ヘーゲル弁証法の合理的核心の把握という問題があることは知っていました。わたしなりに関心もありました。それが、許萬元の『弁証法の理論』を読む背景にあったと思います。しかし、この問題を論じることになるとは、思いもよりませんでした。
わたしは、ヘーゲル弁証法の合理的核心を把握するという問題を、マルクス主義とは違った方向で解決しようと考えています。この問題に対する立場の違いを明確にしておきます。
許萬元は、ヘーゲルとマルクスの弁証法を、歴史主義(否定的理性)と総体主義(肯定的理性)の二つの契機のうち、どちらを絶対的と見るか、どちらを従属的と見るかによって区別しました。
ヘーゲル ―― 絶対的総体主義にもとづく歴史主義
マルクス ―― 絶対的歴史主義に立脚した総体主義
ヘーゲルでは、総体主義(肯定的理性)が絶対的で、歴史主義(否定的理性)は従属的であるのに対して、マルクスでは、歴史主義(否定的理性)が絶対的で、総体主義(肯定的理性)は従属的です。
わたしは「絶対的歴史主義に立脚した総体主義」(マルクス)に対応する「論理的なものの三側面」は、どのようになるのかを考えました。なぜなら、「論理的なものの三側面」は「絶対的総体主義にもとづく歴史主義」(ヘーゲル)に対応していて、そのままではマルクス主義の「論理的なものの構造」論としては有効ではないと思えたからです。この発想が、結果として、ヘーゲルやマルクスとは違った弁証法を構想していくことになりました。
いま、あらためて、マルクスがヘーゲル弁証法の合理的核心をどのように見ようとしていたのかを確認してみると、許萬元の指摘は、マルクス主義としては、正しいことがわかります。
弁証法は、その神秘化された形態においては、ドイツの流行であった。というのは、現存しているものに光明を与えるように見えたからである。弁証法は、その合理的な姿においては、ブルジョア階級とその杓子定規的な代弁者にとって腹立たしい、恐ろしいものである。というのは、それは現存しているものの肯定的な理解の中に、同時にその否定の理解、その必然的没落の理解をも含むものであり、生成した一切の形態を運動の流れの中に、したがってまた、その経過的な側面にしたがって理解するものであって、何ものをも恐れず、その本質上批判的で革命的なものであるからである。(『資本論』第二版あとがき、1873年)
マルクスは、ヘーゲル弁証法の合理的核心を、「生成した一切の形態を運動の流れの中」で理解する立場に見ています。このような捉えかたは、「現存しているものの肯定的な理解の中に、同時にその否定の理解」を過程的・継起的に見ることにもとづいていたと考えられます。
いいかえれば、マルクスは、「弁証法的側面あるいは否定的理性の側面」に、ヘーゲル弁証法の合理的核心を見ています。これは、間違いないと思われます。
許萬元の「絶対的歴史主義に立脚した総体主義」は、マルクスの「生成した一切の形態を運動の流れの中」で理解する立場を正確に受け継いでいると思います。
わたしの試みは、このような「論理的なものの三側面」に立脚した弁証法を克服することにあります。
マルクスや許萬元が、「弁証法的側面あるいは否定的理性の側面」に、そのまま合理的核心を見るのに対して、わたしは「論理的なものの三側面」を解体して組み替えることによって、はじめてヘーゲル弁証法の合理的核心が出てくるのではないかと考えました。
ヘーゲルの定式では、「否定的理性」と「肯定的理性」は、独立した二つの段階となっています。「否定的理性」と「肯定的理性」は、矛盾の論理として直列に結合しています。はじめに「否定」、次に「否定の否定」。「否定」と「否定の否定」が継起的に進行していきます。直列構造が、「論理的なものの三側面」の特徴になっていると思います。
この直列構造こそが、弁証法の神秘化された形態ではないかと思います。これを解体し組み替えるのが、わたしの試みなのです。
ヘーゲル弁証法の合理的核心は、マルクスのことばを借りていえば、「現存しているものの肯定的な理解の中に、同時にその否定の理解」を過程的・継起的ではなく、場所的・同時的に見ることによって、把握できると思います。「肯定」と「否定」を、過程的・継起的ではなく、場所的・同時的に見ていくのです。過程的・継起的に見るとき「矛盾」を避けることができません。場所的・同時的に見るとき、「対話」の可能性が生まれてくるのです。
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