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掃部ケ岳・杏ケ岳の花

2008年05月27日 | 風香 - 山の花
杏ケ岳の呼び名に関する話題のために、花を紹介するのが遅れました。

途中で見た花たちですが、沼ノ原で見たものも含まれています。



沼ノ原



サクラスミレ(チシオスミレも混在)

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サクラスミレ

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チシオスミレ

葉の葉脈に沿って紅紫色の斑のあるサクラスミレをチシオスミレといいます。

サクラスミレは沼ノ原に多く咲いていたのですが、チシオスミレが結構ありました。

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チシオスミレの葉 / スミレ(マンジュリカ)

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ツボスミレ

スミレは他に、タチツボスミレとニオイタチツボスミレが咲いていました。

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フデリンドウ

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ムラサキエンレイソウ

内花被片が淡紅紫色を帯びるシロバナエンレイソウをムラサキエンレイソウと呼びます。普通のシロバナエンレイソウも咲いていました。

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ミヤマハコベ / クサボケ



ハルナユキザサ - 普通のユキザサより大きくなり、榛名山で発見されたのでこの名がつけられました。花はまだ咲いていません。



トウゴクミツバツツジ



ヤマツツジ

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杏ケ岳山頂の祠

2008年05月25日 | 山歩 - 雑感
杏ケ岳の山頂には石の祠が三基ありました。古い祠が二基、新しい祠が一基です。



右側にあるのが新しい祠です。

南側からの山道を上がってくると、山頂でこの祠の前に出ます。すなわち、この祠を設置した人たちにとっては、南側が表にあたっているわけです。

21年前に私はこの道を逆に下って、最後は旧倉渕村の石津付近に下山しました。(途中の分岐をどう選択するかで最終的に下りる場所は変わりますが・・・)



古い二基の石の祠

写真ではちょっとわかり難いですが、山頂部の地形に対して不自然に少し斜めに向きを変えて設置されています。二基とも同じ方向を向いていますので、意識してこの向きに設置されたものと思います。

向いているのは南西方向で、麓は旧倉渕村です。これらの祠は山の神への感謝と、山の上から見守っていて欲しいという気持ちの表れではないかと想像します。そのような祠ならば、自分たちの住む方向に向けるのが当然です。設置したのは、旧倉渕村の人々である可能性が一番高いというより、他には考えられないと思います。

これらのことからも杏ケ岳の「地元」はやはり旧倉渕村一帯だと思われます。

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もう一つ気になったのが杖ノ神峠にあった石仏です。



杖ノ神峠の石仏

右側に「ニ王門 二十八丁○」(○は写真では判然とせず)とあります。

「二十八丁」とあるように、これは丁石なわけですが、どこへの道標(みちしるべ)なのでしょう。それは当然「ニ王門」への道標ということになります。では、「ニ王門」とは何処か?

これは容易に想像できます。それは榛名神社の随神門です。



榛名神社の随神門(2004年撮影)

この門はかつて「ニ王門」と呼ばれていました。(神社なのにニ王門(仁王門)ということに関しては、話が長くなるので止めます。ちなみに榛名神社には三重塔も存在します。)

杖ノ神峠の西側の地域の人々の榛名神社へのお参りの道だったのだと想像されます。その場合、榛名湖を経由するのは遠回りですから、途中から南に下ったのだと思います。何かでそのような道があったというのを読んだ記憶があります。
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「杏ケ岳」は何と読む?

2008年05月24日 | 山歩 - 雑感
前回の記事で「杏ケ岳」の読み方を示さなかったのですが、普通には「あんずがたけ」とか「きょうがたけ」とかと読まれたのではないでしょうか。

私が、この杏ケ岳を最初に知ったのはある山の本の紀行からでしたが、その紀行では「杏」は「すもも」となっていました。それ以来私はずっと「すももがたけ」と呼んでいます。

今回出かけるにあたって、どう呼ばれているかインターネットでちょっと調べてみました。そうすると、多くの記事が「すももがたけ」ではなく「すもんがたけ」と呼んでいることに気がつきました。両方の呼び名を併記している場合もありますが、杏ケ岳は「すもんがたけ」と呼ぶのが普通になっているようなのです。

今はこのようにインターネットでも簡単に杏ケ岳の情報が得られますが、最初に歩いた頃はほとんど情報が得られませんでした。掃部ケ岳については若干資料があったように記憶していますが、杏ケ岳については紀行の他には何もなかったような気がします。それでも杏ケ岳に向かったのは「すももがたけ」という名前に惹かれてのことでした。

紀行が掲載されていた山の本とは、「静かなる山」(技報堂 昭和53年)で、著者は、川崎精男、望月達夫、山田哲郎、中西章、横山厚夫の各氏です。名前だけは有名ですが怪しい日本語でいい加減な文章を書く岩崎某などと違い、これら各氏の文章は軽く読み飛ばすというわけにはいきません。ですから、「杏」を「すもも」と読んでいるには、それなりの根拠があってのことと思われます。

実際私が現在使用している五万図「榛名山」(平成10年)でも、「杏」には「すもも」とふりがなされています。最新の地図ではどうなのだろうと、国土地理院のサイト「ウォッちず」で見てみると、表記が「杏が岳」ではなく「李が岳」に変わっていて、全体に対して「すもうだけ」とふりがなされています。確認の為に閲覧したのに、予想もしない新しい表記と呼び名に出会ってしまいました。「すもも」ならば、まさに「李」の字が適切なのですが、「すもう」と読むとなると、ますます混乱してしまいます。(私は「杏」の字はいつも「あんず」と打ち込んで漢字変換しています。)

国土地理院が山の名前を決めたり、認定するわけではありませんから、地図の名前が「正しい」というわけではありません。地図が製作される以前から山は存在し、そして「地元」の人達によって古い時代に名前がつけられていたはずです。その当時の名前はおそらく「地元」だけで意味があったのだろうと思います。ですから、同じ山の反対側の各々の「地元」で異なる名前がつけられている場合があります。例えば、秋田県側では乳頭山、岩手県側では烏帽子岳のように・・・。私としては、この「地元」での呼び名を尊重したいと思っています。

杏ケ岳の場合にもそのような「地元」があるはずです。それは、いろいろな推測から杏ケ岳の南西の麓=旧倉渕村になるだろうと思われます。そこで、旧倉渕村(現在は合併して高崎市倉渕支所)に問い合わせをしました。

そしたら、正しい名前は「すももがたけ」で、通称として「すもうだけ」あるいは「すもんだけ」とも呼ばれるが、「すもうだけ」と呼ぶのが一般的である、という内容の返事をいただきました。

「ウォッちず」の表記は一般的であるという「すもうだけ」という呼び名を採用したのだろうと想像されます。こうなると問題なのはインターネット上で一番多く見受けられる「すもんがたけ」という呼び名です。いただいた返事では「すもんだけ」であって、「が」入りません。どうも「すもんがたけ」と呼ぶのは適切ではないということになりそうです。

私は今まで通り「すももがたけ」と呼びます。もともとこの名前に惹かれて歩いた山ですから・・・。

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杏ケ岳だけでなく、「掃部ケ岳」の読みも示さなかったのですが、これは「かもんがたけ」と読みます。難読山名の一つだと思います。

そもそも「掃部」とは何かと調べてみました。すると、掃部寮と同じであり、掃部寮とは、

”律令制下、宮中の儀場の設営や清掃などを担当した役所。また、その職員。もと大蔵省に属する掃部司(かもんのつかさ)と宮内省に属する内掃部司(うちのかもんのつかさ)とが合併して、掃部寮(かもんのつかさ)となり、宮内省に属した。[1988/国語大辞典(新装版)小学館]”

他の辞書でも同じようようなことが書かれています。

しかし、この山が掃部寮と深い関係があるとはちょっと考えられません。「かもん」という呼び名が先にあり、それに「掃部」の字をあてたのだろうと私は想像しています。

調べている中で、横浜に掃部山(かもんやま)というのがあることがわかりました。こちらは、井伊掃部頭(かもんのかみ)直弼にちなんでつけられたそうです。「桜田門外の変」で暗殺された井伊直弼です。
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掃部ケ岳~杏ケ岳

2008年05月22日 | 山歩 - 北関東



- 榛名湖畔から榛名富士 -

久しぶりに掃部ケ岳と杏ケ岳を歩きました。前回歩いたのは21年も前の1987年の早春でした。榛名湖畔から硯岩に寄って、まず掃部ケ岳に登りました。掃部ケ岳からは杖ノ神峠に下りて、そこから杏ケ岳に向いました。そして、杏ケ岳から先は道が少しあやしくなりましたが、味噌玉岩の傍を通り、藪っぽい山道から林道に下り立ちました。この林道は途中完全に崩落している場所があり、しばらく沢沿いに下らざるをえませんでした。そして、最後は倉渕村の石津付近に下山しました。

今回は杏ケ岳までは同じコースですが、杖ノ神峠まで引き返し、湖畔まで戻りました。その後時間に余裕があったので、花を求めて沼ノ原を散策しました。

新緑の山歩きを十分に楽しめましたが、一週間ほど早いほうがもっとよかったかなとも思いました。

行程 【 湖畔~硯岩~掃部ケ岳~杖ノ神峠~杏ケ岳~杖ノ神峠~湖畔~沼ノ原~スルス峠~沼ノ原~湖畔 】

榛名湖の湖畔から歩き始めます。まず、右手に榛名湖と榛名富士を眺めながら、吾妻荘の先の登山口に向かいます。



山道に入り、若々しい緑の中を登っていきます。

途中の分岐を右にとり、硯岩に寄っていきます。



硯岩からの眺め - 榛名湖 / 榛名富士



硯岩からの眺め - 榛名湖 / 三ツ峰山・天目山



分岐まで戻り、新緑の中を登っていきます。



振り返ると新緑越しに、榛名湖・榛名富士が望めます。

21年前も急な笹の中の道を登った記憶があります。



途中展望の開ける場所が何箇所かあります。そこからの天目山の南に連なる山々。



同じく榛名湖の眺め

山頂に到着しました。南側の展望が開けます。

秩父山地や八ヶ岳など肉眼で薄っすらとは確認できるのですが、写真にはとても写りません。



これは山頂からの浅間山。その手前の稜線は鼻曲山から浅間隠山に連なる山々です。

山頂で少し休んだ後、先に向かいます。



新緑の綺麗な道を行きます。



左手には杏ケ岳が望めます。



新緑が相変らず綺麗です。



再び、榛名湖を眺めることができました。



そして、左手には杏ケ岳です。



まだまだ、新緑が綺麗です。

耳岩の先から左に杖ノ神峠に下りていきます。

今回は掃部ケ岳山頂付近から杖ノ神峠への下り口付近までの新緑が一番綺麗でした。

峠への道も笹の中の急な下りだった記憶があります。



下るにつれて、新緑の緑は少しずつ濃くなっていきます。

杖ノ神峠に着きましたが、ここは21年前の記憶と異なっていました。峠道は舗装道路に変わっていました。



峠の石仏と祠 - これだけは変わっていませんでした。

21年前の時の写真は一枚だけあるのですが、それがこの峠で撮ったもので、石仏と祠が写っています。

道路を横切って反対の杏ケ岳への山道に入ります。



相変らず新緑が綺麗です。でも、標高が掃部ケ岳に比べ低いので、若干緑の色合いが濃い感じがします



トウゴクミツバツツジもちらほらと咲いています。

杏ケ岳は峠から三つ目の峰になるのですが、最初の峰には鷲ノ巣山という標識がありました。ここの方が杏ケ岳より少し高いのですが、この山の名前は知りませんでした。



峠から二つ目の峰には古い石の祠が南側を向いて鎮座していました。



そして、峠から三つ目が杏ケ岳です。

三角点と石の祠が鎮座しています。南側を向いた新しい祠と古い祠が二つです。古い二つは山頂の地形からすると不自然な位置で南西側を向いていました。



杏ケ岳山頂から榛名富士方面の眺め



杏ケ岳山頂で一休みしてから、再び綺麗な新緑の道を峠まで戻ります。

杖ノ神峠からは諦めて林道を辿ります。ずーっと舗装道路かと思ったのですが、舗装してあるのは峠付近と勾配の急な場所だけで、あとは未舗装でした。

車も通らずのんびり歩けました。



林道の途中から見た杏ケ岳と鷲ノ巣山 - 鷲ノ巣山の方が立派に見えます。



フデリンドウ - 林道の脇には結構花が咲いていました。



そして、掃部ケ岳の南面の山肌も眺められます。



新緑の緑も綺麗です。

さほど苦にならずに湖畔までの林道歩きが終わりました。

湖畔まで戻ってきましたが、時間的に余裕があったので、沼ノ原まで花を見に行くことにしました。



途中の湖畔東側から眺めた掃部ケ岳



そして、麓から眺めた榛名富士

のんびり花を見ながら沼ノ原を通ってスルス峠まで来ましたが、これ以上は時間的に無理でした。



スルス峠からのスルス岩 - ヤマツツジの蕾が少し開きかけています。



榛名富士を眺めながら再び沼ノ原を歩いて、湖畔に向かいます。



鬢櫛山と烏帽子岳 ・・・



そして、榛名富士を眺めながら、湖畔に戻ってきました。
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ヤマボウシ ・ エゴノキ

2008年05月17日 | 風香 - 山の花
ヤマボウシ と エゴノキですが、これらは山での撮影ではありません。ポタリングの時によく通る遊歩道に咲いていたものです。

【 ヤマボウシ 】



ヤマボウシ - 漢字では「山法師」です。(「山帽子」と書かれる場合もあります)



白い花弁のように見えるのは苞で、これを頭巾に、そして、中心にある花序のつぼみを僧兵の頭に見立てて、法師を連想してつけられ名前ということです。



中心にある花序 - ほとんどつぼみで一部開花し始めています。

秋には実がなり、それをクワの実に見立てて「ヤマグワ」とも呼ばれます。


【 エゴノキ 】



花の姿はたいへん綺麗だと思います。私の好きな花の一つです。



「これ以上は無理でしょう」というほどたくさんの花をつけます。

花は下向きにつりさがって咲きます。
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