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何気ない風景とひとり言

寺社&石仏巡り、小さな旅、散策...ふと目に留まった何気ない風景...切り取って大切な想い出に!

粉河寺-(5) (紀の川)

2019年10月17日 | 寺社巡り-和歌山

【和歌山・紀の川市】鐘楼の右奥に正面がすべて蔀戸の薬師堂が建ち、平安後期造立とされる薬師如来坐像を安置。 薬師堂の境内には、紀州藩ゆかりの夫人らの法華塔が三基佇み、その傍らに、約450年前造立の地蔵石仏が法華塔を見守るように鎮座している。
本堂に向かって左手に千手堂が建ち、本尊の千手観世音菩薩の他、歴代の紀州藩主とその縁の人々の位牌を祀っている。 本堂と千手堂の間の奥の急峻な階の上に朱塗りの大きな明神鳥居を構えた鎮守社の粉河産土神社が鎮座、階下の左手に行者堂への参道がある。
植栽の間に続く参道を上っていくと、山腹の樹林の中の石段の上に小棟造りの行者堂が見えてくる。 石段を上りつめると、左右に元禄造立の石燈籠がひっそりと佇むが、笠がかなり傷んでいるので少々気になった。
行者堂から中門まで一気に戻り、境内の脇を流れる長屋川に架かる橋を渡って、本堂の南側に位置する秋葉山に向かう。 秋葉山は本堂の南側にあるので「前山」と呼ばれ、山頂に戦国時代末期に粉河寺の僧兵が築いた山城の跡があり、近くに、江戸期に遠江国から勧請した火伏の神・秋葉大権現を祀る社殿が建っている。 社殿の直ぐ傍に見晴らし台があり、粉河町を遠望できる。

鐘楼の右奥に建つ小棟造りの薬師堂

寄棟造本瓦葺の薬師堂....平安後期造立とされる本尊薬師如来坐像(秘仏)を安置

薬師堂は三面四方で、正面はいずれも蔀戸だが、中央は吊り上げ式ではないようだ

軒廻りは二軒繁垂木、組物は平三斗で中備は脚間に彫刻を配した本蟇股

薬師堂の側面は蔀戸、舞良戸そして羽目板....正面と側面に切目縁を巡らす

薬師堂境内に佇む地蔵石仏と三基の法華塔
 
上部の月輪に地蔵菩薩の種子(カ)が刻まれた舟光背型地蔵石仏....永禄七年(1564)の造立で、高さ210cm/紀州藩ゆかりの夫人らの法華塔....中央は水戸少将治紀卿正室方姫、右は紀州八代藩主重倫卿側室於八百、左は重倫卿付老女初島の各宝塔

本堂の左側に建つ千手堂.....中央奥の階の上は鎮守社の粉河産土神社

露盤宝珠を乗せた宝形造本瓦葺の千手堂(国重文)....宝暦十年(1760)の建立で、本尊千手観世音菩薩の他歴代の紀州藩主とその縁者の位牌を安置

千手堂は三間四方、中央間は桟唐戸で内側に腰高格子戸、脇間は舞良戸風の蔀戸
 
井桁紋を配した連子を入れた桟唐戸は両折両開....向拝の手挟は精緻な菊の彫刻/上部に粽を設けた向拝柱の上に実肘木を乗せた蓮三ツ斗、水引虹梁の中央上に龍(?)の彫刻を配した本蟇股

軒廻りは二軒繁垂木、組物は出組で中備は本蟇股

千手堂の後方から眺めた本堂
 
本堂の北西の樹林の中に鎮座する小棟造りの行者堂/木々に囲まれた中に建つ行者堂....堂前の左右の石燈籠は元禄十二年(1699)の造立

寄棟造本瓦葺の行者堂

正面三間は腰高格子戸。前面のみに切目縁を設けている
 
中央間の右にずらして掲げられた「神變大菩薩」の扁額/軒廻りは一軒疎垂木、組物は舟肘木で中備なし

側面は二間で羽目板で窓なし
 
本堂の南側にあり前山と呼ばれる秋葉山の山頂にある猿岡城址....山城は戦国末期の天正元年(1573)、寺防衛のため粉河寺僧兵達により築城....天正十三年(1585)粉河寺一山ことごとく焼亡/明和元年(1764)、遠江国から火伏の神秋葉大権現を勧請して祀ったので以後秋葉山と呼ばれた

入母屋造桟瓦葺の秋葉大権現社....明和元年(1764)、火伏の神秋葉三尺大権現を勧請し、粉河寺本堂南側の秋葉山に創建、粉河寺に帰属している

秋葉大権現社の拝殿....拝殿の腰高格子戸の奥に本殿を鎮座する覆屋
 
覆屋の腰高格子戸を通して本殿のお社が薄っすら見える/社殿傍に立つ「正一位 枇杷竹大明神」の碑

社殿は入母屋造桟瓦葺の本殿(白壁の築地塀内の覆屋)と拝殿とをT字に組み合わせたような構造

秋葉大権現社傍の見晴らし台から遠望した粉河町
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粉河寺-(4) (紀の川)

2019年10月13日 | 寺社巡り-和歌山

【和歌山・紀の川市】丈六堂前の参道から、十数段の階の上に陽を浴びて建つ本堂を眺める。 階の両側は巨石がゴロゴロした石庭になっているが、安土桃山時代、傾斜地に土留の石垣を兼ねて造営された枯山水の庭園で、国指定の名勝になっている。
階の上の境内に建つ本堂は豪壮にして優美な造りの建物で、西国三十三所観音霊場の寺院の中で最大級の仏堂とされる。 本堂は入母屋造り重層の正堂と入母屋造り単層の礼堂で構成されている。 正面からは入母屋造りの身舎に大きな裳腰を設けたように見えるが、横から見ると2つの入母屋造り屋根を前後に少しずらして重ねた複雑な造りになっているのが分かる。 手前の奥行き四間の礼堂は、前の二間が吹き放しで、両折両開の桟唐戸と格子戸で仕切られた先の二間が正堂に組み込まれている。 つまり、奥行き六間の正堂は、前方の二間が礼堂の後方の二間と重なった構造だ。 重なった二間の建具は蔀戸....後方の四間は、連子窓、腰高格子戸そして二間の連子窓になっている。
本堂前の直ぐ右手に、身舎の半分が吹き放しの六角堂が建ち、格子戸の奥に西国三十三ヶ所の本尊・観音菩薩像を安置している。
本堂の右手に進むと、巨大な幹のクスノキの老木が聳え、基壇上に鐘楼が建つ。 クスノキは第49代光仁天皇在位中の宝亀元年(770))頃にはすでに存在していたようで、樹齢1250年以上で驚きだ。 鐘楼は二間四方だが横長の造りで珍しく、鐘楼の大きさに対して少し小さめの梵鐘が下がっている。

丈六堂前の参道から眺めた庭園の間の十数段の階を上がった上に建つ本堂

昭和十一年(1936)造立の銅製八角燈籠越しに眺めた本堂....奥の石灯籠は天明二年(1782)の造立

本堂境内と丈六堂境内の間に桃山時代に造営された枯山水の石庭

約3メートルの傾斜地に土留め石垣を兼ねて造営された植栽と石組を組み合わせた庭園

石組は枯れ滝、石橋、鶴亀の島などを表現した構成になっている

入母屋造本瓦葺で本堂(国重文)....享保五年(1720)の再建で、本尊千手観音を安置

本堂は礼堂と正堂を前後に結合させた構造の仏堂....手前の一重屋根が礼堂で、後方の軒唐破風を設けた二重屋根が正堂

前方の千鳥破風が乗る礼堂は正面九間、側面四間で、側面の前二間は吹き放しになっている

向拝は三間で、中央の屋根のみに唐破風....兎毛通は猪目懸魚、水引虹梁に龍の彫刻を施した蟇股を配す

向拝の方柱の上下と身舎の円柱の上部に粽がある....吹き放しに燃燈供養の装飾具である銅製の釣燈籠が下がる
 
吹き放しに鎮座する十六羅漢第一尊者の賓頭盧尊者像/正堂と礼堂を仕切っている連子入の両折両開桟唐戸、内側に腰高格子戸....上部の丸い額状のものは千十観世音菩薩と龍が彫られた懸仏か?

正堂の軒廻りは二軒扇垂木、組物は二手目と三手目が尾垂木の三手先で、組物間に詰組...三手目の尾垂木の先端は2本の髭がある龍頭の彫刻になっている

奥行き四面の礼堂の後方二間は正堂に組み込まれている....礼堂の拝は猪目懸魚で、妻飾は笈形付き虹梁大瓶束

正堂の拝は三つ花懸魚で、妻飾は虹梁蟇股

礼堂の軒廻りは二軒繁垂木、組物は実肘木を乗せた出組で中備は蟇股、軒支輪を設けている

奥行き六間の正堂と重なる礼堂の後方二間は蔀戸、正堂後方四間は腰高格子戸と三間の連子窓....周囲に擬宝珠高欄付き切目縁を巡らす

重層入母屋の正堂と単層入母屋の礼堂を複雑の組み合わせた豪壮にして優美な造りの建築

本堂向拝から眺めた六角堂

露盤宝珠を乗せた六注造本瓦葺の六角堂....享保五年(1720)の建立で、西国三十三ヶ所の本尊観音菩薩像を安置

軒廻りは二軒繁垂木、隅の組物の間の台輪上に実肘木を乗せた蟇股
 
半分が吹き放しの六角堂....堂前に立つ石燈篭は天明二年(1782)の造立/正面中央に腰高格子戸、脇間と側面に格子窓、後方は横羽目板

本堂の右側の境内に建つ鐘楼と奥に薬師堂....巨大なクスノキの老木は第49代光仁天皇(宝亀元年(770))頃には既に存在していたとされるので樹齢は1250年以上か

切妻造本瓦葺の鐘楼
 
鐘楼では珍しい二間四方で横長、軒下は簡素な造り/鐘楼の大きさに対して少し小さめの梵鐘

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粉河寺-(3) (紀の川)

