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<読書感想文1012>後悔しない意思決定

2010-12-30 23:56:00 | 
繁桝算男,後悔しない意思決定,岩波科学ライブラリー129,2007.


意思決定という,日頃我々が常に直面している問題への処方を「主観的期待効用モデル」という理論にのっとって議論した書である。

主観的効用モデルというのは結局あまりよくわからなかったが,ともかく数理的なモデルである。

第1章で織田信長の桶狭間の戦いや,ハンニバルのローマ侵攻に関する決断といった歴史的に重大な事柄を例として取り上げているので,つかみは大変面白く,議論に惹きこまれていく。

わくわくしながら第2章へと読み進めると,期待効用モデルの詳しい解説があり,一読しただけでは僕にはよくわからなかったものの,章末の「がっかりさの指標」や「残念さの指標」というものの導入の仕方は面白かった。この章をなんとか耐え忍んで読み終えた後,次の第3章へと進んだ。

ところが,主観的効用モデルの公理論的根拠などということを説明し始めたあたりから雲行きが怪しくなってきた。

僕はどうも主観的期待効用モデルの現実問題への適用法を解説したハウツーものを期待していたのかもしれないが,著者の目的はそこにはなかったようで,そうしたモデルを構築することが可能であることの理論的根拠など,原理的な話が中心となり,なんのためにそうした議論を展開するのか,必要性などが全くわからず,どんどん興味が薄れてしまった。

「あの先生,何言ってるかわかんねー。」
「計算法の解説をしてくれるのかと思ったら,なんか小難しい理論を説明し始めたぞ。一体全体どうしたっていうんだ?」

という,おそらく僕の講義を大人しく聞いている学生たちが感じているであろう『温度差』のようなものを,本書を読んでいてひしひしと感じた。

読み手と書き手のベクトルがまったく違う方向を向いていたようだ。

「主観的効用モデルの公理的根拠」というのは,「~と考えるのは妥当だと思われる」という形式の推論の積み重ねで構築されているため,数学の公理(推論の前提として使用してよいとしてあらかじめ与えられる決まりごと,ないしはルール)とは全く異質のものに感じられて,強い違和感を覚えた。
これは科学的なモデルを構築する際の議論の進め方とおそらく同一なものであり,そうした議論にあまり馴染みがないために抱いた違和感であろうと思われる。
ただ,物理学や化学などの自然科学におけるモデルの構築の例には多く親しんでいるわけで,モデルの妥当性等に関する議論に全く馴染みがないというわけではない。
そうした自然科学の場合は,実験や観察をした結果,どうもこういうことになっているらしい,という客観的な事実がモデルを構築する際の根拠となっているため,現実がそうなっているならば認めざるを得ないため,モデルの立て方に異論をさしはさむ余地はほとんどない。というよりも,そういうモデルを立てたとして,それがちゃんと科学的な仮説として妥当かどうかは,理論に基づいて得られた予測値と,実測値とがよい一致を見せるかどうかという検証手段が明確に与えられているため,うまく行けばそれでよし,うまく行かなければ修正すれば済むだけの話なので,モデルの妥当性についてそんなに厳密に構える必要性をあまり感じないのである。このような理由により,自然科学に関しては仮説に対して柔軟かつ大らかに構えていればいいのではないかと思う。

ところが,主観的期待効用モデルというものの妥当性を保証するものが一体何なのか,いまいち釈然としない気がしている。
どうやら「合理性」や「整合性」といった判断基準を満たしているかどうか検証しているようだが,これらの概念は,実際に意思決定をしなければならない我々ヒトの脳の特性と大きくかけ離れているように思えるので,どうも理論が空疎な気がしてならない。むしろ我々ヒトの意思の特性とは,非合理性と非整合性にあるのではないだろうか。つまり我々の考えていることや行いは「矛盾だらけ」なのである。
したがって,どうせなら,非合理的な人間の思惟傾向を踏まえた意思決定理論を考えるべきではないのか,という気がする。といっても,これは本書の「合理的な意思決定とはどのようなものか」というテーマとは大幅にずれてしまっているのだが。

とはいうものの,モデルの妥当性の検証などの抽象的な考察は結構好みなので面白くはあった。中でも,「標準確率実験」なるものを使用して,さまざまな事象の発生に関する主観的確率を決定する,というようなアイデアは,熱力学における,平衡状態にある系の「温度」の定義に似ていて興味深かった。要するに,主観的確率という数値を定めるということは,事象に関する「確率」という数値を測定する,ということに他ならないのだから,基準のものさしを用意して,それと比較して測りましょう,というのは,科学では基本的な考え方だと思われる。

このように見てみると,どうやらこの本は科学の手法を用いて合理的な意思決定を追求することを目指しているので,この本は社会科学の本であるといえよう。ここで「社会科学」という言葉を使ってみたが,実際のところ僕はこの言葉の意味をよく知らない。単にこの語がふさわしいのではないかと思ったまでのことで,ちゃんと定義に基づいてそう読んでいるわけではないのだが。

第4章の「確率評価を磨く」の内容はベイズ推定やモンティホールの問題といった確率の有名な問題が取り上げられていて,面白い題材ばかりである。しかし,巻末の「補足」と合わせて,僕にはなんだかよくわからなかった。これは,僕が確率論が苦手だからというのが最大の要因である。特に「補足」に書いてあることはチンプンカンプンだったので,関連する文献を探し出してじっくり調べたいと思う。

僕が期待していたハウツーの部分は第6章にしっかりとまとめられていた。後悔しないための意思決定のための実践的なアドヴァイスを知りたい人は,この第6章をじっくり読めばよいと思う。
哲人皇帝として知られるマルクス・アウレリウスの『自省録』の抄訳がいくつかちりばめられているのだが,引用箇所に『筆者抄訳』とそえられている。手持ちの神谷美恵子訳(岩波文庫版)と比較してみると,確かに訳文が異なるので,著者はギリシャ語を読めるのかと感嘆した。

総じて,何か非常に面白いことが書いてあったはずだろうが,それを十分に楽しむ読み方がわからなかった,という,消化不良な読後感が残ってしまった。これは電車などで気軽に読む本ではなく,テクストをじっくりと一語一語分析し,研究しながら読むべき本であったようである。
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