森の中の一本の木

想いを過去に飛ばしながら、今を見つめて明日を探しています。とりあえず今日はスマイル
  

そして私たちは、

2018-10-12 02:55:56 | 梢は歌う(日記)

10月10日水曜日、9月の終わりに勝手に考えていた10月の予定では、星子さんと二人で愛子さんの家に行くつもりだった日。

だけど愛子さんはもう居ない。

それで私たちは二人でちょっとお出掛けをしてきた。なんだかんだと言って、私は星子さんに会いたかったのだ、きっと。

 

行った先の植物園では、メタセコイヤの木が、まだまだ青々としていた。

私はしみじみとその木を見る。振り向くと星子さんが泣いている。

昨年の12月には、水元公園で美しいメタセコイヤの森ではしゃいでいたと言うのに、誰がその時今年の12月にはいないなんて思った?

 

お出掛けの帰りに、ちょっと予定時間オーバーだったので、手抜きで

「焼き鳥を買ってちゃおうかな。」と私が言うと、星子さんがまた涙ぐむ。

ここで泣くのかと思ったけれど、何でとは思わない。彼女の涙で一瞬に、「あの時」と言う時間が蘇えるからだ。

同じような事があった。

ワイワイと

「私は焼き鳥。」「私はてんぷらにしちゃおう。」

買ったら、そこに集合ね・・・・・。

 

延々と続くように思っていた楽しかった時間は、そっと終わっていく。そんな事を、人生の下り道を歩いている者は、心のどこかに留めておくべきなのかも知れない。

だからこそ、今この時を大切にしようと深く思うべきなのだ。

「いろいろと学ばなければならないね。」と姉が言った。

「それがお友達が残してくれたものだから。」と。

 

そしてまた私は忘れない。ほんの少しだけ他の人よりあった出来事を忘れないと言う能力に長けている。

それは老いたり病気になったりしたら分からない事で、この先もという確約はない事だけれど。

もちろんすべてを覚えているわけではなく、切り取った一瞬を忘れないのだと思う。

 

愛子さんの葬儀は家族葬で、そこに私たち二人は参加させていただいた。

しっとりとした良いお葬儀だったと思う。

出棺の時の物悲しいクラクションの音が鳴ると、普通のマナーでは合掌して礼をし見送るのだと思うのだが、それが私たち二人だけなのだから、自分らしくしたいと思うのは責められることではないと思う。

お車が出ていく時、私たちは大きく手を振って

「バイバイ、またね~ !!!」と言った。

そして

「30年後にまた会おうね~!」と言うと、

星子さんが

「えっ、30年後なの ? 」と言ったので、

「じゃあ、35年後に訂正。またね~、バイバイ~」

と、車が見えなくなるまで手を振り続けたのだった。

 

考えてみると、35年後もそうだが30年後にしたって相当長生きになるわけで、星子さんは「そんなに長いの」と言う意味で言ったのだろうかと後から思ったりもしたものだ。だけどそんな事はどうだっていい事なんだ。誰もがその未来の約束だけは、不確かなものなのだから。

 

コメント (2)
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