2019年10月09日 | 寺社巡り-和歌山

【和歌山・紀の川市】中門前の参道の左に、軒が吹寄垂木の重厚な手水舎が建ち、大棟と降棟の端の鬼板に不思議な形をした角状の瓦が乗っている。 銅製の手水鉢は蓮葉をかたどった盥漱盤で、水口の花托から清水が注がれている。 手水舎の右隣に鎮座する、赤い帽子を被り、色褪せた前掛けをした身代わり地蔵尊像に合掌して中門に。
風格を漂わせる中門は三間一戸の楼門で、上層と腰組の複雑な組物や中備の本蟇股には胡粉が施されている。 門の正面と後方の脇間の金剛柵の中に四天王像が鎮座....正面には北方を守る多聞天と西方を守る広目天が忿怒武装の像容で参詣者を迎えている。
戸口を通して境内を眺めると、正面奥に、木部が丹塗りで白壁の二階建て丈六堂と右隣に地蔵堂が見える。 丈六堂に向かうと、左手の傾斜地に整然と巨石が配された枯山水の庭園と十数段の階の上に豪壮な構えの本堂が建つ。
植栽の中に佇む松尾芭蕉の句碑の後方に、中央間が開放された丈六堂と地蔵堂が建つ。 丈六堂の上層の中央間に連子窓、左右二軒の脇間に格狭間風の窓と花頭窓を設け、下層の裳腰の左右二軒の脇間には連子窓と変形の花頭窓が配されている。 開放された中央間から、丈六堂の中央に鎮座している舟形光背を背負っている丈六の阿弥陀如来坐像が拝観できる。 弥陀定印を結ぶ阿弥陀如来像は、お顔などに傷みがみられるが、黒目勝ちの優しい目で参拝者を見守っている....合掌。 丈六堂右手の少し奥まった所に、卍を入れた白旗が下がる地蔵堂が建ち、堂内に水向地蔵尊坐像が静かに鎮座している。

門前の参道から眺めた手水舎と階の上に建つ中門....左奥は本堂の屋根

切妻造本瓦葺の重厚な手水舎....右手に身代わり地蔵尊像が鎮座
 
銅製で蓮葉をかたどった手水鉢の盥漱盤(荷葉鉢)....安永四年(1775)の造高で、総高240cm、幅185cm/錫杖と宝珠を持つ身代わり地蔵尊立像

一軒吹寄垂木、大棟と降棟の端に不思議な形と文様の鬼板、拝に蕪懸魚、組物や頭貫の木鼻に胡粉を施している

入母屋造本瓦葺の中門(国重文)....天保三年(1832)建立の三間一戸の楼門で組物に胡粉を施している

鬼瓦を乗せた軒唐破風、兎毛通は蕪懸魚....門前の石燈籠は文化五年(1808)の造立

軒廻りは二軒繁垂木、上層の組物は三手先で中備は刳抜蟇股、組高欄付き縁を巡らす....手前の石燈籠は元文三年(1738)の造立

廻縁を支える腰組は二手先で、中備は脚間に彫刻を配した本蟇股....扁額「風猛山」は紀州十代藩主徳川治宝の筆

中門前後の脇間の金剛柵の中に須弥の四洲を守護する憤怒武装形の像容の四天王像が鎮座....正面は左に多聞天、右に広目天
 
宝塔(左手)と宝棒を持って北方を守る多聞天(毘沙門天)像/左手に巻物を持って西を守る広目天像
 
東を守る持国天像(持物不明)              左手に剣を持つ南方を守る増長天像

中門の戸口を通して眺めた丈六堂境内....正面奥の二重の建物は丈六堂
 
中門の傍に佇む若山牧水の歌碑/中門から眺めた境内....左奥に国指定名勝の粉河寺庭園

境内右奥の石段の上に本堂、石段の下に丈六堂が建つ

丈六堂と右奥に地蔵堂.....堂前に松尾芭蕉の句碑、右手に「奉祈願國家安泰心経千巻供養塔」が佇む

寄棟造本瓦葺で裳腰を設けた丈六堂....文化三年(1806)の再建で、丈六の阿弥陀如来坐像を安置

上層の軒廻りは一軒疎垂木で組物た中備なし....中央間に連子窓、脇間二間に格狭間風の窓と変形の花頭窓

本瓦葺の裳腰は一軒疎垂木、組物は舟肘木....中央間は開放で脇間二間に連子窓と花頭窓

舟形光背を背にして上品上生の弥陀定印を結ぶ丈六の阿弥陀如来坐像
 
入母屋造桟瓦葺で妻入の地蔵堂....正面に卍を入れた白旗が下がる/鎮座する錫杖と宝珠を持つ水向地蔵尊坐像

丈六堂の左脇に鎮座する2基の宝篋印塔....塔身に阿弥陀如来の種子キリークの刻....奥の墓所(?)に火輪の軒口が厚く、力強い反りの五輪塔が立つ
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粉河寺-(2) (紀の川)

2019年10月05日 | 寺社巡り-和歌山

【和歌山・紀の川市】安土桃山時代の天正十三年(1585)、豊臣秀吉の紀州征伐に遭遇し、偉容を誇った堂塔伽藍と多くの寺宝を焼失し、猿岡山城も陥落した。 江戸時代に入って紀州徳川家の庇護と信徒の寄進を受けて再建を始めたが、正徳三年(1713)の火災によって多くを焼失。 現存する諸堂は、江戸時代中期から後期に完成した。

童男堂の右隣に正面に白壁の築地塀を設けた「出現池」があり、築地塀の前に建つ覆屋には、仏足石と種子で六字名号が刻まれた六字名号塔が鎮座している。
「出現池」は、千手観世音菩薩の化身とされる童男大士が柳の枝を手に白馬に乗って出現した池と伝わり、池の奥の岩の上の覆屋に童男大士石像が、また、築地塀近くに建つ珍しい三角堂に千手観世音菩薩がそれぞれ鎮座している。 童男大士石像は築地塀に設けられ門の腰高格子戸を通して、また、千手観世音菩薩は築地塀に設けられた格子の透かし窓を通して参拝できる。
「出現池」の右隣に念仏堂があり、念仏堂から池の上に設けられた廻廊で童男堂と繋がっている。 阿弥陀如来を祀る念仏堂は、2つの入母屋屋根をクロスさせた造りで、古色蒼然たる佇まいを感じさせる趣のある御堂だ。 直ぐ右手の露座仏は、上品下生の来迎印を結ぶ阿弥陀如来像....合掌。
露座仏の右側に廃墟のような建物があり、その直ぐ右隣に小棟造りで聖徳太子を祀る太子堂が建つ。 太子堂と中門との間の広い境内に五輪塔や石仏など様々な形の無縁墓碑をピラミッドのように積み上げた無縁塔があ。 その先には、谷積風に石を積み上げた護岸の方形の放生池(と思う)があり、一段高い所に建つ御経所や本堂の大きな屋根が水面に映っている。

「出現池」を囲む築地塀の前に建つ宝造桟瓦葺の覆屋に仏足石を安置
 
釈迦の足跡を刻んだ仏足石....足のほぼ中央に足下二輪相/後方の石碑は江戸時代の傑僧願海上人の筆で、左は種子の六字名号、右は釈迦を表す種子の下に「釈迦牟尼佛足跡」の刻

白壁の築地塀で囲まれた「出現池」....本尊千手観音の化身童男大士(童男行者)が柳の枝を手に白馬に乗ってこの池から出現したと伝わる

「出現池」の宝形屋根の覆屋に鎮座する童男大士石像

千手観音菩薩像が鎮座する平面が三角の珍しい三角堂....奥は童男大士石像が鎮座する覆屋

三角堂越しに眺めた「出現池」と奥は念仏堂
  
三角堂に鎮座する千手観音菩薩像/「出現池」の縁にある「馬蹄石」/「出現池」右手の念仏堂は瓦葺の回廊で童男堂の正堂と繋がっている

「出現池」の隣に建つ念仏堂

入母屋造本瓦葺の念仏堂(光明殿)....江戸時代後期築の総欅造りで、阿弥陀如来像を安置
 
獅子口を乗せた入母屋破風と向拝の唐破風が重なる、拝はいずれも猪目縣魚/軒廻りは二軒繁垂木、組物は平三斗で中備は中央間のみに本蟇股

クロスした入母屋破風の妻飾は虹梁蟇股のようだ

入母屋屋根をクロスさせた趣のある造り、正面五間で中央間と脇間一間が腰高明障子、両端の板壁の脇間に花頭窓、周囲に切目縁の巡らす

念仏堂の右隣に露座する来迎印(上品下生)を結ぶ阿弥陀如来坐像....文久二年(1862)の造立で、紀州八代藩主徳川重倫らの寄進、鋳銅仏像で像高は144cm

露座仏と太子堂の間にある廃屋....古民家のようだが元寺関係者の住居だった?

寄棟造本瓦葺の太子堂....建立年不詳、聖徳太子像を祀る
 
三間四方で正面は全面腰高格子戸、長押の上は全て白壁の小壁....向拝に鰐口が下がる/軒廻りは一軒繁垂木で、組物は束の長い舟肘木

正面と右側面に切目縁を巡らす

太子堂前の参道から眺めた境内....築地塀に囲まれた横長の屋根は御経所、右奥は本堂の屋根

これは何かな?
 
