑張っていますよ。」「生き続けますよ。」と言うメッセージのような気がしました。

 

このメッセージについてですが、私、ちょっと勘違いをしていました。
前に書いた、「『ピンチはチャンス!』、実はおひさまの感想です」の中で
>作者は震災後の元気のなくなってしまった私たちに、一所懸命にエールを送っている、そんなドラマだと思います。
>ドラマのシナリオは、一体いつまでに書き終わって撮影をしているのか良く分かりませんが、原作と違って、書き終わってスタートではないんだなと感じます。 特にこの「おひさま」は震災後に始まり、出来ていたベースにどれだけの手直しを入れていったのか、感じるものがありました。それゆえに励まされてきた方も 多いかと思います。

 

勘違いしていたのは「手直し」と言う部分です。最終回間近になると、いろいろな出演者の方が、様々なトーク番組に出ます。そこで俳優さんたちが言ったのには、ここに出てくるセリフが、余りにも今に合っていて不思議だったというもの。手直しはなく元々書かれていたのです。不思議な偶然だったのですね。

以前このブログでテーマにしていた事を、誰かふと思い出してくれた方もいらっしゃるかも知れないとは思いましたが、そこまで自己ピーアルすることもないので、まあスルーです。

「手直し」と言う点ですが、もうひとつ勘違い。でもこの勘違いは多くの人がしてるんじゃないかと思います。
房子の事です。
彼女は最初、騒々しくってガサツで、みんなが耳をふさぎたくなるくらい。だから人気がなかったのです。いらない、消えて、邪魔と言う言葉がツイッターのTLに並びました。
だけど途中から、信じられないくらい静かになりました。
そこで勘違いです。みんなの苦情が届いたのだと。

でもこれは演出だったのじゃないかと、最後の方でわかってきました。

特に最終週。出てきた房子はとっても綺麗でした。その房子の感想はツイッターに書いたので再掲させていただきます。

「もっと房子宅のドラマを見たかったけれど、家族が房子を安曇野に送ってきた事。ドタバタで見た目にもがさつな感じだったのに、落ち着いてそして綺麗になっ た事。それが房子の家のドラマの現れなんだと思う。平凡の中の嵐、それが房子の家にもあった事が伺われて良かったと思う 」

 

本当のラストは陽子のアップで清々しかったけれど、その一歩前、さながらサービスで現代の白紙同盟が出てきましたね。

「最初と最後にいなくなるのはイヤだ。」「じゃあ、ずっと生きていれば良いのね。」って、彼女たちは幽霊じゃなかったけれど妖怪にはなっていたなとしっかりと思ったのでした。オワリ。

 

・・・・・・、安曇野行きたいな。
車でビューン・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする