『ロゴスの名はロゴス』のなかで、呉智英氏は「言葉の本体は論理」であると主張している。
言語学にも国語学にも素人の身でありながら、文筆を職業とすることで言葉を追うはめになり、言葉の本体は論理だと知った。ヨハネ福音書冒頭の「初めに言葉ありき」は「初めに論理ありき」とも訳せるのである。言葉の名は論理。(言葉と論理にはそれぞれロゴスとルビがふってある。引用者 注)
この立場から呉氏は日本の言論界に見られる言葉に関する無知を、文化・歴史・国際政治、そして何よりも論理に関する無知と関連させている。
この言葉についてのエッセイは、蘊蓄に富んでいる。それはそれで興味がわき勉強になるのだが、ここで取り上げたのは私のこれまでの試みがこの「ロゴスの名はロゴス」に反映しているのではないかと思ったからである。
私は吉本隆明氏の言語論を手本として「論理的なもの」に対して、自己表出と指示表出という構造を想定した。ここで、「論理的なもの」とは、理系文系を問わず、理論・主張・規定・見解・意見・公式など、なにかについての認識が表現してあるもので、人間の認識を媒介するものを指している。ヘーゲルは『小論理学』で「論理的なものの三側面」という規定を提出しているが、その「論理的なもの」と関連させたものである。
ロゴスの名はロゴス。この同語反復。その心は自己表出と指示表出である。