五輪塔や石仏など様々な形の無縁墓碑を積み上げた無縁塔/頂部に鎮座する舟光背型地蔵石仏....三界萬霊の刻された円光を背負う

白壁の築地塀で囲まれた入母屋造桟瓦葺の御経所....屋根に千鳥破風を乗せている

袖塀にくぐり戸を設けた切妻造本瓦葺の門....門前の石灯籠は天明二年(1782)造立
 
谷積風に石を積み上げた護岸に囲まれた池(放生池か)....築地塀の中は御経所/奥は本堂の屋根
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粉河寺-(1) (紀の川)

2019年10月01日 | 寺社巡り-和歌山

【和歌山・紀の川市】奈良時代後期の宝亀元年(770)、紀伊国那賀郡に住む 猟師・大伴孔子古を開基として創建されたと伝わる。 同年、寺の鎮守として粉河産土神社が境内に創建された。
平安時代には朝廷や貴族の庇護を得て興隆し、平安時代後期にはその頃から始まった西国三十三所観音霊場の札所の1つとして栄えた。 最盛期の鎌倉時代には七堂伽藍、塔頭五百五十ヶ坊、東西南北各々四キロ余の広大な境内地と寺領四万余石を有し、また、大勢の僧兵を擁する大寺院となり、高野山、根来寺に次ぐ勢力を誇った。 室町時代末期の天正元年(1573)、境内南側の猿岡山に猿岡山城を築城して寺の防衛を図った。 宗旨は天台宗系の粉河観音宗(総本山)で、本尊は千手千眼観世音菩薩像。 西国三十三所観音霊場第三番札所。

JR粉河駅から北に延びる門前町の「粉河とんまか通り」を15分ほど進んで抜けると、門前の中津川に架かる丹塗りの大門橋に着く。 大門橋は擬宝珠欄干付の反橋で、その先の建物の間に、参道を塞ぐかのように丹塗の大門がで~んと構えている。 大門は三間一戸の楼門で、脇間の金剛柵の中に金剛力士像が鎮座し、忿怒の形相で仏敵の侵入を防いでいる。
大門前の左手に小棟造りの善光寺と地蔵堂が建ち、善光寺に対面して蛯子神社がある。 善光寺は境内に鎮座し、「粉河寺案内図」にも記されているので塔頭かな。
大門をくぐり切石敷の参道を少し進むと、左手に法輪を入れた白幕が張られた不動堂が建つ。 境内西端に建つ不動堂に祀られている不動尊像は、弘法大師空海が爪刻したものとされる。 不動堂から、境内の脇を流れる長屋川に沿って東に延びる参道を進むと、まず小さな地蔵堂と白壁の羅漢堂が並んで東面で建つ。 羅漢堂の正面の欄間部に、金網で保護された古そうな刳抜蟇股と透かし彫り彫刻が配されているが、傷みが激しい彫刻は頭部が欠損した2体を含めた10体の像で、十王像と思われる。
少し進むと、築地塀で囲まれて2つの門を構えた本坊、その右隣りに白壁の童男堂が南面で建ち並んでいる。 童男堂は正堂と礼堂が相の間を介して繋がった構造で、正面の礼堂は木部が丹塗りで脇間の白い板壁に少し変形の花頭窓を設けている。

門前を流れる中津川に架かる擬宝珠欄干付反橋の大門橋

入母屋造本瓦葺の大門(国重文)....宝永四年(1707)の再建(鬼瓦刻銘から)、門前に「西國第三番粉河寺」の寺号標石と正徳五年(1715)造立の石燈籠(大門側)が佇む

大門は三間一戸の総欅造りの楼門で、両脇間の金剛柵の中に金剛力士像が鎮座
 
軒廻りは二軒繁垂木、組物は変形の三手先(と思う)で中備は刳抜蟇股、軒支輪と軒天井とが設けられている
 
両脇間に鎮座する、筋骨隆々で忿怒の形相の阿形・吽形の金剛力士像

上層(上重)は中央間に板唐戸で脇間は連子窓、周囲に組高欄付き切目縁....腰組は変形の三手先(と思う)で組物間に蓑束と刳抜蟇股

大門に向かって左手に鎮座する善光寺と地蔵堂(右)....善光寺本堂は寄棟造(小棟造)で本瓦葺
 
入母屋造桟瓦葺の地蔵堂/地蔵堂に鎮座する錫杖と宝珠を持っ舟光背型地蔵石仏
 
善光寺と対面するように鎮座する蛯子神社....「蛯子社」の額が掲げられた明神鳥居の先に入母屋造銅板葺の拝殿が建ち、中央間の奥に本殿がある/ 一段高い位置に神門があり、中の覆屋に本殿が鎮座

露盤宝珠を乗せた宝形造本瓦葺の不動堂....弘法大師爪刻の不動尊を安置している....手前の石燈籠は天明二年(1782)の造立

不動堂は中央間に腰高格子戸、周囲に擬宝珠高欄付き切目縁を巡らす
 
正面に法輪を入れた白幕が張られた不動堂....軒廻りは一軒疎垂木、組物は束の長い大斗肘木、中央間のみに中備で蟇股

不動堂近くから眺めた境内....木造部が朱塗り仏堂は童男堂、右奥は本堂の屋根....境内の脇を流れる中津川の支流(長屋川?)に沿って切石敷の参道が中門に延びている

不動堂の近くに建つ小棟造りの羅漢堂(右)と地蔵堂

寄棟造本瓦葺の白壁の羅漢堂....左手に切妻造本瓦葺の地蔵堂
 
羅漢堂正面の欄間にある刳抜蟇股と透かし彫りの彫刻(10体の像で十王像のようにみえる)/地蔵堂に安置されている子育地蔵像は享保十九年(1734)の造立

不動堂から東に延びる参道から眺めた本坊(左)と童男堂

定規筋(筋5本)の入った袖塀を有す本坊の切妻造本瓦葺の四脚門....左に連なる築地塀に通用門が設けられている
 
入母屋造本瓦葺の本坊(御池坊)....獅子口を乗せた唐破風の玄関に装飾性の高い兎毛通、頭貫と飛貫の間に変形の彫刻蟇股を配す

入母屋造本瓦葺で千鳥破風を設けた童男堂....延宝七年(1679)の建立....右手前の石燈籠は天明二年(1782)の造立
 
飾手水鉢越しに眺めた正面五間の童男堂....千手観音の化身でる童男大士(童男行者)を祀る/中央間は一間奥に引っ込んだ造りで三方は腰高明り障子...脇間は腰高明障子と花頭窓

軒廻りは一軒繁垂木で組物は刳形舟肘木、中央間の梁に大きな蟇股....中央間で切られた擬宝珠高欄付き切目縁を巡らす
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紀三井寺-(3) (和歌山)

2019年05月18日 | 寺社巡り-和歌山

【和歌山・和歌山市】紀三井寺はもとは真言宗山階派に属していたが、昭和二十三年(1948)に独立して救世観音宗総本山を名乗り、山内に子院6ヶ寺および末寺14ヶ寺を包括する。
紀三井寺の正式な寺号は「紀三井山金剛宝寺護国院」だが、山内に湧き出る3つの霊泉から「紀三井寺」という名前で親しまれてきた。

正面に大きな千鳥破風を設け、「救世殿」の扁額を掲げた本堂に....。 唐破風の向拝は、4本の角柱の向拝柱を配した三間で、水引虹梁が3分割され、真ん中が高く両側の丸桁の位置にある。 正面に一間の擬宝珠高欄付き切目縁があり、母屋は二間の吹き放しの外陣と内陣が格子で仕切られている。 格子の上には西国巡礼寺院らしく多くの奉納額がずらりと掛けられ、真ん中の上の欄間に懸仏が懸けられていて興味深い。 組物は彫刻が施された尾垂木の三手先で、組物間が詰組になっているなど細部に禅宗様が用いられている。
本堂前右手の石段を上ると、直ぐ右に朱塗りの多宝塔、左には一間の外陣が吹き放しになった開山堂が建つ。 開山堂の向拝の龍の彫刻に目を見張らされた。 龍頭と上半身の木鼻、そして水引虹梁に下半身の彫刻が施され、まるで龍が向拝柱を突き抜けている姿になっていて珍しいと思う。
開山堂の向拝から優美端厳な朱塗りの多宝塔をしばし眺める。 多宝塔は室町時代の再建で、山内に現存する最古の建物とされるが、修復や整備がキチンと行われているようであまり古さを感じさせない。 本堂側である南面が正面だが、両側面(多分後方も)が和様の盲連子の窓であるのに、正面は黒い縁取りの禅宗様の花頭窓になっていて面白い。 また、初層には親柱に逆蓮頭を乗せた禅宗様高欄付きの廻縁を設けている。
多宝塔から開山堂境内の東側に進むと、覆屋に紀三井寺の鎮守である三社権現が鎮座する。 しかし、正面に工事用テントががっちりと張れていて拝観できない状況だ。 罰が当たりそうだが、テントの隙間から少し強引にカメラを突っ込んでなんとか撮影....写真を見ると、春日造りとみられる檜皮葺の三社が並んでいるが、痛みがみられるので老朽化が進んでいるようだ。

入母屋造本瓦葺の本堂(観音堂とも称す)...宝暦九年(1759)建立の総欅造り....厨子内に安置の本尊十一面観世音菩薩像」は為光上人が彫ったものとされる

正面側面とも五間で、正面三間は唐破風の向拝

水引虹梁は3分割され、各虹梁の上に動物(中央は鳳凰か)の彫刻を施した本蟇股、両側虹梁には一角獣らしき木鼻が付く...兎毛通しは猪目懸魚
 
軒廻りは二軒繁垂木、組物は二手目と三手目が尾垂木の三手先、組物間に詰組があり細部に禅宗様が用いている/組物から出ている尾垂木の先に彫刻が施されていて、二手目は波で三手目は龍頭だ

二間の外陣は吹き放しで、中央間口の上に「救世殿」の扁額
  
正面に擬宝珠高欄付き切目縁、向拝柱は角柱だが外陣は6本の丸柱/外陣と内陣の結界は格子で仕切られ、格子の上に奉納額がならび、真ん中の欄間に懸仏が懸けられている/本堂前縁に鎮座する十六羅漢の第一尊者の賓頭盧尊者....「お身代わりなで仏」といわれる

