何気ない風景とひとり言

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喜多院-(2) (川越)

2019年12月21日 | 寺社巡り-埼玉

【埼玉・川越市】江戸初期の慶長四年(1599)、徳川家康の信任を受けていた天海僧正(慈眼大師)が第27世の法統を継ぎ、仏蔵院北院を喜多院に改称した。 幕府から厚い庇護を受け、川越藩主となった老中・酒井備後守忠利が喜多院の再興に当たった。 慶長十六年(1611)に川越を訪れた家康公に接見、また、慶長十八年(1613)には二代将軍秀忠の関東天台法度により関東天台総本山に定められ、寺領四万八千坪と五百石を賜って寺勢をふるった。
嘉永十五年(1638)の川越大火で、現存の山門と経蔵以外の堂宇が焼失した。

江戸初期に創建された多宝塔が、陽射しを燦燦と浴びて建っている。 バランスのとれた多宝塔は安定感があり、趣がある。 丹塗の木材と白壁が鮮やかな多宝塔はひと際目を引き、シンボル的な存在だ。 多宝塔はもともと、山門と少し離れた門前の日枝神社との間の古墳の上に建てられていたようで、三度目の移築で現在地に。
本堂前の直ぐ右手に大黒堂が建ち、三つ葉葵の紋を配し金色の装飾が施された厨子に、小さな大黒尊天が鎮座している。
本堂後方の「松平大和守家廟所」に向かうと、廟所前の門柱脇に石碑を失った亀跌がある。 廟所には川越で没した5人の川越城主が眠る。 石積の塀でL形に囲まれた廟所の真ん中に白壁の袖塀を設けた墓所門が建ち、多くの石燈籠が立ち並んだ北側の石造りの瑞垣と石扉に五三桐紋を入れた4つの石門で囲まれた墓所に4基の五輪塔、南側の墓所にも1基の五輪塔が佇んでいる。
「松平大和守家廟所」から慈眼大師天海像を安置している慈眼堂に。 慈眼堂は一段高いところに建っているが、そこは七世紀初頭の古墳の上だそうだ。 石の階を上ると、約370年前の江戸初期建立の古色蒼然とした慈眼堂が現れる....が、桟唐戸と連子窓の色合いが建物と異なっていて違和感があり、少し残念だ。 慈眼堂後方に歴代住持の墓所があり、中央に「南无慈眼大師」と刻まれた大きな石碑が立つ。 その左奥に、約670年前の南北朝時代に造立された2基の古い石板碑がある。 「暦応の古碑」と称される板石塔婆と「延文の板碑」と称される川越市最大の結衆板碑で、弥陀の種子キりークと、前者には歴代住持名、後者には60人の衆生名が刻まれている。

本堂前の境内に建つ照屋根の手水舎....右手後方には多宝塔
 
切妻造銅板葺の手水舎....手水鉢は昭和五十年(1975)の造立/剣に2頭の龍が巻き付いた水口....不動明王の剣に巻き付いた降魔の俱梨伽羅龍かな?

本瓦葺の多宝塔....寛永十六年(1639)の建立で、もとは白山神社と日枝神社の間にあったが、明治四十五年(1912)、道路新設の為、慈恵堂脇に移築され、その後解体復元が行われて昭和五十年(1975)に現在地に完成
 
中央間に連子子格狭間を入れた桟唐戸、両脇間は連子窓....下層に擬宝珠高欄付切目縁を巡らす....総高13メートルで、江戸初期の多宝塔の特徴を持つ

上層の軒廻りは二軒繁垂木で、組物は四手目が尾垂木の四手先....漆喰塗りの亀腹の上に平三斗で支えられた回高欄

下層の軒廻りは二軒繁垂木、組物は二手先で中備は中央に蟇股で両側に蓑束、軒支輪を設けている

案内板に「多宝塔は慶長年間の木割本「匠明」の著者が建てた貴重な遺構で名塔に属す」とある

多宝塔に鎮座する法界定印を結ぶ釈迦如来像と合掌する多宝如来像

切妻造銅板葺で庇を付けた平入の大黒堂
 
妻飾りに三つ葉葵の紋を入れ、破風を設けた屋根付き厨子に鎮座する小さな大黒尊天像
 
境内の隅に円光を背負って鎮座する「苦ぬき地蔵尊」立像

本堂後方に、石を積み上げた塀に囲まれた「松平大和守家廟所」がある....門柱脇に石碑が無い亀跌
 
切妻造本瓦葺の墓所門....石塀に連なった白壁の築地塀の袖塀/墓所門の扉は連子風窓を設け飾金具を施した桟唐戸

瑞垣と石扉に五三桐紋を入れた4つの石門に囲まれた北側の墓所....4基の五輪塔の墓標が佇む

松平大和守家は家康公の次男結城秀康の五男直基を藩祖とする後家門で、川越城主として明和四年(1767)から七代百年にわたって17万石を領し、川越で没した5人の殿様を埋葬している

南側の瑞垣の中に佇む1基の五輪塔の墓標

七世紀初頭の古墳の上に建つ慈眼堂....厨子に慈眼大師天海の木像を安置

露盤宝珠を乗せた宝形造本瓦葺の慈眼堂(重文)....正保二年(1645)の建立

三間四方で、側面三間は前二間が蔀戸、後方一間は飾金具を施した桟唐戸....慈眼堂の後方は背面一間通庇付....後方に喜多院歴代住持墓所がある

正面の中央間は飾金具を施した桟唐戸、両脇間に連子窓

軒廻りは二軒繁垂木、組物は台輪の上に出三斗で中備は実肘木を乗せた蟇股

慈眼堂後方にある歴代住持の墓所....中央に「南无慈眼大師」と刻まれた駒形石碑、左奥にが2基の石板碑が立つ....小さな1基は石仏の左斜め後方の玉垣の傍
 
左奥の小さな板碑は「暦応の古碑」と称される板石塔婆....南北朝時代の暦応年間(1338~1342)の造立で、上部に弥陀の種子キりーク、その下に歴代住持名が刻まれている/「延文の板碑」と称される川越市最大の板碑(石仏の右隣)....南北朝時代延文三年(1358)の造立で、高さ276cm....上部に種子キリーク、下に60名が刻まれた結衆板碑

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