多宝塔が建つ高台から眺めた本堂....屋根に乗る大きな千鳥破風の棟に三つ盛り井桁の紋を入れた鬼板、拝に猪目懸魚、妻飾は虹梁蟇股

本堂の妻は正面の千鳥破風と同じように大棟に三つ盛り井桁の紋を入れ鳥衾を乗せた鬼板、拝に三つ花懸魚、妻飾は鳥の彫刻を施した虹梁蟇股
 
本堂に向かって右手の石段を上ると平地で、直ぐ右手に多宝塔、左手に開山堂が建つ

露盤宝珠を乗せた宝形造本瓦葺で三間四方の開山堂....正面と側面に切目縁を設けている

正面一間が吹き放しの外陣で、外陣と内陣の間の結界は格子で仕切られている....軒廻りは二軒繁垂木、組物は出組で中備は中央間に蟇股、脇間に蓑束
 
面取柱の上に出三斗、水引虹梁上の中備は脚間に獅子の彫刻を配した本蟇股....龍頭と上半身の木鼻、水引虹梁に下半身が施された見事な彫刻で、龍が向拝柱を突き抜けている姿だ/母屋の正面中央間の梁に鳥の彫刻を配した本蟇股

本瓦葺屋根の多宝塔(重文)....室町時代文安六年(1449)の再建....山内堂宇で最古の建物のようだ

大師堂前から眺めた鮮やかな朱塗りの多宝塔(北側の側面)

上層の軒廻りは二軒繁垂木、12本の柱を立て組物は四手目が尾垂木の四手先、円形の高欄を巡らす

三間の初層は中央間に桟唐戸、側面の脇間は盲連子の窓

下層の軒廻りは二軒繁垂木で軒支輪を設けている....組物は出組で中備は側面と正面脇間に蓑束、正面中央間のみ本蟇股

多宝塔の正面は中央間に紋らしき文様を入れた桟唐戸で、脇間は禅宗様の花頭窓

初層に禅宗様高欄付き廻縁....四天柱内の内陣に鎮座する五智如来坐像は室町中期の様式

開山堂境内の南側に鎮守社の三社権現社と春子稲荷社が鎮座している

正面に工事用テントが張られた三社権現社....左隣の小さなお社は春子稲荷社
 
「春子稲荷大明神」の額が掲げられ、明神居を構えた宝形造銅板葺の春子稲荷社/切妻造本瓦葺の正面三間の覆屋に鎮座する三社権現...手前は巡拝供養碑

痛みがあって老朽化が進んでいる三社権現の檜皮葺の社(春日造りのようだ)
 
開山堂境内の南端の石垣の上に鎮座する舟光背形十一面観音石仏と宝篋印塔/塔身に「西国三十三度」と刻まれた巡拝塔の宝篋印塔....大きく反り返った隅飾突起は江戸期作と推、伏鉢に格狭間を入れ、大きな請花上にかなり欠落した九輪

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紀三井寺-(2) (和歌山)

2019年05月14日 | 寺社巡り-和歌山

【和歌山・和歌山市】開創後は歴代天皇の行幸があり、第77代天皇だった後白河法皇(上皇)が紀三井寺を勅願所と定めた以後は隆盛を極めた。 中世鎌倉時代には止住する僧侶が五百人を越えたとされる。
江戸時代に入ると、和歌山城からほど近いところにあるため、紀州徳川家歴代藩主が頻繁に参詣して紀州徳川家の繁栄を祈願し、「紀州祈祷大道場」として尊崇された。 本堂は宝歴年間(1751~1764)に建て替えられた。

新仏殿から本堂に向かって切石敷の参道を進む。 参道右の山裾に「元祖 京山恭安斎」と刻まれた浪花節の開祖・京山恭安斎の石碑が佇み、直ぐ左に西国三十三所の本尊・観世音菩薩像を祀る六角堂が建っている。 六角堂の左隣の朱塗りの袴腰鐘楼は、安土桃山時代の創建で、風格が漂い、端整で優美な姿から鐘楼建造物の中で最も白眉とされている。
袴腰鐘楼の左に、幸福観音立像を挟んで弘法大師空海を祀る大師堂が建ち、そこから先の本堂前の参道左側に多くの石造物・石仏・石柱・石碑などが佇んでいる。 本堂に最も近い所には、修行姿の弘法大師像と慈母観世音菩薩像とが本堂に向いて立っている。 慈母観世音菩薩像は、左手で赤子をやさしく抱き、右手は説法印である中品中生の印相を結んでいる。
参道を隔てた向かい側には、朱塗りの擬宝珠欄干で囲まれたコの字形の放生池があり、池に架かる反橋の先に如意輪観音坐像が蓮華座に鎮座している。
本堂前境内の南側に手水舎があるが、蓮花に擬した手水鉢の真ん中から上に飛び出た花托が水口になっていて珍しく、なかなか面白い。

新仏殿の前から眺めた境内....右側に六角堂、袴腰鐘楼、大師堂が建ち並ぶ切石敷参道の一番奥に本堂が建つ
 
参道脇に佇む石仏と石碑群...左端は舟光背型千手観世音菩薩石像、中央の黄ばんだ石板は馬頭観世音菩薩/六角堂手前の参道脇の宝形造桟瓦葺の覆屋に鎮座する舟光背型如意輪観音石像....石灯籠は安永三年(1774)の造立

露盤宝珠を乗せた六注造本瓦葺の六角堂....寛延年間(1748~1751)の建立で西国三十三所の本尊(観世音菩薩)を祀る

軒廻りは二軒扇垂木....中央の格子の結界を設けている
 
結界の中央間は三分の二の両折両開の格子戸、脇間は上下する三分割の格子窓/六角堂の隣に佇む浪花節の開祖・京山恭安斎の石碑....京山恭安斎は江戸末期、紀州徳川家の御殿医の家系に誕生

六角堂の前から眺めた本堂....参道右側に袴腰鐘楼と大師堂が建ち並ぶ

入母屋造本瓦葺の袴腰鐘楼(重文)....安土桃山時代の天正十六年(1588)の再建....旧梵鐘は文禄・慶長の役の折に没収され筑後に移されたが現存せず
 
軒廻りは二軒繁垂木で、2手目が尾垂木の二手先、中備は蓑束

擬宝珠高欄付き廻縁を支える腰組は三手先で、中備は正面中央に彩色彫刻を施した蟇股、側面に蓑束

大棟に鬼瓦、拝に蕪懸魚、妻飾は虹梁大瓶束、周囲に連子窓....鐘楼の左傍に未開蓮と巻蓮葉を持つ幸福観音立像が鎮座
 
袴腰鐘楼前に聳える樟の老木/明神鳥居を構えて老木の根元に鎮座する「大樟龍王」の額を掲げた社

弘法大師を祀る大師堂....銅製八角燈籠は昭和十一年(1936)造立

露盤宝珠を乗せた宝形造本瓦葺の大師堂....三間四方で周囲に切目縁、正面は下半分が羽目板、上半分が格子で中央間は半蔀になっている
 
「弘法大師」の額が掲げられた大師堂....軒廻りは二軒繁垂木、組物は出組で中備は本蟇股....組物、丸桁下、梁そして木鼻に彫刻が施されている
 
大師堂前と本堂前の参道脇に立ち並ぶ石造物や石柱、また右側に放生池があり如意輪観音像が鎮座....奥の高台に多宝塔が見える/大師堂前の参道脇に立つ「千度石」と「百度参諸塚」(諸は正しい?)

大師堂前から眺めた大きな千鳥破風を乗せた本堂....本堂前の参道脇に立ち並ぶ石造物、石仏、石柱、石碑など

本堂前の参道脇で本堂を向いて鎮座する行脚姿の弘法大師像と赤子を抱く水子供養の慈母観世音菩薩像....母観世音菩薩の右手は中品中生の印相

本堂前に造営されたコの字形の放生池....朱塗りの擬宝珠欄干で囲まれ真ん中に反橋が架かる....本堂前のソメイヨシノは和歌山地方気象台の桜開花観測用の標準木らしい
 
放生池に架かる反橋の奥に如意輪観音像が鎮座/蓮華座に円光を背にして鎮座する6臂の如意輪観音坐像
 
宝形造本瓦葺の手水舎....蓮花に擬した手水鉢/花托の水口は珍しい!
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紀三井寺-(1) (和歌山)

2019年05月09日 | 寺社巡り-和歌山

【和歌山・和歌山市】奈良時代の宝亀元年(770)、荒波の東シナ海を渡って中国から到来した唐僧・為光上人によって開基されたとされる霊刹。
寺伝では、諸国を巡って仏法を広めていた為光上人がこの名草山の麓に一宿した折、夜半に山頂が白く光っているのを不思議に思い、翌日山に登ると金色に輝く千手観音様と出会い、この地が観音慈悲の霊場だと感得した上人は、自ら一刀三礼のもとに十一面観世音菩薩像を彫り、一宇を建てて安置したのが紀三井寺の起こりとされる。
宗旨は救世観音宗(総本山)で、本尊は十一面観音像。 西国三十三所観音霊場第2番札所。

両側に土産店が軒を並べる切石敷の参道の奥に、鮮やかな朱塗りの楼門が見える。
石段下に立つ「紀三井山護国院」と刻まれた大きなな寺号標石の後方に、清浄水が注がれている手水鉢があり「ざんげと招福の水場」とある。 手水鉢の傍で錫杖を持って鎮座する白衣観音菩薩像の慈悲の視線を感じながら、霊水で罪障を洗い流してから楼門に....。
存在感のある鮮やかな朱塗りの楼門は、500年以上も前に創建された仁王門だ。 近づくと、まず、中央口の欄間に施された見事な牡丹と菊の彫刻に目を奪われる。 脇間の仁王像の体型は、筋骨隆々というよりも少し脂肪のついた筋肉といった感じだ。
楼門をくぐると、行く手を阻むように急峻な231段の石段が立ちはだかり、直ぐ左右の少し奥まった所に、寂れた感じの子院・普門院と穀屋寺がひっそりと建っている。 石段を上っていくと、途中にも子院や社があり、寺号の由来である「紀三井寺の三井水」のひとつの「清浄水」が湧き出ている。 最上の石段は「還暦厄坂」といわれる六十段の石段....還暦をとうに過ぎた身だが、少し息を切らして上り切る。
石段を上りつめると平地の境内が広がり、直ぐ右手に、日本最大の寄木造り千手観音菩薩立像を安置する新仏殿が聳える。 五輪塔に見立てて建てられたとされる新仏殿に入ると、大きな千手観音菩薩像が鎮座....金色に輝く巨大な像のあまりの迫力に咄嗟に手を合わせた。
手前に金色の五鈷杵が置かれ、観音像の合掌する手と五色紐で繋がっている....ご慈悲を頂こうと五鈷杵にそっと触れ、再度合掌してから本堂に向かった。

門前に立ち並ぶ土産店の奥の石段の上に建つ朱塗りの楼門....石段下に「紀三井山護国院」の寺号標石

入母屋造本瓦葺の楼門(重文)....室町時代永正六年(1506)の建立で、桃山時代の様式を残す
 
石段下の左手に立つ大正七年(1918)造立の輪廻車/石段下の右手に霊水・清浄水が流れる井戸は「ざんげと招福の水場」で観音菩薩像が鎮座....石燈籠は享保六年(1721)の造立

上層に組高欄を設けた朱塗りの楼門....三間一戸の脇間に金剛力士像を安置

軒周りは二軒繁垂木、組物は三手目が尾垂木の三手先、中備は蓑束、軒天井と蛇腹支輪がある....腰組は三手先、中央間の欄間に鮮やかな牡丹と蓮の彫刻
  
脇間に鎮座し、仏敵の侵入を防いでいる仁王像....筋骨隆々ではないが、眼を大きく見開いた憤怒の形相が印象的/門前に立つ「不許葷肉入山門」と刻まれた戒壇石
 
楼門をくぐって直ぐ左手に建つ十一面観自在観音を祀る宝形造本瓦葺の普門院/直ぐ右手の石垣の上に建つ地蔵菩薩と聖徳太子を祀る切妻造桟瓦葺の穀屋寺
 
楼門から続く急峻な231段の石段....かつてはここが坂で「結縁坂」といわれていたようだ....女厄坂33段,男厄坂42段、還暦厄坂60段等それぞれの石段に厄の名前が付いている/石段参道の途中には子院や紀三井寺の名前の由来となった三井水の湧き水がある
 
石段参道脇に建つ入母屋造本瓦葺で波切不動尊を祀る宝蔵院/石段を挟んだ宝蔵院の向かいに建つ入母屋造本瓦葺で妻入の松寿院....弘法大師霊場で「身代わり大師」とある
  
宝蔵院の右隣に鎮座する朱塗りの入り鳥居を構えた「白龍大明神」を祀る社と、開基以来の護国院にまつわる木の「王同樹」が聳える/覆屋に鎮座する「白龍大明神」を祀る社/三十三段の「女厄除坂」の脇に鎮座する地蔵尊坐像....女性の参詣者を見守っている

参道石段の途中右側にある「紀三井寺の三井水」(日本名水百選)のひとつの「清浄水」....他の2つは「楊柳水」と境外にある「吉祥水」で、3つの湧き水が寺号のもととなったとされる
  
積み石の間から流れ落ちる湧き水(小滝)の「清浄水」/「清浄水」を護る不動明王石仏/「清浄水」の傍に佇む芭蕉翁の句碑
  
最上の六十段の石段は「還暦厄坂」といわれる/「還暦厄坂」下の右手に地蔵尊立像と浮き彫りされた不動明王石仏が鎮座

露盤宝珠を乗せた宝形造本瓦葺の新仏殿....本堂と向かい合って建つ
 
新仏殿は鉄筋コンクリート造三階建で高さは25メートル....近代的な建物で、全体の形は五輪塔に擬しているとか

総漆金箔張寄木造の千手観音菩薩立像....平成二十年(2008)の落慶で、寄木造立像としては日本最大
 
高さ12m、重さ約30tの金色に輝く巨大な観音像千手観音菩薩....正しくは頂上に十一面を頂く千手千眼観自在菩薩(大慈観音ともいわれる)
 
手前に置かれた金剛杵(五鈷杵)が合掌する観音像の手と五色紐で繋がっている/紀三井寺がある名草山の麓から遠望した新仏殿
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道成寺-(2) (日高)

2019年04月05日 | 寺社巡り-和歌山

【和歌山・日高郡】安土桃山時代の天正十三年(1585)、羽柴秀吉による紀州征伐(根来攻め)に遭って本堂と鎮守社を残して殆どの堂宇が焼失した。 その際、家来の仙石権兵衛が梵鐘を略奪して陣鐘として使い、その後京都に持ち帰り、安珍清姫の怨念解脱のため京都左京区の妙満寺に納められた。 この梵鐘は、「安珍清姫伝説」にまつわる初代の梵鐘が焼けてから約400年後、南北朝時代の正平十四年(1359)に鋳造された二代目。 以後、道成寺には鐘楼がない。
江戸時代に入って伽藍は、明暦元年(1655)、紀州藩主徳川頼宣の援助で本堂の理が行われ、仁王門、三重塔などの堂塔は近世を通じて徐々に整備されていった。

「安珍塚」の東側に、まるで悲運の安珍を見守るかのように、均整のとれた三重塔が聳えている。 三重塔の各重の軒裏を見ると、初重と二重目が繁垂木なのに対し、三重目は唐様と天竺様のみに用いられる扇垂木だ。 また軒廻りを拝観していて、各重の隅尾垂木と二重目と三重目の三手目の尾垂木の先に龍頭の彫刻が施されているのに気が付いた。
三重塔の南側に、「閻魔の廰(十王堂)」の扁額が掲げられた閻魔堂が建つ。 腰高格子戸の格子の間から中を覗くと、上下二段に冠をつけ道服を着て笏を持った十王像などが鎮座。 上段の真ん中は少し大きい閻魔大王像で、彩色が施されていて地獄の王であることを強調している。
閻魔堂の前に珍しい形の石塔がある。 五輪塔の変形とみられるが、球状軸部の丸く掘り窪めた中に合掌する仏像が浮き彫りされている。
本堂の真後ろに建つ簡素な念仏堂に入ると、明るい堂内に、顔と胸元が黒ずんだ金色で螺髪の髪が異様に大きい五劫思惟阿弥陀如来坐像が鎮座している。 念仏堂の西側に江戸末期に建てられた護摩堂があるが、擬宝珠高欄付き廻縁を支える見事な腰組に目を奪われた。 複雑な構造の組物で支輪まで設けている。
稲荷神社の隣に変わった形の三重石塔が鎮座。 頂部に複数の相輪を束ねたような相輪が乗り、軸部は初重と二重目は六面だが三重目は球状....初重と二重目の軸部の正面に仏の彫刻、三重目の軸部には月輪等の彫刻が施されていて、初めて見る石塔だ。

本堂前の石燈籠越しに眺めた三重塔...石灯籠は延享三年(1746)の造立

本瓦葺の三重塔....江戸時代宝暦十四年(1764)の再建で、塔高は約22メートル

三重塔の前の玉垣に囲まれた「安珍塚」....三重塔の右手(南側)に建つ建物は閻魔堂
 
軒廻りは初重と二重目が二軒繁垂木で、三重目は二軒扇垂木....初重に擬宝珠高欄付き廻縁、二重目と三重目には組高欄付き廻縁を設けている

組物は各重いずれも三手目が尾垂木の三手先、中備は脚間に彫刻を施した本蟇股....初重の隅尾垂木、二重目と三重目の尾垂木と隅尾垂木に龍頭の彫刻が施されている

三間四方に中央間に桟唐戸、脇間に連子窓

三重塔には本尊の大日如来像を安置

寄棟造本瓦葺の閻魔堂....江戸時代宝永四年(1707)の建立で、正面三間で中央間に腰高格子戸、両脇間に連子窓

閻魔堂に鎮座する、冠をつけ道服を着て笏を持つ十王像....中央は地獄の王の閻魔大王像....閻魔王の本地仏・地蔵菩薩も鎮座

入り口に「閻魔の廰(十王堂)」の扁額、軒廻りは一軒繁垂木、組物は長い束の舟肘木
 
閻魔堂前に鎮座する石仏...寛延二年(1749)造立の如意輪観音菩薩像/五輪塔の変形とみられる石塔....球状軸部を丸く掘り窪めた中に合掌する仏像が浮き彫り

本堂前の桜の古木越しに眺めた三重塔
 
切妻造本瓦葺の建物は庫裡の長屋門か?/長屋門を通して眺めた庫裡の玄関と石燈籠....庫裡後方に元禄十五年(1702)築の書院が建つ

寄棟造穂瓦葺の念仏堂....正面五間側面三間で、平成十七年(2005)の再建

「常念佛堂」の扁額が掲げられた正面の中央三間は両折両開の板唐戸、脇間及び側面に窓なし
 
念仏堂に安置されている五劫思惟阿弥陀如来坐像....宝永五年(1708)の造立で、顔と胸元の金箔が剥がれて黒ずんだ金色の仏像/螺髪の髪が大きいのは、人々を救済する道を求めて長い間瞑想に耽っていたために伸びたことを表す

擬宝珠高欄付き切目縁を設けた護摩堂越しに眺めた念仏堂

露盤宝珠を乗せた宝形造本瓦葺で三間四方の護摩堂....弘化四年(1847)の建築

軒廻りは二軒繁垂木、組物は出組で中備は蟇股、軒支輪を設けている....廻縁を支える精緻な腰組

腰組は四手先のように見える複雑な構成の組物....支輪を設けている

切妻造銅板葺の覆屋に鎮座する朱塗りの鎮守三社(絵馬奉納所)

三社には左から日吉大明神、弁財天、天神様がそれぞれ鎮座

鎮守三社の左手に稲荷神社、頂部に複数の相輪を束ねたような相輪が乗る珍しい形の三重石塔そして「明治風水難供養塔」が鎮座
 
珍しい三重石塔....初重と二重目の軸部は六面で正面の方形に彫り窪めた中に仏の彫刻、三重目の軸部は球状で正面に月輪等の彫刻/切妻造桟瓦葺の覆屋に鎮座する稲荷神社

入母屋造本瓦葺の宝物殿....昭和五十七年(1982)建立で、国宝の木造千手観音立像・木造菩薩立像2躯などを安置

宝物殿に連なって左側に建つ2棟で構成された縁起堂...昭和五十七年(1982)建立で、前は宝形造銅板葺で軒が大きく反っている、後方は寄棟造銅板葺
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道成寺-(1) (日高)

2019年04月01日 | 寺社巡り-和歌山

【和歌山・日高郡】寺伝では白鳳時代の大宝元年(701)、文武天皇(第42代)の勅願により、紀大臣道成なる者が、法相宗の僧・義淵僧正を開山として天皇夫人宮子(第45代聖武天皇の母)の生誕の地に創建したとされる。 寺に残る仏像の大半が平安時代初期から中期に造立されたものであることから、この頃に最も寺勢が盛んであったと推される。 道成寺は和歌山県内に現存する中で最古の寺院。 
創建時は法相宗であったが、その後真言宗となり、江戸初期の承応年間(1652~1655)に真言宗から天台宗に改宗された。
道成寺は、平安時代の延長六年(928)夏の頃の「安珍清姫伝説」で有名な寺院で、道成寺に逃げ込んだ安珍が、蛇身に化けた清姫によって鐘の中で焼き殺されたという悲恋伝説が「法華験記」(11世紀編纂)に記されている。 宗旨は天台宗で、本尊は千手観音像。新西国三十三所観音霊場第五番札所。

道成寺は、人形浄瑠璃や歌舞伎などで知られる「安珍清姫伝説」のゆかりの寺ということで、楽しみにしていた訪問先のひとつ。
両側に土産店などが立ち並ぶ切石敷の参道を進み、突き当りの急峻な石段を上り詰めると、元禄時代再建の朱塗りの仁王門に鎮座する筋肉隆々で鋭い眼光の仁王像が迎えてくれる。 仁王門をくぐると、正面に大きな向拝の荘厳な本堂、右手に玉垣で囲まれた安珍と鐘とを葬ったとされる「安珍塚」がある。 「安珍塚」の後方には、鐘に隠れていた安珍が清姫に焼き殺された場所とみられ所があり、「鐘巻之跡」と刻まれた標石がひっそり立っている。
本堂の前後に桁行と同じ長さの長方形の池が造営されていて、池に架かる小さな石造りの反橋を渡って本堂に....。 内陣に金属板で造られたような像容の千手観音立像が鎮座しているが、奥の厨子の中に円光を背負った秘仏の千手観音菩薩像が安置されているので「お前立ち」と思う。 秘仏の御開帳は33年に1度とのことで、次は2038年とか....拝観は厳しそうだ。
本堂の内陣後方に「安珍清姫伝説」を裏付ける縁起絵巻が展示されているが、蛇身に化けた清姫が火を噴いて、鐘の中に隠れている安珍を焼き殺そうとしている様子を描いたリアルな絵が印象的だった。
 
石段下の左右に佇む金属製の燈籠/六十二段ある急峻な石段の上に仁王門が建つ

入母屋造本瓦葺で朱塗りの仁王門(国重文)....江戸時代元禄十三年(1700)の再建で、三間一戸の楼門造り、 門前に「文武天皇勅願所」の標石が立つ

仁王門の軒廻りは二軒繁垂木、組物は出組で中備は蓑束、軒支輪がある
 
脇間の金剛柵の中に鎮座する仁王像....筋肉隆々の体と鋭い眼光で仏敵を撃退している

堂宇境内から眺めた仁王門....上層に親柱に逆蓮頭を乗せた高欄付き切目縁を巡らし、腰組は二手先で中備は蓑束

仁王門から眺めた堂宇境内....切石敷参道の正面に建つ荘厳な本堂、右手に石柵で囲まれた「安珍塚」

入母屋造本瓦葺の本堂(国重文)....南北朝時代の正平・延文二年(1357)の再建

「安珍塚」越しに眺めた本堂は正面七間・側面五間で三間の向拝
 
大棟端に鳥衾を乗せた鬼瓦、拝に猪の目縣魚、妻飾は虹梁大瓶束/本堂の軒廻りは二軒繁垂木、組物は出三斗で中備は間斗束

本堂に祀られている本尊の千手観音立像(お前立か?)....国宝の千手観音菩薩像は宝物殿に安置
 
本堂に展示されている「安珍清姫伝説」の中心的記録の縁起絵巻....蛇身に化けた清姫が火を噴いて鐘の中に隠れている安珍を焼いている様子が描かれている/平安時代に記された「安珍清姫伝説」は室町時代に「道成寺縁起」として絵巻化された
 
内陣後方に掲げられた扉の中の「秘仏千手観音菩薩像」についての説明....千手観音菩薩像は南北朝時代作/本堂向拝から眺めた仁王門
 
本堂前の池に架かった石造欄干付き反橋を渡って本堂に/道成寺型石燈籠

本堂後方は中央一間に板唐戸で両脇に格子戸....正面と同じように池があり石造りの反橋が架かる

古色蒼然とした佇まいで風情を色濃く残している本堂
 
本堂前参道左手にある蓮華を模した手水鉢、輪廻車、地蔵尊像....奥の朱塗りの建物は宝物殿/本堂前に立つ石燈篭....竿が反ったのは延享三年(1746)の造立、竿が八角柱なのは昭和十三年(1938)造立
 
清姫に焼き殺された安珍と焼かれた鐘を葬った場所とされる「安珍塚」

「安珍塚」の南側の桜の植え込みがある「鐘巻之跡」....この場所で鐘の中に隠れていた安珍が蛇身に化けた清姫に焼き殺されたようだ....後方に二代目の鐘楼跡がある

初代梵鐘焼失約400年後に鋳造された梵鐘を吊った二代目の鐘楼の跡....梵鐘は羽柴秀吉による紀州征伐の時、家来により略奪された

手入れが行き届いた清々しい境内に建つ本堂と三重塔

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高山寺-(3) (田辺)

2019年03月14日 | 寺社巡り-和歌山

【和歌山・田辺市】戦国時代、豊臣秀吉の紀州征伐で焼き討ちに遭ったが、高野山の高僧・空増が入山し、焼失した堂宇を再興した。 空増は高山寺の中興開山第一世法院空増とされているので、この頃に寺号が高山寺に改称されたのであろう。 多宝塔は江戸後期の文化十三年(1816)の建立で、「上宮閣」の扁額が掲げられ、大日如来像ではなく聖徳太子像を安置している。

香堂後方に大師堂の拝殿(礼堂?)があり、その直ぐ先の一段高いところの玉垣と木立に囲まれて大師堂が建っている。 香堂と大師堂の東側、本堂の北側には大きな池泉の回遊式庭園が広がり、池の中の基壇上に西面で薬師堂が建っている。 紅葉と枯れた蓮が残る池の周りは静寂に包まれ、古びた薬師堂がひっそりと建っている様は古刹の趣を漂わせている。 池の東側には石組が、また、奥の水際は州浜のように小玉石が敷かれていて味わいがある。
池の東側に新薬師堂が建ち、堂前には不動堂前のものと同じやさしい形の石燈籠が佇んでいる。
境内全域から縄文時代早期から弥生時代に至る遺跡(高山寺貝塚・五反田古墳など)が発見されて国指定史跡になっているが、不動堂の後方には、移設された六世紀後半(推)造営の「横穴石室の小さな円墳」があって興味深い。
それにしても、本堂・香堂・大師堂・新薬師堂が南を向いて建っているのに、多宝塔と薬師堂が西向き、観音堂が東向きと、堂塔の向きがバラバラで面白い。

露盤宝珠を乗せた宝形造本瓦葺の大師堂(遍照金剛殿)....弘法大師空海を安置している

礼堂(と思う)越しに眺めた大師堂....入口に「遍照金剛殿」の扁額がある

三間四方で軒廻りは二軒繁垂木、組物は出組で中備は蟇股....中央間は飾り菱狭間を入れた桟唐戸、脇間は連子窓
 
周囲に擬宝珠高欄付き切目縁を巡らす/大師堂境内前に四国八十八所霊場の巡拝塔が佇む

露盤宝珠を乗せた宝形造本瓦葺の薬師堂

三間四方の薬師堂の正面は菱狭間入り桟唐戸、脇間に連子窓....正面と側面に擬宝珠高欄付き切目縁

宝形造りの新旧薬師堂....池の奥の本堂を向いて建つ新薬師堂

池の中の基壇の上に香堂を向いて建つ薬師堂....左奥は大師堂

本堂の北側に造営された回遊式池泉庭園

薬師堂の側面に板張りの脇障子、側面は中央間に格子戸、脇間は羽目板

薬師堂の後方は窓がなく横羽目板

露盤宝珠を乗せた宝形造本瓦葺の新薬師堂....三面四方で正面は中央間に板唐戸、脇間は連子窓
 
軒廻りは二軒繁垂木、組物は出三斗で中備は長い束の舟肘木....側面は中央間に板唐戸、脇間は正面側が連子窓、後側は羽目板/新薬師堂前の石燈籠は不動堂前のものと同じ形

回遊式池泉庭園の奥から眺めた堂宇....左から本堂、観音堂、薬師堂そして薬師堂の先は香堂

池泉庭園の水面に映る薬師堂...池泉の奥の水際は州浜のように小玉石が敷かれている
 
池泉庭園の奥の岩陰に鎮座する子安地蔵尊像

「国指定史跡 高山寺貝塚」(南側・第1号貝塚)....境内全域から縄文時代早期から弥生時代に至る遺跡(貝層、土器、石器、獣骨等)が発見された

六世紀後半の造営と推定される五反田古墳....蘇生山西南の丘陵の裾に築かれた横穴石室の小さな円墳をここに移築したもので、石室は長さ約2.5m、幅約1.5m
  
不動堂後方に立つ平成四年造立の筆塚/合気道の開創の「植芝盛平翁」の墓碑/「南方熊楠先生」の墓碑....南方熊楠は慶応三年(1867)生まれの生物学者・民俗学者

墓所側から眺めた多宝塔
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高山寺-(2) (田辺)

2019年03月11日 | 寺社巡り-和歌山

【和歌山・田辺市】平安時代の弘仁年間、弘法大師空海が熊野遍歴の途中に田辺に来て、勧修学問寺を中興したようだ。 高野山金剛峰寺の開創が弘仁七年(816)なので、空海は高野山に大霊場を造営中にこの地を訪れたことになる。

いずれも近年の建築で鉄筋コンクリート造りとみられる本堂と庫裡が、多宝塔を見守るように連なって南面で建っている。 庫裡前に建つ鐘楼の東側に窓や入口を固く閉ざした古い木造の建物があるが、新しい庫裡の後方に旧本堂があるのでこれは旧庫裡か?
本堂左側の切石敷の参道を進むと、左手に飾り花頭窓を設けた観音堂が建ち、水引虹梁の中央に中腰で向拝軒桁を担ぐ邪鬼がいて、大きく目を開き、両膝に手を置いて踏ん張っている。
参道奥の正面に、連子に菊の御紋を配した連子入り桟唐戸の香堂、その後方の玉垣に囲まれた中に空海を祀る大師堂がひっそりと建つ。 玉垣の傍の覆屋に珍しい石仏が鎮座している。 石仏は丸彫りの弥勒菩薩坐像で、宝冠を頂き、両手に持物を乗せ、穏やかなお顔で蓮華座に鎮座している。 前垂れで持物の上半分が隠れているが、塔身(水輪)が潰れた形をした五輪塔のように見える。 五輪塔とみられる持物を持つ弥勒菩薩の石仏....初めて見る姿の石仏で印象に残った。

多宝塔と左手の少し奥に朱塗りの本堂が建つ

入母屋造本瓦葺の本堂....壇上積み基壇上に建ち、正面五間・側面三間で正面中央三間に桟唐戸(上に菱狭欄間)、側面中央間のみに連子窓を設けている
 
軒下に垂木がなく組物は大斗肘木(と思う)、白壁の小壁と小脇羽目/階段上下の親柱に擬宝珠登高欄、他は組高欄を巡らす

庫裡前の基壇上に建つ入母屋造本瓦葺の鐘楼....奥の建物は左本堂で右庫裡
 
鐘楼に下がる梵鐘/礎盤の上に立つ柱と貫に持送り....近代的な庫裡の前の入母屋造桟瓦葺の二重建物は旧庫裡か

多宝塔正面の階段の上から眺めた観音堂と香堂

切石敷参道の奥に建つ正面の香堂と左手に観音堂

寄棟造本瓦葺で妻入の観音堂....側面奥に板張り脇障子があり、正面と側面に擬宝珠高欄付き切目縁

三間四方で、正面中央間は三段の格子戸(と思う)、脇間は飾り花頭窓、側面の二間は蔀戸
 
向拝の面取方柱上に出組、水引虹梁上の真ん中に邪鬼/踏ん張って向拝軒桁を担いでいる邪鬼

観音堂の軒廻りは二軒繁垂木、組物は平三斗で中備は正面中央と側面に彩色を施した蟇股を配す

観音堂の右手に並んで鎮座する石造墓碑群
 
宝篋印塔と宝塔、後方には空輪風輪が欠落した五輪塔がある/頂部に弥勒尊や地蔵尊が鎮座する3基の墓碑、左手の蓮華座上の兜巾角柱型墓碑は天保三年(1832)の造立

入母屋造本瓦葺の香堂

香堂は正面五間・側面三間で、周囲に擬宝珠高欄付き切目縁を巡らす

向拝の水引虹梁上に親子獅子と牡丹の彫刻

中央間の扉は連子入り桟唐戸で、連子中央に菊の御紋を配す....桟唐戸の内側は三段の格子戸....脇間は蔀戸と変形の格子戸か?

香堂の軒廻りは二軒繁垂木、組物は平三斗で正面のみに詰組

香堂後方の一段高いところに玉垣に囲まれた中に建つ大師堂....玉垣傍の覆屋に鎮座する弥勒菩薩坐像
 
覆屋に鎮座する弥勒菩薩坐像と手前に蓮華座に鎮座する地蔵尊坐像/石造りの弥勒菩薩挫像....宝冠を頂き両手で五輪塔を持っている
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高山寺-(1) (田辺)

2019年03月07日 | 寺社巡り-和歌山

【和歌山・田辺市】調べたが、「聖徳太子により草創され、弘法大師空海が中興したと伝えられる」とあるだけで、創建や歴史などは不詳のようだ。
故事来歴として、約1400年前の推古天皇(第33代、歴代天皇の最初の女帝)の御代、摂政として活躍していた聖徳太子が仏教に帰依して各地に寺院を建立していたが、都を訪れた熊野之國牟婁郡の長者が太子の人格に深く感動し、心から傾倒して熱心な仏教徒になり、太子の勅を受けて荘厳な御堂を南面山に建立した勧修学問寺が高山寺の始まりとされる。
宗旨は真言宗(御室派)で、本尊は大日如来坐像 。 紀伊之国十三仏霊場第12番札所、近西国三十三所南紀霊場第4番札所。

一般道に面した一段高いところに山門が建ち、左右の脇間の金剛柵の中に仏敵の侵入を防ぐ少し細身の仁王像が鎮座している。
山門をくぐり、石段参道を上り詰めると、石垣と白壁の築地塀の間に多宝塔が現れる。 直ぐ左手に不動堂が建ち、右手の築地塀の傍に自然岩を利用して石組のように造られた手水鉢があるが、水が注がれておらずどこが水口なのか分からずだ。
本堂前の境内の真ん中に、均整のとれた多宝塔が基壇上に建つ。 通常、多宝塔には大日如来像が安置されるが、「上宮閣」の扁額が掲げられているので、聖徳太子の異称「上宮太子」から聖徳太子像を安置していることが分かる。

入母屋造本瓦葺で三間一戸の山門(仁王門)

山門の軒廻りは二軒繁垂木、組物は出組で中備は脚内に彫刻を施した本蟇股
 
脇間の金剛柵の中に鎮座する少し細身の阿形吽形仁王像

山門の側面は二間で横羽目板
 
山門傍の石段参道の脇で参詣者を迎える地蔵菩薩像/参道の途中に佇む弘法大師空海修行像

石段参道の途中の墓碑群....雛壇状に並ぶ五輪塔、板碑型、箱型、舟光背型石仏などの古い墓碑

城壁のような石垣に沿って続く石段参道の途中から見上げた堂塔は多宝塔、本堂そして手水舎

堂宇境内の入り口に鎮座する石仏群
 
切妻屋根の覆屋に鎮座する2体の地蔵尊石仏/舟光背型や丸彫りの石仏は前掛けで像容がよく見えないが、前掛けからいずれも地蔵尊像だろう

上り詰めた石段参道から眺めた多宝塔、白壁の築地塀の先は手水舎
 
入母屋造銅板葺で軒が反り返った手水舎/自然石を利用して石組のように造られた手水鉢....水口はどこかな?

堂宇境内のほぼ全景....直ぐ左手に不動明王を安置する不動堂、正面に多宝塔と朱塗りの本堂、中央の奥に香堂が建つ

露盤宝珠を乗せた宝形造本瓦葺の不動堂....正面のみ切目縁を設け、中央間は格子戸で脇間は連子窓

不動堂の軒廻りは一軒疎垂木、組物は束が長い舟肘木、中備は無く小壁
 
自然石の上に火袋と笠を乗せたようなユニークな形の石燈籠/吹寄垂木の向拝の面取角柱上に連三つ斗、水引虹梁の中央に出三斗を配す

不動堂前の石燈籠越しに眺めた多宝塔....後方の朱塗りの建物は本堂

瓦葺多宝塔....江戸後期の文化十三年(1816)の建立で、塔内に聖徳太子像を安置
 
均整のとれた多宝塔の高さは約15メートル....正面の扁額に「上宮閣」の書/三間四方で下層に組高欄付き切目縁を巡らす

上層の軒廻りは二軒扇垂木、組物は三手目と四手目が尾垂木の四手先、四手目の尾垂木の先に龍頭に彫刻されている....擬宝珠高欄付切目縁を巡らし、縁を支える腰組は平三斗

下層は二軒繁垂木で、組物は二手目が尾垂木の二手先、中備は中央間のみに2つの板蟇股....中央間は格狭間のような意匠がある桟唐戸、脇間に連子窓

境内の隅に鎮座する六注の御堂越しに眺めた多宝塔....中央の奥は庫裡と鐘楼

境内の隅に佇む石碑や石塔などの石造物と六角の御堂

露盤宝珠を乗せた六注造桟瓦葺の六角の御堂(六角堂?)....正面に桟唐戸で側面は羽目板、身舎は確か半分しかなく平面でみると台形だ
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根来寺-(4) (岩出)

2019年03月03日 | 寺社巡り-和歌山

【和歌山・岩出市】広い寺地を有する根来寺は現在 覚鑁上人を宗祖とする新義真言宗の総本山として興教大師覚鑁の御廟を守り続けている。 新義真言宗はのち、智山派と豊山派に分かれた。 智山派は玄侑が京都東山の智積院(総本山)を開いて始めた派、豊山派は専誉が奈良桜井の長谷寺(総本山)を再興して始めた派。 豊臣秀吉の焼き討ちを免れた室町時代建立の大塔(国宝)と大師堂(重文)以外の建物は、 江戸時代に復興した。 木造多宝塔の正式名称は「大毘廬遮那法界体性塔」で、略して「大塔」と称される。

奥ノ院から不動堂に向かう。
写真は不動堂境内の入り口から並べたが、拝観は不動堂の八角円堂から....。
不動堂は根来寺の堂宇の一つだが、こちらは入山が自由だ。 不動堂について調べると、ほとんど八角円堂を不動堂と記しているようだ。 八角円堂の前に唐破風向拝を設けた入母屋造りの仏堂が建つが、この建物は「礼堂」ではないかと思う....が、根来寺パンフを含めてその記載がなく、何かスッキリしない。
不動堂境内には他に、不動堂の直ぐ前に春日堂、左手の高台の樹林の中に朱塗りの金毘羅宮、そして不動堂右手の山腹に鐘楼が建つ。 不動堂前の石段参道を下っていくと、蓮花を模した手水鉢がある手水舎が建ち、2頭の龍の水口から清水が注がれている。 また、参道の両側に、江戸中期造立の形が少しずつ異なる3種類の石燈籠が佇んでいる。
境内入り口の石造りの擬宝珠欄干付き反橋を渡ると直ぐ一般道で、道を挟んだ反対側に根来寺塔頭の菩提院旧跡があり、そこに円明寺で入滅した覚鎫上人を火葬した荼毘所がひっそりとある....合掌。

一般道脇の石造り擬宝珠欄干付き反橋の奥が不動堂が鎮座する境内
 
不動堂境内....参道の両側に形の異なる石灯籠が佇む/「不動明王」と刻まれた飾手水鉢、その先に寛延三年(1750)造立の石燈籠

寛延三年造立の石燈籠越しに眺めた石段上の不動寺
  
切妻造本瓦葺の手水舎/蓮花を模した手水鉢/二頭の龍の水口から清水が手水鉢に注がれている

石段の下に佇む明和六年(1769)造立の石燈籠....石段上に建つ唐破風向拝の不動堂

階上の朱塗りの擬宝珠欄干の奥に唐破風向拝の不動堂が建つ

入母屋造本瓦葺の不動堂...嘉永三年(1850)の建立で、後方の八角円堂が不動堂と言われているようなのでこの建物は礼堂か?

入母屋造りの仏堂の軒廻りは二軒疎垂木、組物は舟肘木、正面五間は全て蔀戸

後方の八角円堂が不動堂と呼ばれているようだ....傍に宝形造屋根の手水舎の手水鉢にはポンプで汲み上げられた地下水が注がれている

八角円堂には「三国一のきりもみ不動尊」で有名な本尊・大聖不動明王の他、四大明王・文殊菩薩・愛染明王を祀る
 
不動堂の右手の山腹に建つ切妻造本瓦葺の鐘楼....転びの柱になっている

不動堂前の境内に建つ宝形造本瓦葺の春日堂....正面は中央に格子戸、脇間に白壁の小壁羽目
 
春日堂の軒廻りは一軒疎垂木で組物は舟肘木/春日堂右手の金毘羅宮への石段下に佇む石灯籠は寛政三年(1791)の造立

金毘羅大権現を祀る金毘羅宮....社殿前に朱塗りの神門と透し塀

軒唐破風を設けた切妻造銅板葺の朱塗りの社殿....大棟に外削ぎの千木と2本の堅魚木が乗る

不動堂境内前の一般道を挟んだ向かい石造り寄棟造り覆屋に鎮座する2体の石仏....手前に「第一番 霊山寺」の寺号標石

左は霊山寺と刻まれた舟光背型の如来石仏、右は地蔵石仏と思うが空海像のようにも見える

不動堂境内前の一般道を挟んだ向かい側にある菩提院旧跡、「根来寺塔頭菩提院」と刻まれた寺号標石が立つ....右手に覚鎫上人の火葬地(荼毘所)がある

菩提院旧荼毘所....手前の柵内が覚鎫上人の火葬地(荼毘所)

基壇上に建つ宝形造本瓦葺の御堂(菩提院)....江戸時代建立、堂内に本尊阿弥陀如来立像と興教大師覚鎫上人尊像を安置

正面三間、側面二間の御堂....軒周りは二軒繁垂木で組物は出組、中備は側面と正面の中央間のみに肘木を乗せた間斗束、側面は羽目板、周囲に切目縁

正面は中央間に連子入り桟唐戸、脇間に連子窓
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根来寺-(3) (岩出)

2019年02月21日 | 寺社巡り-和歌山

【和歌山・岩出市】頼瑜僧正の学風は聖憲尊師に受け継がれ「新義教学」として大成し、中世の根来寺は多くの学僧を抱える「学山根来」であった。
最盛期となった室町時代後期(戦国時代)、根来衆とよばれる僧衆(僧兵)1万余を擁する強大な勢力を備えたが、これを危惧した豊臣秀吉が天正十三年(1585)に紀州根来に攻め入り、大塔・大師堂など2~3の堂塔を残して全山を焼き払った。 その後、暫くの間、復興が許されなかったが、江戸時代に入って紀州徳川家の庇護のもと大門・伝法堂・不動堂など主要な伽藍が復興された。 江戸初期、東山天皇(第113代)から、新義真言宗の開祖である覚鑁上人に対して「興教大師」の師号が下賜された。

九社明神から戻り、屋根上に大塔の屋根が見える庫裡の前の棟門をくぐって大塔や大師堂などが建つ境内に向かう。 白壁の築地塀で囲まれた境内の前に無縁墓群があり、五輪塔・板碑型・舟形石仏型などのおびただしい数の古い墓碑が窮屈そうに鎮座している。
境内に入ると直ぐ左手に境内最古で空海を祀る大師堂、ほぼ正面に聳える大塔と呼ばれる大きな多宝塔、そして右奥には身舎に大きな裳腰を設けた大伝法堂が建つ。 大師堂と大塔は室町時代の建立で、豊臣秀吉の焼き討ちを免れた貴重な遺構。
大塔は日本最大の木造多宝塔で、高さ約36メートル、下層は五間四方で一方約15メートルの豪壮な構えだ。 下層内部は古式の造りで円筒状の内陣になっており、内陣の周囲を回りながら秀吉の根来攻めに激しく応戦する僧兵たちの姿に思いを馳せた。 大塔には秀吉軍が放った火縄銃の弾痕がいくつか残っているようだが、失念した。
大伝法堂は根来寺の本堂で、どっしりとした重量感と荘厳さが漂っている。
大塔境内を出て、左手の切石敷の参道を進んで樹林の中に鎮座する奥ノ院に向かう。 静謐な空気が満ちた奥ノ院は興教大師の廟所で、立派な向唐門と格子状の透塀に囲まれ、お椀状に土を盛った覚鑁上人が眠る墳墓が....合掌。
 
大塔・大師堂・大伝法堂が建つ境内への参道入口に建つ切妻造桟瓦葺の棟門....四脚の控柱で支えられ、白壁の袖塀を設けている/大塔へ参道の前半は四半敷のような敷石
 
縁石を設けた参道の奥に大塔と大師堂の屋根が見える/参道脇に立つ文化六年(1809)造立の石燈籠越しに眺めた根本無縁墓群....大塔境内の白壁塀と水子堂との間に鎮座する石造物群

多宝塔に見守られて、五輪塔・板碑型・舟形石仏型などのおびただしい数の古い墓碑が窮屈そうに鎮座

境内入り口から眺めた左から大師堂、大塔(多宝塔)そして大伝法堂

露盤宝珠を乗せた宝形造本瓦葺で三間四方の大師堂(重文)....室町時代明徳二年(1391)建立で弘法大師空海を祀る

大師堂の軒周りは一軒繁垂木,組物は舟肘木で中備無し....周囲に切目縁を巡らし,正面三間はいずれも桟唐戸,側面は二間桟唐戸で一軒は小脇羽目の小壁

大塔の廻縁から眺めた大師堂....豊臣秀吉の紀州征伐の焼き討ちを逃れた境内最古の建造物

日本最大の大塔(木造多宝塔)と右は根来寺の本堂である大伝法堂

本瓦葺の大塔(国宝)....室町時代(戦国時代)天文十六年(1547)の建立....大師堂とともに豊臣秀吉の紀州征伐の焼き討ちを逃れた

高さ約36メートル」、一方は約15メートルの大塔の正式な塔形式は「大毘廬遮那法界体性塔」という
 
初層内部は古式の造りで円筒状の内陣になっている/降棟先に鳥衾を乗せた鬼瓦と四隅軒下に下がる風鐸

下層は五間四方で、正面は中央三間が板唐戸で内側に腰高格子戸と連子欄間、両脇間に連子窓

上層は大きな漆喰亀腹の上に廻縁付き円形塔身....軒廻りは二軒繁垂木、組物は四手先、蛇腹支輪と軒天井がある

下層の軒廻りは二軒繁垂木、組物は二手先で中備は間斗束、蛇腹支輪がある

根来寺大塔は日本最大の木造多宝塔で、唯一無二の国宝

入母屋造本瓦葺で六間四間の身舎に八間六間の裳腰を付けた大伝法堂(本堂)....文政十年(1827)の再建

大伝法堂の軒廻りは二軒繁垂木、組物は二手目が尾垂木の二手先で中備は間斗束
 
大棟端に鳥衾を乗せた鬼瓦、拝に蕪懸魚、妻飾は虹梁蟇股敷/裳腰の軒廻りは二軒繁垂木、組物は二手先で中備は間斗、軒支輪と軒天井を設けている

大伝法堂は真言宗の教義と法儀を習得する修行道場で、高さ3メートルを超える本尊金剛界大日如来像、脇侍として金剛薩埵・尊勝仏頂を安置
 
正面は中央二間が引戸の桟唐戸で両脇間三間は舞良戸/周囲に擬宝珠高欄付き切目縁を巡らす

大伝法堂前に回向柱が立ち、手前に大きな石灯籠が佇む....石灯籠は安政二年(1855)の造立
 
奥ノ院への切石敷参道脇に立つ「興教大師 御廟所」の標石/石造り擬宝珠欄干付き反橋越しに眺めた奥ノ院....江戸時代の造営

奥の院...新義真言宗の宗祖で根來寺の開祖の興教大師覚鑁上人の廟所

向唐門と格子状の透かし塀に囲まれた廟所の中に土を盛ったお椀状の墳墓がある
 
立派な向唐門/修理で外された透かし格子からみえる墳墓....覚鑁上人は平安時代康治二年(1143)に山内の円明寺で入滅
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